晩秋の京都 番外 ~ヴィンシャーマン編~
11月18日アーノンクールのメサイアを鑑賞し,先斗町で夕食をとった我々はそのままホテルに戻った.
開けて19日朝は6時半に起床し,急いで朝食を摂りホテルをチェックアウトする.引き続き京都見物をしたい気は満々であったが,この日はどうしても,昼までに盛岡に帰らなければならない.私の所属する合唱団(盛岡バッハ・カンタータ・フェライン 以下MBKV)で来年1月に行われる演奏会(J. S. バッハのヨハネ受難曲)で指揮をする,ヘルムート・ヴィンシャーマン氏が盛岡にやってくるからである(普通の練習を10回休むより,この練習1回休む方が罪が重そうだ).練習に辿り着くために,朝8時に京都駅を出発する,伊丹空港行きのリムジンバスに乗りこむ.
バスに乗ると,早起きの影響でものすごく眠くなってくる.途中ほとんど寝ている状態であった.朝早いためか,40分くらいで空港に辿り着いた(他の客が「今日は早いな」といっているところから,かなり早く着いたらしい).前日バス停を下見に来た際には係員のおじさんに「道路が混むから,出発の2時間前のバスに乗らなきゃダメだ」といわれていたため,気合を入れて早起きしたのだが‥‥.
チェックインは機械で行うためあっという間である.その後荷物を預けても,まだ時間が1時間位あり,空港のラウンジで時間をつぶすことにした.
飛行機は予定より10分くらい遅れて出発した.この日は伊丹-仙台間のフライトを利用した.距離的には伊丹-花巻便の方が便利なのだが,本数が少ないのと,仙台便の方が値引き切符が多いので結果的に安いからである.国内便なので,それこそ「あっという間に」仙台に着いた.空港からはバスで仙台駅に行き,下りの”はやて”に乗り換えて,盛岡に着いたのは13時22分であった.盛岡駅から練習会場に直行すると,既に練習が始まっている.我々も中に滑り込んで参加した.
そして2時ごろ,いよいよヴィンシャーマン氏が登場した.H. ヴィンシャーマン氏は元著名なオーボエ奏者で,現在はドイツ・バッハ・ゾリスデンという主にバロックを演奏する,室内管弦楽団を主催している,バッハ演奏の巨匠のである.1920年生まれであるから今年で86歳になる.が,とてもそうは思えないほど若々しく,背筋もまっすぐだ.昨日京都で見たアーノンクール氏(1929年生)より9歳年上で,さらに何と,1981年に急死したカール・リヒター(1926年生)よりも6歳年長である(要するにリヒターが若くして亡くなったということである).ついでに言うと,ヴィンシャーマン氏とドイツ・バッハ・ゾリスデンの日本での活動を仕切っているのが,梶本音楽事務所で,くしくも今回来日しているアーノンクールと同じである(ヴィンシャーマンもアーノンクールも日本に来ると,休む暇もなく演奏をさせられていることから,私やKは梶本音楽事務所のことを”山椒大夫事務所”と呼んでいる 笑).
私がMBKVに入会した1997年以降,ヴィンシャーマン氏とは,1998年盛岡でのロ短調ミサ,1999年のドイツでのロ短調ミサ(Kは参加したが,私は不参加),2001年の盛岡でのクリスマス・オラトリオ,2003年の盛岡と東京でのマタイ受難曲と度々共演させていただいている(それもすごい話だが).今回のヨハネ受難曲で,バッハの四大宗教曲が完結するわけである.それだけに会員の気合も入っているのだが,ヴィンシャーマン氏の練習は熱が入って密度の濃いものであった.氏の手は,昔Jリーグ清水エスパルスにいた,GKのシジマールのようにでかいのだが,このでかい手を大きく振りながら指揮をするのである.時にテンポが大きく変わることもあり,楽譜ばかり見ていると,たちまち周囲とずれてしまう.こんなときは,顔から火が出るほど恥ずかしい思いをする.何とか本番までに暗譜しなくてはと思うのであった.
練習後は盛岡駅前の店で懇親会となる.ヴィンシャーマン氏はにこやかに,合唱団員一人一人と握手をしながら盛岡の滞在を楽しんでいるようだった(私とKはその後,有志で二次会になだれ込んだ).こうしてビザンチン皇帝の怒涛の京都編が終わったのである.
| 固定リンク
コメント