« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »

2006年11月28日 (火)

レオポルド・ブログ

 大作曲家W. A. モーツァルト生誕250年の今年,NHKBSで「毎日モーツァルト」という10分間番組を放送しており,好評を博しているようだ.案内人に人気俳優の山本耕史さんを起用していることも人気の理由のひとつと思われる.この番組と連動する形で,夏頃に開設されたのが”アマデウス・ブログ”である.これは,”もし18世紀後半にインターネットがあって、Blogが普及していたら…” モーツァルトはこんなブログを書いていたのではないか,というコンセプトで創められた,一種の知的な遊びである.

 モーツァルトに関しては,膨大な書簡が残されており(中には品性を”?”ものも… 笑),それを分析することによって,こんな性格だったんだろうということも判っている(結構自尊心が高い割りには,人がよくて寂しがり).このアマデウス・ブログはそういったモーツァルトのキャラクターを生かしつつ,当時の出来事を面白おかしく書いている.

 そこで考えたのだが,もし18世紀後半にインターネットがあって,ブログが普及していたら…,アマデウスの父,レオポルド・モーツァルトもまた,ブログを書いたんじゃないかということである.題して”レオポルド・ブログ”である.彼の性格から考えて,こんなブログになったんじゃないかと思う.

レオポルド・ブログ

1781年9月1日

ウィーンの息子のこと

Leopold  こんにちはモーツァルトです.今日はウィーンに住んでいる,私の息子の話です.

 私の息子は”ヴォルフガング=アマデウス”といいます.小さい頃から結構音楽の才能があって,父親の私が言うのもなんですが,これは大物になると思ったものでした.そこで,この子にはなるべく多くの音楽の経験をさせたいと思い,ヨーロッパ中を巡って勉強させたのです.私もサラリーマンですから決して裕福ではないんですが,この子のためと思い何とかお金を工面して頑張りました.時にはあの子に曲芸まがいの演奏をさせてお金をもらったこともありましたが…(泣).

 そんな甲斐あって,あの子も立派に成長し,最近まで私と一緒に,ここザルツブルグの宮廷楽団員として働いていたんです.あの子は作曲が得意で,教会で演奏するミサ曲や交響曲など,結構いい曲を作っていました.親バカといわれるかもしれませんが,私にとっては自慢の息子です.

 ところが,そんな息子が今年のの5月にザルツブルグの大司教であるコロレド卿と喧嘩して出て行ってしまったんです.私もなんとか大司教にとりなして,あの子にも謝るように言ったんですよ.そしたら「自分にもプライドがあるから許せない」とか,「これを分かってくれないなら,もうお父さんじゃない」なんて言うんです.まぁ以前からあの子は「こんな田舎じゃ何もできない」とか,「自分はオペラが書きたい」とか,いろいろ不満があったようですが,世の中には秩序というものがあるわけで,若いあの子にはまだ分からないんですかねぇ.もしかしたら小さい頃から甘やかしすぎたんじゃないかと反省している今日この頃です.

 そんなわけで,息子アマデウスは今ウィーンに住んでいます.クラヴィーアの教師をやったりして,なんとか一人で生活できているようで,父親としては一安心ですが.できるなら故郷に帰ってきて欲しいものです.

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年11月27日 (月)

メモリアルイヤー

 今年2006年はモーツァルト生誕250年の記念イヤーというわけで,巷でもかなりの盛り上がりを見せている(ショスタコービッチ生誕100年の方は,ロシアのプーチン大統領の肝いりもありながら,全く盛り上がっていない).テレビでもNHKの「毎日モーツァルト」をはじめ,民放でもモーツァルト特番を放送していた.我が家でもKが大のモーツァルト好きということもあり,「毎日モーツァルト」をそれこそ毎日見たり,モーツァルトのCDや書籍の購入,さらにはモーツァルトが活躍したウィーンやザルツブルグに実際に行ってみるなど,モーツァルトがらみのイベントが多い年であった.

 しかし,始めがあれば終わりがあるのたとえ通り,モーツァルトメモリアルイヤーも残すところあと1ヶ月である.毎日モーツァルトでもいよいよラストイヤーの1791年の話題になっている.うちのKなどは「これほど過ぎてしまうのが寂しい年はない」などといっている(勿論来年になったからといって,モーツァルトが無くなってしまうわけではないが).

 さて,モーツァルトに沸いた2006年に続く,2007年にはどんなメモリアルがあるのだろうか?挙げてみよう.

 1. 井上靖,淡谷のり子,中原中也生誕100年(1907年) えーっ!淡谷のり子と中原中也って同い年だったの?

 2. ヘーゲルの「精神現象学」執筆200年(1807年) 我々一般人にはとても最後まで読めない本ですが…….

 3. 唐滅亡1100年(907年)  李白・杜甫・楊貴妃で有名な唐王朝が滅亡して1100年 

 4. ビザンチン皇帝コンスタンチヌス10世生誕1000年(1007年) 一番きりがいい.でも誰も知らない(泣).

 5. 法隆寺創建1400年(607年),同じく聖徳太子の国書を持った小野妹子が隋の煬帝を怒らせて1400年(いわゆる「日出づる処の天子~」の国書) これはすごい事件だ!

 6. 諸葛亮孔明デビュー1800年(207年) 三顧の礼を受けた諸葛亮が劉備の軍師になる(これもすごい事件.ちなみに劉備の子劉禅が生まれたのもこの年).

 7. 後漢の蔡倫没後1900年(107年) 紙の発明者です.

 8. 倭の奴国王が後漢の皇帝から倭奴国王印を授けられて1950年(57年) 有名な金印です.

 9. 聖山事件2500年(紀元前494年) 古代ローマで起こった貴族と平民の争い(世界史で習った.懐かしい).

 10. ソロンの改革2600年(紀元前594年) 古代ギリシャの有名な政治改革.

 音楽関係のネタがないのが残念ですが,一番の話題は諸葛孔明デビュー1800年でしょうか(ビザンチン皇帝を名乗るものとしては,コンスタンチヌス10世生誕1000年も捨てがたいが…).来年は三国志で盛り上がりますか(笑).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月24日 (金)

晩秋の京都 番外 ~ヴィンシャーマン編~ 

 11月18日アーノンクールのメサイアを鑑賞し,先斗町で夕食をとった我々はそのままホテルに戻った.

 開けて19日朝は6時半に起床し,急いで朝食を摂りホテルをチェックアウトする.引き続き京都見物をしたい気は満々であったが,この日はどうしても,昼までに盛岡に帰らなければならない.私の所属する合唱団(盛岡バッハ・カンタータ・フェライン 以下MBKV)で来年1月に行われる演奏会(J. S. バッハのヨハネ受難曲)で指揮をする,ヘルムート・ヴィンシャーマン氏が盛岡にやってくるからである(普通の練習を10回休むより,この練習1回休む方が罪が重そうだ).練習に辿り着くために,朝8時に京都駅を出発する,伊丹空港行きのリムジンバスに乗りこむ.

 バスに乗ると,早起きの影響でものすごく眠くなってくる.途中ほとんど寝ている状態であった.朝早いためか,40分くらいで空港に辿り着いた(他の客が「今日は早いな」といっているところから,かなり早く着いたらしい).前日バス停を下見に来た際には係員のおじさんに「道路が混むから,出発の2時間前のバスに乗らなきゃダメだ」といわれていたため,気合を入れて早起きしたのだが‥‥.

 チェックインは機械で行うためあっという間である.その後荷物を預けても,まだ時間が1時間位あり,空港のラウンジで時間をつぶすことにした.

