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2007年3月 3日 (土)

淮陰侯 韓信

 人間,身の処し方は難しい.特に高い地位にいた人物ほと,世の中の変化に飲み込まれて哀れな晩年を送るケースが多い.ある能力に秀でた者は,その能力が不要な時代になると,途端に取り残されてしまうことになる.紀元前3世紀末の秦滅亡から漢建国にいたる間に活躍した,漢の軍人韓信は,まさにそういう人生を歩んだ典型例である.

 楚漢の興亡は司馬遷の名著「史記」のハイライトのひとつであり,私も大好きな場面だ.楚の項羽との戦いに最終的に勝利した漢の高祖(劉邦)だが,彼自身は決して有能な人物ではなかったようだ.個人的な能力としては項羽の方が遥かに勝っていたであろう(シミュレーションゲーム的にいえば,武力100,統率力95,知力80といったところだろうか).しかし劉邦が勝利することができたのは,彼自身が自分の能力の限界を自覚し,他の有能な人物をうまく使いこなしたからである(劉邦は適材適所の名人である).劉邦の配下のうち,特に優れた3人を「高祖の三傑」と称し,張良蕭何韓信の3人を指す.

Choryo 中国史上稀有な名軍師といわれる張良(河出書房新社 世界の歴史3 中国のあけぼのより)

 張良は戦国七雄のひとつ韓の重臣の家柄に生まれた貴族で,祖国滅亡後は始皇帝の暗殺を計画するなど過激な活動をしていた.劉邦と出会ってからは,その客分として彼の側で主として外交に活躍した(劉邦によると「帷幄のなかに謀をめぐらし,千里の外に勝利を決する」といわれた).蕭何は劉邦と同郷の元下級役人で,法令の虫と言われるほど実務能力に長けていた(秦の都咸陽に入ったとき,他の武将がみな財宝漁りをしているとき,蕭何のみ書庫にあった全国地図や公文書類をかき集めていたという).楚漢攻防戦の間は常に都の長安にいて,劉邦に兵や兵糧・軍事物資を補給し続けたのである(項羽に連戦連敗の劉邦軍が総崩れにならなかったのは,蕭何の功績である).

Shouka 常に前線の兵を餓えさせることがなかったのは,専ら蕭何の功績.(河出書房新社 世界の歴史3 中国のあけぼのより)

 さて残る韓信であるが,淮陰(今の江蘇省)の平民出身と言われている.苦学をして兵法を学んだものの,若い頃は経済的には全く恵まれず,近所の婆さんに食べ物を恵んでもらっていたという.そんな韓信が,ある日町の荒くれ者どもに絡まれた.荒くれ者は「俺の胸を刺してみろ,できなきゃ股をくぐれ」といった.相手は多勢,胸を刺そうとすれば反撃に会い殺されてしまう.韓信は恥を偲んで相手の股をくぐった.これが有名な韓信の股くぐりである.

 韓信は当初項羽に仕えていたが,全く登用されないため,脱走して劉邦の下に行った.ここで蕭何に見出され,彼の推挙で漢軍の大将軍に任命されたのだった(このとき蕭何は「韓信こそ国士無双」と表現した.麻雀の役「国士無双」はこれが出典である).韓信に率いられた漢軍は連戦連勝,たちまち関中(長安を中心とした地域)を奪還する.その後は漢軍主力の指揮を劉邦に渡し,自身は別働隊を率いて北部を転戦した.皮肉にも劉邦の漢軍主力は項羽に大苦戦し,滎陽の線で何度も危機的な状況に陥った.それに対して韓信の軍は趙や燕・斉など北部諸国を順調に攻略していった.こうして紀元前202年の段階で韓信は項羽,劉邦に比肩しうる一大勢力となっていた.この時彼に対して,劉邦の元を離れ,独立勢力として天下を望むよう進言するものがあったが,結局彼は劉邦のために戦い,項羽を破った(垓下の戦い).

Kanshin 蕭何をして,国士無双とまで言わしめた大軍司令官韓信.(河出書房新社 世界の歴史3 中国のあけぼのより)

 楚漢戦争終盤,既に斉王になっていた韓信は,戦後楚王に国替えになった.この時が彼の人生の絶頂期である.いうまでもなく楚は項羽の旧領であり,土地は広く,豊かであった.こういう豊饒の地に用兵の天才とも言うべき韓信が君臨していることは,漢にとっては不気味なことである.更に韓信が,項羽配下の武将鍾離昩を匿っていたことで,高祖の不信を買った.こういう状況下,紀元前201年に「韓信に反心あり」と讒訴するものがあり,彼は捕縛される.これは全くの濡れ衣であったが,楚王から淮陰侯に格下げにされてしまった.この時彼は「飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる」(飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓はお蔵入りになり,兎がいなくなれば猟犬は食べられてしまう)という,戦国時代の軍師范蠡の言葉を引用して高祖をなじったという.

 高祖の仕打ちに不満を募らせた韓信は紀元前196年に今度は本当に謀反を計画したが,これは事前に知られるところとなり,捕らえられ処刑されてしまった.死に望んでの最後の言葉は「蒯通の勧めに従わなかったことが残念だ」(楚漢戦争の最終盤,蒯通は韓信に劉邦の下を離れることを進言したが,劉邦への義理を感じていた韓信はこの進言を拒否した),であったという.

 韓信はその功績が大であるだけに,後半生の転落ぶりが悲劇的である.日本での源義経のようなものであろう.時に主君を越える能力を持つものが,主君に疎まれるのは世の習いである.あれほど気前が良かった高祖が,漢帝国成立後,人が変わったように疑心暗鬼になり功臣の粛清を行ったのも,その一例である.それだけに,家臣としては疑われないよう細心の注意を払うべきだろう.

 三傑の他の二人はその点はしっかりしており,張良は,楚漢戦争終了後すぐに故郷の留に引退して,政治の世界にかかわることなく,高祖の粛清を免れた.蕭何の場合その立場はより危険であった.彼は楚漢戦争中常に都にあって,内政に手腕を発揮していた.その気になればいつでも劉邦に取って代われる地位にあったわけである.そのため彼は,劉邦に無用な嫌疑を受けぬよう,自分の一族の男たちの中で従軍できそうなものを片っ端から戦地に送ったり,時には都でわざと悪政を行い,自分の評判を落とすなど涙ぐましい努力をしている(戦地にいた高祖は,蕭何が賄賂を取っているというウワサを耳にして安心したという).

 韓信の場合功績は抜群ながら,「これだけの功績がある自分が罰せられるはずがない」という驕りというか,世の中に対する甘さがあったと言われても仕方がないであろう.

 追) 楚漢の攻防については,司馬遼太郎の「項羽と劉邦」も名著だが,個人的にはこの作品に出てくる韓信が,なんか覇気がないというか,意識が悪そうな感じでなじめないのであった.

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