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2006年12月19日 (火)

三大レクイエム

 NHKの「毎日モーツァルト」,いよいよ昨日からレクイエム 二短調K.626に突入した.この曲はモーツァルト最後の作品となった未完の曲である.レクイエムは別名”死者のためのミサ曲”とも呼ばれる,カトリックの典礼音楽である(歌詞が"Requiem aeternam ~"で始まるためRequiem(レクイエム)と呼ばれる).

 古くから多くの作曲家によって曲がつけられており,モーツァルトのものは特に有名である.俗に”三大~”という言い方(三大うどん,三大鍾乳洞,三大ガッカリ観光地 etc.)があるが,三大レクイエムといった場合

 ① モーツァルトのレクイエム

 ② ヴェルディのレクイエム

 ③ フォーレのレクイエム

以上の3つを指す.三者三様,同じ歌詞(厳密に言えば若干の違いがある)に曲がついているとは思えないくらいそれぞれ特徴のある名曲である(私は東北大混声合唱団時代,①と③はやったことがある).ちなみに五大レクイエムといった場合には,上記3つに”ケルビーニのハ短調レクイエム”,”ベルリオーズのレクイエム”,”デュリュフレのレクイエム”のうち適宜2つが加わる.また,ルネサンス期の作曲家であるオケゲム,ラ・リュー,ラッススのレクイエムも個人的には好きである.さらに変わったところでは,先日仙台に行った際に再会した友人のY氏による”モノラル三大レクイエムなんてのもある.これは,ワルター指揮のモーツァルトのレクイエム,トスカニーニ指揮のヴェルディのレクイエム,フルトベングラー指揮のブラームスのドイツ・レクイエム(尤もこの曲はラテン語のカトリックの典礼文に曲がついたものではないが)の3つを指す.

 いずれにせよ,古今のレクイエムの傑作のひとつであるモーツァルトのレクイエムはまた,多くの謎に包まれた作品でもある.作曲依頼の経緯もさることながら,モーツァルトの死後の補弼の経緯も謎に満ちている.作曲の経緯は1791年夏に匿名の貴族の使いがやって来て作曲を依頼したといわれており,この依頼主はフランツ・フォン・ヴァルゼック=シュトゥパハ伯爵であることがわかっている.彼は人に書かせた作品を自分の作品として演奏する人物だったらしい(最近では,借金に苦しんでいたモーツァルトを救うためこの依頼が行われたという説もあるが).

Mozreqcor M. コルボ指揮のモーツアルトのレクイエム.個人的には一番好きな演奏です.

 作曲の依頼は受けたものの,この時期モーツァルトは忙しく,歌劇「魔笛」,歌劇「皇帝ティトスの慈悲」,クラリネット協奏曲の作曲に忙殺されている.結局レクイエムの作曲が本格化したのは1791年10月以降であったと思われる(その後もフリーメイスンのための小カンタータK.623を作曲している.この曲が完成されたモーツァルト最後の作品である).この頃既にモーツァルトは過労からか体調を崩していた.作曲は思うように進まなかったであろう.結局彼は11月20日に寝込んでしまい,その後再び起き上がることは出来なかった.

Mozreqhar Mozreqhog

左 1981年当時物議を醸し出したアーノンクールのCD 右 モーンダー版によるホグウッドのCD

 モーツァルトの死因については当時の記録では「急性粟粒疹熱」とされている.これは今で言えば「リウマチ熱」といわれる,溶連菌による感染症である.発熱,関節痛,湿疹や急性腎不全も引き起こす厄介な病気だ(記録でモーツァルトの手足がむくんできたとあるのは,腎不全の症状と考えられる).現代であれば抗生物質による治療があるが,当時はそんなものはなく致死率の高い疾患であった.

 こうしてレクイエムは未完のため遺され(続唱の終曲,ラクリモサ(涙の日)の8小節目が絶筆といわれる),弟子のジュスマイヤーによって補弼されたのである(モーツァルトは必ずしもテキストの順番どおりに作曲したわけではないため,ラクリモサの8小節以後全てがジュスマイヤーの補筆というわけではなく,その後の奉献唱にもモーツァルト自身の曲は残っている).

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