 飛行機は予定より10分くらい遅れて出発した.この日は伊丹-仙台間のフライトを利用した.距離的には伊丹-花巻便の方が便利なのだが,本数が少ないのと,仙台便の方が値引き切符が多いので結果的に安いからである.国内便なので,それこそ「あっという間に」仙台に着いた.空港からはバスで仙台駅に行き,下りの”はやて”に乗り換えて,盛岡に着いたのは13時22分であった.盛岡駅から練習会場に直行すると,既に練習が始まっている.我々も中に滑り込んで参加した.

 そして2時ごろ,いよいよヴィンシャーマン氏が登場した.H. ヴィンシャーマン氏は元著名なオーボエ奏者で,現在はドイツ・バッハ・ゾリスデンという主にバロックを演奏する,室内管弦楽団を主催している,バッハ演奏の巨匠のである.1920年生まれであるから今年で86歳になる.が,とてもそうは思えないほど若々しく,背筋もまっすぐだ.昨日京都で見たアーノンクール氏(1929年生)より9歳年上で,さらに何と,1981年に急死したカール・リヒター(1926年生)よりも6歳年長である(要するにリヒターが若くして亡くなったということである).ついでに言うと,ヴィンシャーマン氏とドイツ・バッハ・ゾリスデンの日本での活動を仕切っているのが,梶本音楽事務所で,くしくも今回来日しているアーノンクールと同じである(ヴィンシャーマンもアーノンクールも日本に来ると,休む暇もなく演奏をさせられていることから,私やKは梶本音楽事務所のことを”山椒大夫事務所”と呼んでいる 笑).

Vin1 合唱団を指導するH. ヴィンシャーマン氏

 私がMBKVに入会した1997年以降,ヴィンシャーマン氏とは,1998年盛岡でのロ短調ミサ,1999年のドイツでのロ短調ミサ(Kは参加したが,私は不参加),2001年の盛岡でのクリスマス・オラトリオ,2003年の盛岡と東京でのマタイ受難曲と度々共演させていただいている(それもすごい話だが).今回のヨハネ受難曲で,バッハの四大宗教曲が完結するわけである.それだけに会員の気合も入っているのだが,ヴィンシャーマン氏の練習は熱が入って密度の濃いものであった.氏の手は,昔Jリーグ清水エスパルスにいた,GKのシジマールのようにでかいのだが,このでかい手を大きく振りながら指揮をするのである.時にテンポが大きく変わることもあり,楽譜ばかり見ていると,たちまち周囲とずれてしまう.こんなときは,顔から火が出るほど恥ずかしい思いをする.何とか本番までに暗譜しなくてはと思うのであった.

 練習後は盛岡駅前の店で懇親会となる.ヴィンシャーマン氏はにこやかに,合唱団員一人一人と握手をしながら盛岡の滞在を楽しんでいるようだった(私とKはその後,有志で二次会になだれ込んだ).こうしてビザンチン皇帝の怒涛の京都編が終わったのである.

Vin4  懇親会にて.合唱団員に囲まれるヴィンシャーマン氏.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月21日 (火)

晩秋の京都Ⅱ ~アーノンクール編~

 木屋町通りで幕末の史跡を見て回った我々は,遅い昼食をとった後にホテルに戻った.いよいよアーノンクールである.26年ぶりに日本で演奏するアーノンクールに敬意を表して,パリッとした服装に着替えて出かけた(さすがに今年のザルツブルグ音楽祭で,同じアーノンクール指揮のフィガロを観劇した山本耕史氏みたいな,格好いい服は着られなかったが… 笑).

 会場である”京都コンサートホール”は地下鉄「北山駅」下車後,徒歩数分の距離であった.駅で降りると,我々と同じ目的と思しき人々が三々五々歩いている.これら人の波について行くと,なにやら巨大な建物が.あれが目指すホールと思われた.

Kyoto1 京都コンサートホールの外観.丁度小雨がぱらついてきました.

 会場の前では,”チケット譲ってください”と書かれた紙を持った若い人が数名立っていた.「すまぬ.我々も聴きたいのだ」とそのまま通過した.

 中に入るとすでに大勢の人でごった返していた.年配の人も多かったが,意外に若い人も多い.決して安くないチケットだが,この日のために頑張って貯めたのだろう.我々の席は3階席である.音的には問題ないが,アーノンクールを見るにはちょっと遠いのが難点であった.

 午後5時本鈴が鳴って,まずはオケ,次いで合唱団が入場してきた(合唱団,オケの順番のほうが一般的だが).チューニングの後ソリスト,指揮者の入場となる.4人のソリストに続いていよいよアーノンクールが入場してきた.場内の拍手も一段と大きくなる.

Kyoto2 京都コンサートホール内部の様子.

 演奏は比較的静かに始まった(最初のシンフォニアはゆっくりしたテンポであった).アーノンクールの演奏といえば,あの独特のアクセントが有名である.特に1981年のモーツァルトのレクイエム(バイヤー版)の録音は,あまりに衝撃的で当時物議を醸し出したものだった.しかし,演奏スタイルは時期によって変化するのが当然であり,アーノンクール自身も年とともに新しいことを考えたり,発見したりするわけで,「アーノンクールの音楽はこうだ!」式の議論が不毛であるのは言うまでもない.この日の演奏も,昔のアーノンクールのような,「ザクッ,ザクッ」という突き刺さるような造りは少なかった.10月に放送された例の”毎日モーツァルト”の特番で出てきた,今年のザルツブルグ音楽祭のフィガロの序曲のテンポが意外に遅いのに驚いた私だったが,この日のメサイアも冒頭のシンフォニアからゆったりとしたテンポで進んでいった.アーノンクールらしさといえば,第2部の終曲(ハレルヤコーラス)がピアノから始まって,クレッシェンドしてフォルテシモに至ること(一般には最初からフォルテで始まるパターンが多い)や,曲の途中でテンポがどんどん変わっていくことであろうか(ハレルヤコーラスでいえば,後半の"King of Kings, The Lord of Lords"はゆっくり,それと掛け合いになる"Hallelujah"はアップテンポなど).

 合唱はアーノルド・シェーンベルク合唱団.技術的にはかなり高い合唱団である(アーノンクールのあのテンポやアクセントについていけるのだから並の合唱団ではない).アーノンクールは1970年代まではウィーン少年合唱団とウィーン合唱隊という男ばかりのコーラス(この方がオリジナルに近い)を用いていたが,1980年代から現代風の女声を使うようになっている.この理由として当時我々の間では,アーノンクールがウィーン少年合唱団の子供たちが言うことを聞かないため嫌になったからとウワサされていた(真相は不明).

Panfu_1 演奏会パンフです

 ところでヘンデルのメサイアは,バージョンの多彩なことでも有名である.この日の演奏がどの版になるのか,無学な私には判りかねたが(誰か教えてください),気づいた点は以下の通りであった.

 ・第1部,第6曲のアリアがアルトだった(この曲にはバス版,ソプラノ版もある).

 ・第1部後半のPifaが短縮バージョンだった.

 ・第2部前半のAccompagnato ~ Ariosoがソプラノだった(普通はテノールが歌うことが多い).

 ・第2部後半のアリア(Thou art gone up on high.)がアルトだった(バス版の場合もある.リヒターの演奏など).

 ・第3部の有名なバスのアリア(通称ラッパのアリア)の歌詞割りが一般のものと異なっていた("the dead shall be raised incorruptible"の部分.私の記憶が確かなら,ホグウッドの捨子養育院版の演奏と同じ歌詞割りだったように思う).

 演奏そのものは,(合唱が時に不安定だったり,急遽代役となったバスの若いソリスト(なんと1980年生まれ!)が,慣れない異国での極度の緊張のためか,曲が落ちてしまった箇所があったのを除けば)素晴らしいものであった.残念だったのは,最後のアーメンコーラスのカデンツが完全に終わらないうちに拍手を始めた人がいたことであった.さすがにその瞬間,会場内が気まずい雰囲気になったためか,すぐに止めてくれたが,「せっかくの演奏を,せめて余韻ぐらい楽しもうよ」と思ったのは私だけではないだろう.

 演奏終了後カーテンコールがあったが(宗教曲でありアンコールは無い),全てが終わって,オケや合唱団が皆退場した後も拍手が鳴り止まなかった.すると,なんとアーノンクールが独りステージに登場したではないか.客席で帰り支度をしていた我々も驚いたが,会場内さらに大きな拍手に包まれた.アーノンクールのサービス精神に感動した私であった.

Kyoto3 ニコラウス・アーノンクール(左端).今年で77歳になるはずですが,2時間半の演奏会中立ちっぱなしでエネルギッシュに指揮をするなど,年齢を全く感じさせませんでした.

 演奏会後,私とKは先斗町に繰り出してアーノンクールの余韻に浸りつつ夕食にしたのだった.

Ponto1 夜の先斗町です.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月20日 (月)

晩秋の京都Ⅰ ~幕末編~

 この週末京都に行ってきた.最大の目的は来日中のニコラウス・アーノンクール指揮のメサイア演奏会を聴くためである.当初は,ついでに晩秋の京都観光と洒落てみたかったのだが,コンサート翌日の11月19日に盛岡で絶対に休めない重要な練習が入っていたため,結局京都滞在はわずか24時間になってしまった.

 前日11月17日の夜,仕事を片付けた後,自動車で盛岡に行った.駅前に車を置いて,こまちで秋田に行く(ウチのKはこまちに乗るのは初めてだと言っていた).秋田から寝台特急「日本海4号」に乗って,一路京都を目指す(京都行きのルートは,この「日本海」を使うコースと,東京まで行って急行「銀河」(10月の山陰遠征で使った列車)を使うコースがあるのだが,どっちがいいかKに聴いたところ即座に「日本海!」といわれてしまった).日本海4号は普通のB寝台車を基本にして1両だけA寝台車「シングルデラックス」が付いている.今回我々はこのシングルデラックスを利用した.

Nihonkai2 秋田駅に入線する寝台特急「日本海4号」

Nihonkai1 Nihonkai3

 日本海4号シングルデラックスの中です.

 日本海のシングルデラックスは1両に10室,シャワー室も付いたA寝台である.内装的には「サンライズ瀬戸」,「サンライズ出雲」にはかなわないものの,「はやぶさ」,「富士」のシングルデラックスよりははるかにマシである(実は,昔東京-下関を結んでいた寝台特急「あさかぜ」のシングルデラックスがこの「日本海4号」と同じものである).我々はビールを飲み,モーツァルトを聴きながら優雅(?)に寝台列車の旅を楽しんだ.

 翌朝9時40分に京都に到着,我々はまず明日利用する,伊丹空港行きのバス乗り場を確認した(京都駅の南口にあった.地下鉄京都駅のホーム一番南のエスカレーターから行くと近い).その後,今日の宿舎であるアランヴェールホテル京都(地下鉄五条駅近く,最上階に展望大浴場がある)に行き,荷物を預けて活動を開始した.

 アーノンクールのコンサートが夕方5時から始まるため,我々に与えられた時間は4~5時間しかない.この限られた時間を有効に使うため,今回は鴨川近く,木屋町通りを中心に攻めることにした.

 木屋町通りは鴨川と高瀬川の間にある狭い通りである(それだけに昔の風情を残した通りであるが).幕末にはこのあたりには長州藩邸などがあり,主に長州系の志士が活躍した地域である.そんな木屋町通りと四条通りの交差点付近には,まず有名な古高俊太郎の枡屋跡がある.元治元年(1864年)6月5日朝,かねてからこの店が怪しいとにらんでいた新選組が枡屋を襲撃し,主人の古高俊太郎を捕縛したところから池田屋事件が始まる.屯所に連行された古高は,土方歳三の拷問(逆さづりにして,足の甲から五寸釘を打ち,突き抜けた反対側に百目ろうそくを立てて火を付けるというもの.流れしたたる蝋が傷口に流れ込み,その苦痛は想像を絶する)によって,クーデター計画を白状した.それは,風の強い日に御所に火をつけ,あわてて参内してきた京都守護職松平容保(会津藩主)らを殺害,その混乱に乗じて天皇を長州に連れて行こうというものすごい計画であった(もしこれが実現していれば,ローマ教皇のバビロン捕囚と並ぶ大事件として史上語り継がれたであろう).

Hurutaka3 古高俊太郎の碑

Hurutaka2 Hurutaka1

枡屋の跡地はなにやら料理屋になっています.

 しかしこの計画は古高の自供によって新選組の知るところとなり,彼らは直ちに行動を開始する(この辺のフットワークの軽さが,新選組の魅力でもある.一般に日本の組織は根回し等に時間をかけすぎて時期を逸するパターンが多い).同日夜には,古高が捕らえられたこと対する浪士側の対策会議が池田屋で開かれ,そこに新選組が急襲をかけたのである.この池田屋跡は今はパチンコ店になっている(風情もまったくない).

Ikedaya2 明治維新が1年遅れたといわれる池田屋事件の碑(池田屋騒動と称されているのがもの悲しい).

Ikedaya1 今の池田屋はパチンコ店になっています(泣).

Sinsen2 Sinsen3

高瀬川にはなにやら放り投げられたような自転車が.いったいこれは‥‥

Sinsen4 Sinsen1

道路にはなにやら駐輪禁止の看板が.も,もしかして,これは新選組によって切り捨てられた不逞自転車だったのか(笑).

 その他,この周辺には佐久間象山暗殺の碑,大村益次郎(長州藩士.徴兵制を導入し,日本陸軍生みの親といわれる.戦術家としても有名.ただ,彼が早くに暗殺されたため,後の陸軍は同じ長州藩士の山縣有朋が主導するようになり,今も知られる旧日本陸軍らしくなっていく)暗殺の碑がある.

Oumura 佐久間象山の碑と大村益次郎の碑は同じ石版に彫られています.

 幕末のスーパースター坂本龍馬が暗殺された近江屋もこの辺にある(近江屋跡は旅行代理店になっている).この近江屋は土佐藩邸と目と鼻の先にあり,龍馬は自分の出身藩邸のそばで殺されたことになる(やはり脱藩者の立場は厳しかったのだろうか).また,龍馬が当時投宿していた材木屋の「酢屋」もすぐ近くである.酢屋の二階では坂本龍馬ゆかりの品々が展示されていた(海援隊の日誌など当時の貴重な文書もあった).案内してくれたお店の方が,「坂本龍馬が殺されたのは慶応三年のちょうど三日前,11月15日なんですよね」といっていたが,それを聞いて気が付いたのは「そうか,今日は11月18日,油小路で新選組を脱隊した伊東甲子太郎や藤堂平助が死んだ日だ」ということであった.

Oumiya1 坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡.現在は旅行代理店になっており,往年の面影はありません.

Suya2 Suya1

当時坂本龍馬が投宿していた店はいまでもあります.今の主人は当時から数えて4代目だそうです.

 その他この地域には桂小五郎が幾松と潜んでいた場所や長州藩邸跡(いまは京都ホテルオークラになっている)などがあった.我々は,是非伊東甲子太郎が死んだ油小路(七条油小路から本光寺前.新選組の襲撃を受けた伊東はここで「奸賊ばら!」と叫んで絶命したという)も是非行きたかったが時間がなく断念した(次回京都に行ったら必ず行く!と決意した私だった).

Katsura2 Katsura1

桂小五郎が潜んでいたところは今は料理屋になっています.京都ホテルオークラ前には桂小五郎の像が立っています.

 時間がきたためホテルに戻り,いよいよアーノンクールであった.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月16日 (木)

オーストリアとオーストラリア

 昨日,とあるブログを見ていたら,在日オーストリア大使館が「Österreich」の日本語表音表記を 「オーストリア」 から 「オーストリー」 と変更する旨を発表したとの記事が書いてあった.

 そこにあったリンクからオーストリア大使館のHP(Österreich日本語表音表記の変更について (PDF) )に入って行くと,

 残念ながら、日本ではヨーロッパに位置するオーストリアと南半球のオーストラリアが混同され続けております。

この問題に対し、大使館では過去の文献などを参照し検討を行った結果、Österreichの日本語表音表記を 「オーストリー」 と変更する旨、ご連絡差し上げます。

 とのことであった(原文をそのまま引用しました).

 これまで幾度となく「オーストラリア」と間違われてきた屈辱が,ひしひしと伝わってくる文章である.たしかに「オーストリア」と「オーストラリア」はよく間違われる.しかも「オーストラリア」を「オーストリア」と間違う事例はほとんどなく,一方的に「オーストリア」が「オーストラリア」と間違われるのである.オーストリア旅行に行ってきたと知人に話した際,「カンガルー見た?」と聞かれた経験のない人は皆無だろう(逆にオーストラリアに行ったのに,「モーツァルトでしょ」と言われた人はいないと思う).おそらくオーストリア大使館員やその家族もことあるごとに,”カンガルー”や”コアラ”の話題を振られて,屈辱的な思いをしてきたに違いない.

 しかしながら,大使館が宣言したからといって,直ちに「オーストリア」表記が「オーストリー」に変わるのだろうか.大使館は,「暫くの間はオーストリアとの併記が行われますが、徐々に「オーストリー」の名前は日本の皆様の間に浸透し、定着していくことと存じます。」と自信満々だ.まずは文科省あたりが,学校の教科書を変えていかないと駄目だろうと思った.数年後「オーストリー」の表現が定着するかどうか見守っていくことにしよう.

Austt 今年ウィーンで購入したTシャツ.「オーストリアにはカンガルーはいません」と書いてあります.これから察するに,「オーストリア」と「オーストラリア」の間違いは日本だけでなく,国際的な広がりを持っているようです.

 ついでに,だいぶ昔になるが在日ニュージーランド大使館が,「アメリカやイギリスなど主要国には漢字による国名(アメリカ=米,イギリス=英 など)があるのにわが国にはないのは遺憾である(特に隣国オーストラリアですら”豪国”という表記があることに焦りを感じていたらしい)として,検討の結果「乳国」という表記(ニュージーランドの”ニュー”に引っ掛けて.また乳製品の国という意味もあったらしい)を考え出して,普及させようと頑張っているという新聞記事を見たことがある.しかしその後「乳国」という表記にお目にかかっていないことから,この計画はうまくいかなかったようである(これに従うと,日本とニュージーランドの首脳会談は”日乳首脳会談”,ニュージーランドを訪問することは”訪乳”ということになってしまう).

 ちなみに漢字表記のある国は,上記の米英のほかには,フランス=仏,ドイツ=独,イタリア=伊,オランダ=蘭,オーストリア=墺,スペイン=西,トルコ=土,カナダ=加,オーストラリア=豪,メキシコ=墨,フィリピン=比などがある.旧ソ連はカタカナの”ソ”表記が多かったが,戦前は”蘇”も使われていた.またロシアは昔は”露”だったが,ソ連崩壊後のロシアはカタカナの”ロ”表記されることが多い.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月15日 (水)

モーツァルトと坂本龍馬

 地元出身の有名人を使って地域振興を図るのは,世の東西を問わない.私の地元岩手では,宮沢賢治石川啄木が良く引っ張り出される.隣県の仙台市では伊達政宗が,東京の日野市では土方歳三が,鳥取県境港市ではゲゲゲの鬼太郎(水木しげる氏)が有名だ.しかし,その中でも高知の坂本龍馬ほど,地元・訪問客の双方から熱く語られる人物はいないだろう.

 高知を訪れたことがある人にはわかると思うが,高知における坂本龍馬の存在は絶大である.市内,特に桂浜に行くと龍馬の銅像がデンと構えており,一方土産物屋はひたすら,「龍馬,龍馬,龍馬」のオンパレードである.キャラクターグッズもTシャツや携帯ストラップから,ビールに至るまでなんでもある.おまけに空港まで“高知龍馬空港”と命名されており,高知人の龍馬にかける思いの強さが偲ばれる.おそらく,地元民の期待の高さでは日本一ではないかと思う(2006年は大河ドラマに山内一豊が取り上げられたこともあり,高知城などでは,一豊やその妻千代も露出しているが,存在感としては,坂本龍馬の足もとにも及ばない.個人的には一豊より,幕末の土佐藩主山内容堂のほうに関心がある).Ryouma2_1

Ryouma3_1

桂浜の土産物屋はこの通り,「龍馬!龍馬!龍馬!」である.左の写真にある龍馬ラーメン・うどんって一体….

海外においても状況は似たようなもので,お隣の中国の成都では三国志の英雄,関羽が祭られている.また.泰山の近くでは,孔子の子孫が観光客相手に,論語の一節を色紙に書いて売るという商売をやっているらしい(これは,作家の棟田博氏の著作,続・陸軍よもやま物語に出てくるエピソードである).

ヨーロッパではドイツのライプツィヒのバッハや,同じくドイツのハーメルンでの笛吹き男(現地ではネズミ捕り男というそうです.ねずみ男ではありません 笑)などが知られているが,何といっても凄いのは,ザルツブルグのモーツァルトである.特に今年は生誕250年ということで,ザルツブルグの街は完全にモーツァルト一色になっている(10月に放送された,NHKの“毎日モーツァルト”の特番でも,ザルツブルグを訪ねた山本耕史が「それにしても,どこを見渡しても“モーツァルト”,“モーツァルト”」と感心しているのか,呆れているのかよくわからないことを言っていた.私も今年の夏ザルツブルグを訪れたが,やはり街中が“モーツァルト”,“モーツァルト”であったのは強く印象に残っている(空港名まで“ザルツブルグW.A.モーツァルト空港”であり,この熱の入れようは高知の坂本龍馬そっくりだ).

Moz2

Moz5_1

今年は街中が「モーツァルト!モーツァルト!モーツァルト」です.ついにはこんなTシャツまで登場(笑).

そんなわけで,東西の2大ご当地スターともいうべき坂本龍馬とモーツァルトであるが,意外な共通点がある.それは,「故郷を捨てて他所で活躍した」という点である(その他,お姉さんの存在も).

モーツァルトは父とともに,生地ザルツブルグの宮廷楽員として働いていたが,雇い主である大司教コロレドと喧嘩別れして,ウィーンに移り住み,フリーの音楽家として数々の名曲を世に送り出した.そして生涯を通じて故郷に帰ったことは数えるほどしかなかった.一方ザルツブルグ側でも,モーツァルトの死後しばらくまで,彼の存在をあえて無視していた様子が見られる(モーツァルトがウィーンで脚光を浴びている事実は伝えられているはずだが……).モーツァルト自身もザルツブルグに対する思い入れはあまりなかったと伝えられている.

 翻って坂本龍馬であるが,彼は土佐藩の郷士身分(下級武士,坂本家は武士ではあるが,生活のため商売もやっていたらしい)で,一時は武市半平太の土佐勤皇党に所属していたこともあったが,一念発起し何と脱藩して江戸に出たのであった(やはり土佐藩という小さな枠組みのなかではなにもできないと思ったのだろうか).江戸に出た龍馬は,勝海舟の弟子になって海軍の創設に奔走し,後には亀山社中,海援隊を作って海運業に活躍した(亀山社中は日本最初の商社といわれる).政治的にも薩長同盟の斡旋や船中八策による,大政奉還への流れを作るなど,幕末維新史に果たした役割はきわめて大きい.

 こんな龍馬であるが,ふるさと土佐への思いはどうだったのだろうか.脱藩後も土佐藩士との付き合いも多かったから,モーツァルトのように冷ややかだったとは考えにくいが,やはりふるさと以上の思い入れはなかったように感じられる.モーツァルトがザルツブルグの枠に収まりきらなかったように,龍馬もまた土佐という枠を超えて,日本というより大きな枠で動いていたからである.

 かくして今日も,東西のご当地スターの故郷には多くの観光客が訪れていると思われる(当の二人は地元での盛り上がりをどう感じているのだろうか?).

Moz1 Ryouma

東西の2大ご当地スター(ザルツブルグのモーツァルト像と高知桂浜の坂本龍馬像).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

妖怪検定の合格証書!

 10月8日に鳥取県境港市で行われた「境港妖怪検定」の合格証書がやっと届いた.合格発表から丁度1ヶ月かかったわけである.当初,なかなか来なくてどうしたんだろうと不安に思っていたが(当初予定より受験者,合格者が多くて,バッジの生産が追いつかないのではと思った),昨日の夜”無事に届きました”という人のブログを見つけてほっとした次第であった(その方は山陰地方在住で,東北地方の私より一日早く着いたようだった).

Goukaku これが合格証書です.背景には水木氏の妖怪画が描かれています.

Simbol そしてこちらが妖怪博士のピンバッジです.

 合格証書はA4版で,背景には水木しげる氏のカラー絵が描かれている,なかなか立派なものである.バッジは角帽をかぶった鬼太郎が描かれたものであった.合格証書の方は額縁に入れて飾っておくことにした.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月13日 (月)

日本三大うどん

 先週末所用があって首都圏に出かけた.土曜のうちに用足しを済ませ,日曜に帰るにあたって,以前から是非行きたいと思っていた,群馬県伊香保町の水沢うどんを食べに行くことにした.

 水沢うどんは香川の讃岐うどん,秋田の稲庭うどんと並んで,三大うどんのひとつに数えられるほど有名なうどんであり,是非食べなければと思っていた次第である(三大うどんについては,讃岐うどんと稲庭うどんについては,大方の見方は一致しているものの,3つ目については,この群馬の水沢うどんとする説と,長崎の五島うどんとする説がある).

Sanuki2 Sanuki1_1

香川県満濃町の讃岐うどんの店「小縣家」(しょうゆうどんの元祖です).大きな大根を自分でおろしてかけて食べるのが美味です.

Inaniwa3 Inaniwa1_1

秋田県湯沢市の稲庭うどんの老舗「佐藤養助本店」の味くらべです.

 伊香保はJR高崎駅からが便利であるため,東京駅から上越・長野新幹線に乗り込んで行けばいい.私が乗り込んだのは”あさま”であった.休日のせいか,自由席は結構混んでおり,私はデッキに立っていた.

 上野に停まり,大宮に停まり,快調に走っていく.大宮を過ぎて30分くらい,そろそろかなと思っていると,なにやらトンネルに突入した.しかも結構長い.「ん?大宮と高崎の間に,こんなトンネルあったかな?」とすごく不安になる.そうしているうちに車内放送,「まもなく軽井沢軽井沢に停車します」.ガーン!この”あさま”は高崎に停まらないらしい(不覚にも私は高崎に停まらない新幹線があることを知らなかった.交通の要衝である高崎には全ての新幹線が停まると信じていたのだった).

Karui 間違って来てしまった軽井沢駅です.

 そんなわけで,思いがけずも軽井沢に来てしまった.ゆっくり軽井沢観光をしたい気もあったが,そんな時間もないため引き返すことにする.幸いすぐに上りの新幹線がやってきたため乗り込んだ(今度は高崎に停車することを確認したのはいうまでもない).

 軽井沢を出て,わずか15分で高崎に到着,昔は碓氷峠をエッチラオッチラ越えてやっとの思いで着く感じだったが‥‥.改めて新幹線の偉大さを思い知った私だった.

 そして,高崎駅から車で40分,目指す伊香保町水沢に到着した.水沢うどんは,この伊香保町水沢地区のみで作られているうどんで,通りをはさんで20軒程のうどん屋さんが軒を並べている(このあたりは,稲庭うどんと同じである).今回はそのなかで,元祖と呼ばれる田丸屋を訪れた.ここは天正10年(1582年)創業というから(なんと!信長や秀吉の時代だ),400年以上の歴史を持つ老舗だ.

Mizusawa4 うどん屋さんが立ち並ぶ,伊香保町水沢の通り

 田丸屋のざるうどんは普通の醤油ダレのほかに,特製の胡麻ダレが有名とのことで,この日は”三楽御膳二色汁(ざるうどんにてんぷら等がついたもの.醤油と胡麻の両方のタレで楽しめる”を注文した.

Mizusawa3 水沢うどんの老舗「田丸屋」です.

Mizusawa2 そしてこれが,”三楽御膳二色汁”です.

Mizusawa このうどんの”つや”がたまりません

 水沢うどんは,麺にコシがあり,表面はさらっとしていて,つるっとしたのど越しが良いうどんであった.味としては申し分ないが,値段がちょっと高めなのが難点かなとも思った(讃岐うどんは安くて旨いからなぁー).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月10日 (金)

介護認定審査会

 日本は急速に高齢化社会に突入しているといわれる.一般に65歳以上を高齢者と呼ぶが,全人口に占める高齢者の割合(高齢化率)が,平成2年には12%だったのが,平成16年には19%にまで上昇しているからである.出生率が低下している一方で,平均寿命が依然として高い水準にあるのだから当たり前であるが,これに伴い介護支援の充実などが,これからの日本社会が取り組むべき課題ともいわれている.ただ高齢者が増えたといっても,昔の65歳と今の65歳を同列に扱うのもナンセンスである.私が幼稚園から小学生頃の65歳といえば,顔に皺が寄り,腰が曲がって杖をついてやっと歩く,いわゆる老人だったが,今の65歳はシャキシャキして元気な人が多い.仕事に疲れた50代よりもむしろ若く見えるくらいだ.私の母親も今年で65歳になったが,とても高齢者には見えない.

 しかし,いくら若い高齢者(矛盾した言い方だなぁ)が増えたとはいえ,人間年をとれば,あちこちに不自由が出てくるのは仕方ない.しかも,昔のような大家族制が崩壊し,核家族化が進んだ結果,家庭での介護力が大幅に低下している.従来なら大勢の家族で協力して介護していたようなケースが,介護を受けられないという”介護難民”が出現したのである.このままではイカンというわけで国(厚生労働省)が立ち上げたのが,介護保険制度である.

 要するに,従来のように大家族での介護が困難になったため,「各種サービスを利用した介護を保険でやりましょう.しかも従来の,行政側のお仕着せではない,利用者自身が望む介護をやりましょう」という触れ込みで始まったのである.保険者は市町村で,被保険者は40歳以上の人全て,利用は原則として65歳以上からだが,脳卒中などの特定の疾患の場合は40歳以上から利用できる.

 国としてはこの制度によって,介護問題の解決のみならず,医療費の抑制,雇用の創出(介護サービス事業への新規参入業者による)など多くのメリットが生まれると目論んでいたようだ.特に医療費の抑制は国にとっては重要で,当時全国の病院には,入院治療の必要がないのに,退院先がないために長期に入院している,いわゆる”社会的入院”の事例が沢山あったからである.

 社会的入院の多くは,脳卒中などで重度の後遺障害を抱えてしまい,介護がなければ生活できないにもかかわらず,一人暮らしであるとか,家族がいても年老いた配偶者が一人きりとか,中には家族が介護に全く非協力的であるとか(医者をやっていると,時にこういう事例に遭遇して泣きたくなる)いうケースである.また一方では,身体的には特に問題なくても,「家が寒いから」という理由で入院している高齢者もいた(さすがに21世紀に入ってからはなくなったと思うが,私が医者になった当時は,地方の病院や都市部の小病院にはこういう患者も入院していた(我々はこういう人達を越冬隊と呼んでいた).

 厚労相の頭の中ではバラ色だったであろう介護保険だが,早くもほころびが目立ち始めている.利用者の予想を超える伸びによる,保険自体の赤字である.最もこれは,保険を創めた時からわかっていた事である(保険料を払っているのだから,利用できるなら利用しようと考えるのが人情である.なかには全く介護を必要としない状態にもかかわらず,申請してくる人もいる).このため国は,当初の理念はどこへやら,「今までの介護保険で,過剰に介護したことで,かえって被介護者の生活能力を低下させてしまった(手伝いすぎて,頑張れば自分でできるのに,やらなくなってしまったのだという理屈)」,「これからは,なるべく要介護状態にならないように予防を図っていくことが重要だ」などと言い出したのである.一面もっともな理屈に聞こえるが,我々現場の人間から見ると利用者のためと言いつつも,実際には保険給付金を安くしたいという魂胆がミエミエで,ゲンナリするのである.

 介護保険を受けるためには,利用希望者が市町村に申請して,役場の人(調査員)が希望者を訪問し,その人が今どういう状態にあるのかを評価する(聞き取り調査).その一方,希望者の主治医がその人が医学的にどういう状態にあるか意見書(主治医意見書)を書く.その聞き取り調査結果と主治医意見書を勘案して,最終的にその人の介護度(介護の必要がない非該当から最重度の要介護5まで8段階ある)を決めるのが,介護認定審査会である.委員には,医師,薬剤師,保健婦など医療・福祉に関わる人で,地方自治体の委託を受けた地域の有識者が当たるそうであるが,実は私も委員である(私が有識者かぁ 笑).

 介護度を審査で決めるといえば聞こえはいいが,実は我々審査委員が介入する部分は意外に少ないのである.要介護については,聞き取り調査結果と主治医意見書のデータをコンピューターに入力して(どんなソフトを使っているのかは不明),機械的にはじき出された介護度をベースに議論していくのである.その際,機械がはじき出した介護度を変更するにはそれなりの理由が必要なのである(尤も国側からすれば,医者や保健婦は常に患者さんに接しているために,どうしても情に走ってしまう傾向があるため,そんな連中にフリーハンドを与えたら,介護度が不必要に重くなると危惧しているのだろうが).

 それゆえ,審査会で我々は,機械によって決められた介護判定と格闘しているのである.現在の介護保険はアルツハイマー病などの認知症に辛く,認知症の人はどんなに問題行動があって家族が困っていても介護度は低くなる傾向にある(実際に,足腰がピンピンしていていて,あちこち徘徊し,問題行動が多い要介護1のアルツハイマー病の人を,リウマチで手足が痛く,歩行も不自由だが頭はしっかりしている要介護2の配偶者が介護しているという,笑えない話もある).

 昨夜11月10日もこの介護認定審査会が行われたのであった.

Shinsakai これが介護認定審査会の書類です.この日は合計39件,約1時間の議論でした.

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 8日 (水)

日本の珍名駅4 ”のぞき”

 珍名駅シリーズの第4弾は,地元東北地方,JR奥羽本線の山形県と秋田県の県境にある”のぞき”(及位)駅です.奥羽本線は福島県福島市を起点とし,奥羽山脈の西側内陸部を経て秋田市に抜け,さらに北上して最終的に青森市に至る,東北地方日本海側の幹線である.福島から新庄までは山形新幹線のルートともなっている.

 今回のテーマである”のぞき”駅は,その山形新幹線の終点”新庄駅”から,普通電車でさらに35分程,北に行ったところにある.新庄から秋田行きの普通列車(2両編成の東北地方の都市近郊でよく見られるタイプ701系?)に乗り込み出発する.新庄から5つ目の大滝駅を過ぎると,いよいよ次が目指す”のぞき”駅である.車内放送に耳を済ませる.「間もなく,”のぞき”,”のぞき”です.降り口は進行方向左側です…」

「nozoki.mp3」をダウンロード

  

ここをクリックすると,のぞき(及位)駅到着直前の車内放送が聞けます.

Nozoki7_1 何かを覗いています(笑).

Nozoki6 ホームも複数あり,橋もあるなど,結構大きな駅です.縦に「のぞき」と書かれたプレートの写真が欲しかったのですが,なぜか全て塗りつぶされていました(写真左端,電柱に付いているみどりのプレートがそうです).

Nozoki2 ハチの巣があるそうです.恐る恐る近づきましたが,発見できませんでした.

 ”のぞき”駅のある,山形県真室川町は山形県北部に位置する人口約10,000人の町で,真室川音頭で有名である.のぞき駅周辺は,典型的な中山間地域といった感じで,田んぼや畑もちらほらと見られる.この駅はいわゆる”秘境駅”ではないため,それなりに立派な駅舎が存在するが,基本的には無人駅である.駅を探索すると,”のぞき(及位)”の名前の由来を書いたプレートが貼ってあった.それによると,その昔,この地域で修行していたとある修行者が,山の断崖の端から宙吊りになり,崖の横穴を覗き込むという荒行(想像しただけで凄い修行である)をやって,後に位の高い山伏になったことに由来するのだという(今でも奈良辺りでは,この修行をやる人がいるそうです!).我々一般人が想像するのとは全く違った由来があったのである.

Nozoki5 のぞき駅の外観

Nozoki4 のぞき駅の由来です.こんな立派な由来があるとは…….

Nozoki3 駅周辺の様子.

 のぞき駅から更に北上すると,間もなく雄勝トンネルという,長い県境のトンネルに入り,そこを抜けると,もう秋田県湯沢市なのであった.

Inaniwa 湯沢市では,日本三大うどんのひとつである”稲庭うどん”が楽しめます(写真は温うどんと冷うどんのセットです).

ホームページ本編のほうにも珍名駅のコーナーを設置しました(日本の珍名駅

| | コメント (1) | トラックバック (0)

雪が!

 117日(火)は立冬だそうである.岩手日報の夕刊には”県内は暖かい朝だった”と書いてあった.この日は例によって,学生の指導や検査のために大学病院に出向いていたが,夕方に仕事を終えた後,所属する合唱団(盛岡バッハ・カンタータ・フェライン)の練習に参加して家路に着いた.

 盛岡を出るときは雨が降っていた.車を走らせ山間部に入っていく.道路わきに設置されている温度計の表示は”2!”,「こりゃ寒い」と思っているうちに,当初雨だったのがなにやら固形物に変わってきた.

 「も,もしかして雪?」,もちろんタイヤは夏タイヤである.一気に緊張感が高まった.

 それでも当初は雪というよりは,みぞれといった感じで,地面に落ちるとすぐに融けて問題はなかったのだが,平庭峠に近づくと完全に雪に変わってしまった.しかも峠付近では吹雪いて,なんと道路にも積雪が!夏タイヤがジャリジャリと滑り出したため,ギアを落として時速20kmでゆっくり走る.

 幸い雪が積もっていたのは峠付近の短い区間のみだったため,すぐに道路から雪は消え,下界に降りると再び雨に変わった.

 それにしても,立冬とはいえ,まだ11月初旬なのに雪とは.もちろんこれも峠筋のことであり,里に雪が降るのはまだまだ先のことであろうが,北国の冬はもう目の前に来ていることを実感したのだった(そろそろタイヤを換える時期である).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 6日 (月)

新選組な休日

 本当に理由はない.久しぶりに”幕末未来人”を見たわけでもないし,松方弘樹の”新選組”の再放送があったわけでもない.”壬生義士伝”や”燃えよ剣”を読み返したわけでもないし,NHKで大河”新選組!”の映像を流していたのでもない.何もないのに,昨日11月5日(日曜日)は朝から気分は新選組であった(前日,山本耕史が出演した例のNHKのモーツァルト特番の録画を見たことも無関係と思う.今年の山本耕史氏は新選組の人というより,モーツァルトの人になっている(特に夏以降)).

 善は急げと,久しぶりに衣装を取り出した.これを着るのは今年3回目である.1回目は元旦にドイツのデットモルトで(HPの記事参照 →新選組 IN ドイツ ),2回目は5月の”ひの新選組まつり”の時に(HPの記事参照 →第9回ひの新選組まつり参戦!! ,もっともパレード本番では実行委員会の用意した”源さん”の衣装を着用したため,自前の衣装を着たのは前日の隊士コンテストのみであったが)である.それ以来だから,実に半年ぶりである.

Kumi1 このまま京都の町を走り抜けたくなります(息が上がりそうだが)

Kumi5 刀も抜いてみます(ひのパレで何度も抜刀の練習をしたのが懐かしい).

 この3連休,当地は晴天続きだったが,私は当番のため,どこにも行かずに家と病院を往復するのみであった(10月の3連休に,私が非番で山陰遠征に出かけたため,今度は相方が休む番なのであった).私のように,出歩くのが大好きな人間が休日に3日もじっとしていると耐えられなくなるのだった(案外,気分が新選組になった一番の理由がこれかもしれない).

Kumi6_1 職場のデスクにて.誠の旗をバックに

 この日はたまたま,うちのKも所用で和装で出かけていたため,折角だからと,夕方から二人で和装のまま外食に出たのだった(都会ならすごく目立つだろうが,当地は田舎のため人通りも少なく,たまにすれ違う人がチラッとこちらを見る程度だった.結局,駅近くの寿司屋に行った).

 5月の新選組まつりから約半年,また半年後にはあのイベントが待っている.今から日程を空けておかなくてはと思う今日この頃である.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 4日 (土)

寝台車あれこれ

 長距離の移動に最も便利な乗り物は飛行機であるが,私は夜行の寝台車も風情があって好きである.割高であるとか,安眠できないとか敬遠される向きもあるが,元来朝寝坊の私にとっては,朝現地に到着し,強制的にそのまま活動を開始させられる寝台列車は,一日を有効に使えるようで,得した気分になるのである(ホテルで一泊だと遅くまで寝ていることがある).

 10月7~9日に山陰地方に行った時,行きに利用したのは東京~大阪の寝台急行「銀河」だったが,帰りには出雲市~東京の寝台特急「サンライズ出雲」を利用した.

Izumo1 入線してきた「サンライズ出雲号」

 従来東京から山陰地方へは,京都から山陰本線に入って,福知山,城崎,鳥取を経て出雲市に行く特急「出雲」があった.しかし,山陰本線の一部が電化されていないため途中で牽引の機関車を付け替える手間がかかる,速度が遅いなどの問題があった.このため,1998年にルートを大幅に変更(京都からさらに東海道・山陽本線経由で岡山まで行き,そこから伯備線で米子に抜けるルート.このルートだと,全線電化されている)した,「サンライズ出雲」が運行を開始したのである.この時,東京から四国に向かう列車として「サンライズ瀬戸」も運行を開始,両列車は東京~岡山間を併結して走っている.

 サンライズは従来のブルートレインのように,機関車に牽引される客車ではなく,電車である.このため高速走行も可能(東京-出雲市間が「出雲」では13時間40分だったのが,12時間と1時間以上短縮された)であり,また新造車両のため内装も「出雲」とは比較にならない程立派と,当初から人気のある列車となった.そのあおりを受けて「出雲」の利用率は低下し,ついに2006年3月に廃止になってしまったのである.

Amarube 特急「出雲」が走っていた山陰本線の名所”餘部鉄橋”です.残念ながら今年中に無くなるそうです.強風が吹くと良く,列車が止まる処です(昔ここで風にあおられて列車が転落した事故がありました).

 サンライズは全寝台が個室の列車であるが,今回私が乗ったのはA寝台個室の「シングルデラックス」である(以前,サンライズ瀬戸に乗った際はB寝台「シングル」だった).シングルデラックスという名前の客室はJRの多くの寝台列車にあり,値段も一緒(13,350円)なのだが,その内実は列車によって大違いである.主として列車の製造時期によるのだが,例えば最も古い特急「はやぶさ」のシングルデラックスなどは1両に14室もあるため,1室がとても狭く,まさに鰻の寝床状態なのだった(内装も殺風景で独房といった感じ.もちろんテレビやシャワーもついていない).

 これが,特急「あけぼの」のシングルデラックスになると,1両の客室は11室に減り,その分部屋のスペースは広くなる.また,シャワー室はないものの部屋にテレビ(ビデオ放送のみ)が付くなど,サービスが向上している.さらに,特急「日本海」になると,1両の客室は10室と余裕を増し,ついに!シャワー室が登場する(A寝台の客は無料で使用できる)のだった.ちなみに「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」にあるA個室ロイヤルは値段も高く別格である.

 さて,「サンライズ出雲」のシングルデラックスであるが,部屋に入ると「おー,ホテルだ」とまず感動.たしかに列車であるため,決して広くはないが,ベッド・机・洗面台・椅子(「はやぶさ」のようにベッドと椅子が兼用なんてことはない)がコンパクトにまとまっている.内装も木を基調にしたつくりで,暖色系の照明と相まって落ち着いたホテル風である.窓からの展望も良い.うーん,これで「はやぶさ」のシングルデラックスと同価格はサギだよなと思った私であった(サンライズのシングルデラックスは全6室しかない).

Singledelax_2 サンライズ号のシングルデラックスの平面図です.

Izumo3_1

図の地点AからBを眺めた構図です.中央の黒い四角いものがテレビです.

Izumo2 逆にBからAを見た構図

 室内にはテレビ(ビデオ放送だけではなく,なんと衛星放送も受信できる.もっとも米子-倉敷間は山間部でトンネルが多いため,しょっちゅう写らなくなるのだが)もついている.洗面台も,「はやぶさ」や「日本海」のそれのように,とってつけたようなシロモノではなく立派な造りであった.当然シャワー室もあるが,ここもシングルデラックス専用のシャワー室(つまり使用者は最大で6人)であり,ほとんど待ち時間もないのだった.これでLANが付いていたら全く文句なしである.

Izumo4 椅子のある場所からCを見た構図.シングルデラックスは2階にあるため,車窓は見事です.

Izumo6 これが鏡の付いた洗面台です.昔の「はやぶさ」や「あけぼの」の,とって付けの洗面台とは大違いです.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 3日 (金)

妖怪検定その後

 先月8日に鳥取県境港市(漫画家水木しげる氏の故郷)で第1回妖怪検定(初級)が行われ,私もはるばる出かけてきた(詳細は以前の記事参照 カテゴリー「妖怪検定」にまとめて入っています).14日には合格発表が」行われ,受験者421人中401人が合格した.その数日後に,境港商工会議所から合格通知が届き,その中に合格証書認定バッジを後日送付しますと書いてあった.

Tsuchiなんと!98点でした.間違えた2点はキジムナーの身長です(泣).

 その後半月以上が経過したのだが,今日(11月3日)現在まだ送られてきていない.どうしたんだろう?とちょっと不安になる.ネットで検索しても,「送られてきました」という話はまだないようだ.もしかして,受験者が予想をはるかに上回ったため,認定バッジが足りなくて急遽造っているのかもとも思った(合格証書の方は印刷するだけだから,それほど手間ではないだろう).

 それにしても,あの山陰遠征からもう1ヶ月経つのかと思うと,月日の流れの速さに驚くほかない(妖怪検定後にも講演やらなにやら色々あったなぁ).境港に行った際には,いろいろとご当地商品を買って,当地の地域振興に貢献してきた私であった.

Juice2 清涼飲料水です.妖怪汁は”だいだいはちみつ”,ねずみ男汁は”甘夏みかん&はっさく”,目玉のおやじ汁は”ゆず”といずれも柑橘系です.もうひとつは妖怪コーヒーという缶コーヒーです.

Beer2 地ビールの鬼太郎ビールです.アルト,ケルツ,ヴァイツェンの3種です.夢みなとビール株式会社製作です(HPは以下).

夢みなとビールのホームページ

Hurikake ふりかけの”ふりかけばばあ”(ごま海苔です)と地元のお酒”千代むすび”です.

Nihonkaitei そしてこれが,地元産の魚満載の”日本海定食”でした.

 さあ,次回の妖怪検定ネタの記事は証書とバッジが到着した後になるので,早く届くのを待つしかないのだった.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 1日 (水)

アーノンクールとヴィンシャーマン

 いよいよ今日から11月である.1年間盛り上がったモーツァルトイヤーも残すところ2ヶ月となった.NHKの「毎日モーツァルト」もいよいよ終盤にさしかかった感じである(今週はモーツァルトのプロイセン旅行がテーマ.今後は歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」やピアノ協奏曲27番を経て,いよいよラストイヤーの1791年に入る).

 ご当地オーストリアは勿論,日本国内でもモーツァルト関連のコンサートが目白押しだが,NHKでもNHK音楽祭2006と題して,海外の著名演奏家を招いての演奏会が行われる.そのトリを務めるのが,巨匠ニコラウス・アーノンクールとウィーン・コンツェントゥス・ムジクスによるモーツァルトのレクイエムの演奏会だ.アーノンクールは1960年代から,古楽器を用いたバッハなど,バロック音楽のオリジナル演奏を行ってきた古楽器演奏の老舗である(自身もチェロ奏者).

 1960年代といえばカール・リヒターの絶頂期で,「バッハといえばリヒター」という程,リヒターの影響力が大きかった時代である.リヒターは1925年生まれで,幼少時から教会の聖歌隊に所属し,声変わりに合せてソプラノからアルト,テノール,バスとバッハの教会カンタータの全てのパートを歌ったことがあるといわれるほどのバッハ研究家(本職はミュンヘン音楽大学教授,教会カンタータを全て暗譜していたとのウワサあり)であり,自身チェンバロやオルガンの名手でもある.

Vhd2 ドイツのお城で演奏するリヒター(写真左のチェンバロ).

 こんなリヒター全盛期にはアーノンクールの影は薄く,ヨーロッパはともかく日本での注目は低かった.しかし,1981年のリヒター死去の後,徐々に古楽器演奏が注目され始めると,その老舗として大いに脚光を浴びるようになった(グスタフ・レオンハルトと組んで,バッハの教会カンタータ全曲録音もやっている他,マタイ・ヨハネの両受難曲,クリスマス・オラトリオ,ロ短調ミサなどの録音も複数回行っている).

 本来バロックの人というイメージが強かったが,1980年代からはモーツァルトなど古典派以後の曲も取り上げるようになり,最近ではむしろモーツァルトの人という感じになっている(1981年録音のモーツァルトのレクイエム バイヤー版は当時衝撃的な演奏だった).最近では2002年以降,ザルツブルグ音楽祭でモーツァルトのオペラを振って注目されている.今年はアンナ・ネトレプコをスザンナ役にした”フィガロの結婚”を指揮している(毎日モーツァルトの案内人,山本耕史氏もこの舞台を観劇していた.なんてうらやましい!).2005には京都賞受賞のため来日している(この時は演奏は行っていない).

Harnoncourt 若い頃のアーノンクール氏

 そんな巨匠が来日し,しかもモーツァルトのレクイエムを振るというのだから,「こりゃ行くしかない」と,チケットぴあをチェックしていた(5月)のだが‥‥,その後すっかり忘れてしまい,気が付いた時(7月半ば)には既にチケットは売り切れになっていたのだった(泣).しかし,別プログラムで行われる,京都でのコンサート(11月18日,ヘンデルのメサイア)の方のチケットが取れたため,なんとかアーノンクールの顔を拝むことはできることになった.ヘンデルのメサイアも私の大好きな曲で,学生時代には,年末のメサイアコンサート(年末といえば日本ではベートーベンの第九が有名だが,ヨーロッパではむしろこのメサイアの方がメジャー)に合唱団員として参加していた.また2005年末には,所属する盛岡バッハ・カンタータ・フェライン(以下MBKV)のドイツ演奏旅行でも,ドイツ語版のメサイアを取り上げている.

 そんなわけで11月18日に京都に行くことが決定した.せっかく行くのだから,たっぷりと秋の京都を満喫し,ついでに新選組ゆかりの地なんかも見てこようと考えていた.しかし!予定表を見ると,なんと京都のコンサートの翌日(11月19日)にはMBKVの強化練習(来年1月28日に盛岡でバッハのヨハネ受難曲の演奏会が行われる)が入っているではないか,しかもその日の練習は,本番で指揮をするヘルムート・ヴィンシャーマン氏がやってくるのだ(ヴィンシャーマン氏はオーボエ奏者で,ドイツ・バッハ・ゾリスデンを振っている,バッハ演奏の巨匠だ).いくらなんでも練習を休むことはできないため,18日はコンサート終了後現地に宿泊し,翌朝伊丹空港から飛行機でとんぼ返りすることにした.

Vin H. ヴィンシャーマン氏との記念撮影(2000年,バッハのクリスマスオラトリオ演奏会にて)

 かくして,11月18,19日とアーノンクール,ヴィンシャーマン両巨匠を目にすることになったのだった.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »