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2006年10月30日 (月)

岩手の秘境駅4

 先週末薮川にそばを食べに行った折,ついでにと早坂峠を越えて反対側の岩泉まで足を伸ばした.

 岩泉町は総面積992k㎡と,実に大阪府全体(1894k㎡)の半分にもおよぶ広さを持った町である(本州で1番広い町らしい).もっとも総面積の94%が森林であり,人口は12000人余りに過ぎない(大阪府の人口が880万であるから,人口密度はなんと372分の1である).

 この町はまた,鍾乳洞を多く持つ町としても知られており,日本三大鍾乳洞のひとつ”龍泉洞”をはじめ,安家洞,氷渡洞などがある.また,岩手短角牛や牛乳,さらにはモンドセレクションで度々金賞を受賞しているという,名水”龍泉洞の水”や,その水を使った缶コーヒー,烏龍茶なども有名だ.

 町の中心部は,県内の主要地点からかなり離れていて,近くには高速道路や空港はないが,唯一の公共交通機関としてJR岩泉線がある.岩泉線は,盛岡から太平洋岸に向かうJR山田線の途中,茂市駅から分岐して北に伸びる,全長40kmの路線である.終点の岩泉駅から先には線路はなく,いわゆるどん詰まりの”盲腸線”である.1日の運行本数も全区間往復が3本,部分往復が1本と極めて少ない.起点となる茂市駅のある,JR山田線自体が屈指のローカル線であり,さらにその支線というわけで,いかに凄い路線であるかが良くわかる(ここに匹敵する盲腸線としては,昔北海道にあった美幸線,相生線であろうか).

 そういうわけであるから,当然かなりの赤字路線である.しかし,それでもなおこの路線が廃止されないのは,並行して走っている国道340号線が凄い山道(キック道)であり,道の狭さとカーブのきつさから,路線バスを運行できないからである.この岩泉線にあり,牛山隆信氏の”秘境駅へ行こう”でも,堂々の第4位に挙げられているのが,ここ押角駅である.

 押角駅の凄さは地図を見てもわからない.地図では岩泉線と国道340号線が並行して走っており,所々に集落もある.メイン国道沿いの駅はどう考えても秘境っぽくない.しか~し,この疑念は現地に行くと氷解する.地図で見るとメイン国道に見える340号線は,この区間(岩手大川-岩手和井内間)は幅員2~3m,急カーブと急勾配の連続するキック道なのである.そんな山道(いまにも熊が出てきそうな)のそばに,この押角駅は存在する.

Osikado7 山の中を縫うように走る国道340号線.これでは代替バスは運行できません.

Osikado4 刈屋川にかかる橋です.昔の写真ではもっとボロく,今にも崩れそうでしたが,改修されたのでしょうか?

Osikado1 見ての通り川の水はとても澄んでいます.

 国道から西に草むらの中を歩いていくと,刈屋川に出る.周囲は生活臭がまったくないため,川の水もとてもきれいだ.川にかかったボロイ橋を渡ると,対岸に短いホームが1本あるだけの駅が現れた.板のホーム上には駅舎はなく,時刻表などもフェンスに直接くくりつけられていた.地図を見ると秘境っぽくはないものの,実際に行ってみると,本当に山奥の秘境駅であることがよくわかる駅であった.

Osikado5 ホームに佇む私

Osikado3 フェンスに付けられた時刻表.1日3往復しかありません.

 ちなみに盛岡駅から山田線,岩泉線を直通する,”快速 秘境号”が時々運行されているようです.普段は普通列車にも無視される山田線の大志田,浅岸両駅や岩泉線の各線にのみ停車する凄い汽車です(途中,押角駅には20分くらい停車するようです).

Osikado2 昔のスイッチバック時代の名残の引込み線です.

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2006年10月29日 (日)

ベルホヤンスクへの憧れ

 私は最果てや極地と呼ばれる場所が好きで,高校時代には北海道の宗谷岬や納沙布岬に行ったり,最近では2003年に北極のスバールバル諸島に行ったりしている.

 ビザンチン皇帝のスバールバル旅行記 

           

    (HPの旅行記録へのリンク)

 先日薮川の記事で,北半球の寒極である東シベリアのベルホヤンスクという町について触れた.この時,ベルホヤンスクにどうやって行ったらいいのか判らないと書いたのだが,今日何気なくネットで”ベルホヤンスク”を検索していたところ,なんとベルホヤンスクに行くツアーを見つけた.主催はユーラスツアーズというロシアを専門に扱う旅行会社である.

 ベルホヤンスクへの耐久ツアー 

         

 (これがそのツアーへのリンクです)

 日程は2007年1月14日から1月21日までの8日間,新潟空港発着で,全行程添乗員が付いたツアーである.1月中旬から下旬といえば1年で最も寒い季節だ,まさに極寒のベルホヤンスクを体験しようというツアーなのである(案内には参加者募集ではなく,挑戦者募集と書いてあった!).案内によると,ベルホヤンスクではオーロラ観測もできるとのことである.確かにベルホヤンスクは北緯67度で,アラスカのフェアバンクス,フィンランドのロバニエミやノルウェーのトロムソなどの有名オーロラ観光地と同じくらいの緯度にある(寒さは圧倒的だと思うが).それに,冬季のベルホヤンスクは晴天が多いから,確かにオーロラが見られる確率は高そうだ(凍死する可能性も高そうだが).

 このツアーを見つけて,是非行きたいと思ったが,2007年1月末に所属する合唱団の演奏会本番を控えているため,「こりゃ無理だ」と諦めた次第である.しかし,このツアーを知ったことで,これまで遠い存在だったベルホヤンスクが一気に身近に感じられるようになったのである.

Russia こうして見ると,ベルホヤンスクは実は日本のほぼ真北にあり,意外に近くだということがわかります(盛岡-ベルホヤンスクは約3000kmで,盛岡-グァム島間とほぼ一緒です.

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当直の夜

 今夜は当直である.私の勤務先は救命救急センター(ER)を併設した医療機関であり,地域の中核病院の役割をになっている.当地域の医療圏は約75000人とそれほど多いわけではないが,面積は広く,1077平方キロと東京23区の1.5倍の広さがある.

 そんなわけで,当院のERは,大都会のそれ(それこそ,救命救急24時みたいなテレビに出てくるER)とは趣を異にしている.人口が多くないため,別に救急車がひっきりなしに出入りしているわけでもなく,夜間やってくる患者さんのほとんどが命に別状がない軽症者である.しかし,1日に何台かは救急車や重症患者さんがやってくるため,そんな時は場の空気が一気に緊迫する.とはいっても,昨今の地方病院の例に漏れず医師不足は深刻で,テレビに出てくるERのように,救急車到着とともに医師が10人くらい飛び出してくるようなことはなく,基本的に対応する医師は当直医一人きりである(平日の夜は若い研修医も一緒に泊まっていることもあるが).従って救急車がやってくると,当直のナースや搬送に当たった救命救急士の手も借りながら,あくせくと処置をするのである.そうして,専門医の判断や応援が必要となった場合に,自宅待機の医師を呼び出すのである.

 こうして夕方5時15分から翌朝8時半まで,ERに張りこんで救急患者さんの診察に当たるわけだが,翌朝8時半になったからといって家に帰れるわけではない(当直のナースは朝になると帰れる).もっとも,規定では当直明けは,「業務に支障がなければ,半日で帰ってよい」ことにはなっているのだが,医師不足の現状では「業務に支障がないはずはない」ため,事実上空文化しているのである.

 そんなわけで,当直明けの勤務は厳しく(特に翌朝から外来だと本当に辛い),最近では自分の当直はなるべく週末になるようにしているのであった(翌朝しばらくは寝ていられるため.平日の当直に当たっているときは,20代の若い医師と代わってもらう.彼らは体力もあり,週末の当直だと遊ぶ時間がなくなるため,かえって平日の当直を好む人が多い).

 今ちょうど患者さんがいなくなったため,夜食がてらこのブログをアップしているのだった.さあ,あと8時間頑張ろう.

Er 診察が一段落し,ERのベッドに座って休む当直中の私(深夜のためネクタイ着用はしません).

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2006年10月27日 (金)

北海道日本ハム優勝!

 今年度の日本シリーズは,北海道日本ハムファイターズが中日ドラゴンズを破って幕を閉じた.私は運動神経はからっきしダメで,大学時代も体育はトレーニングクラス(入学直後に体力測定が行われ,下位10%位のヤツは特別なクラスで1年間しごかれる{1年間柔軟体操やマラソンばかりで,本当に泣きたくなる}.他の90%のヤツは野球とかサッカーとか,好きな競技を1年間やれる.尚,この制度は男のみで,女子にはない)に入れられるほどの運動オンチであった.

 しかし,スポーツ観戦は好きでプロ野球も子供のころから見ていた.とはいっても,当時の東北地方ではプロ野球といえば,ジャイアンツ戦しか中継されず(稀に土日にNHKで他のカードやパリーグもあったが),その結果必然的に私の周囲の仲間はみんなジャイアンツファンになってしまった.しかし,私は当時から天邪鬼だったため,そんな傾向に反発して唯一人中日ファンになったのである.

 この時なぜ,中日ファンになったかというと,当時中日のエースだった星野仙一が,ジャイアンツ戦で勝つと「ざまぁ見ろ」とばかりに歓び,逆に打たれて降板した時には,ベンチを蹴飛ばして怒るなど感情をあらわにした様子を見てカッコイイと思ったからである.当時の中日はピッチャーは星野,三沢,松本が三本柱でリリーフに鈴木孝政がいた(彼は当時の中日のリリーフエースで,今で言うクローザーの走り的な人物である).また野手では谷沢,マーチン,高木守道,大島,さらに去年楽天の監督だった田尾が若手選手として在籍していた.

 そんなわけで当時はテレビのジャイアンツ戦の中継よりも,中日の試合を放送しているラジオ(東海ラジオガッツナイターなど)を必死に受信して聴く方が多かったように思う.その後選手の移り変わりなどもあったが,大体昭和のおしまいまで中日ファンであった(投手では小松,今中,今でも現役の山本昌,野手ではロッテから移籍の落合,ヘディングの宇野,彦野,今も現役の立浪がいた時代).

 平成以降はギャオス内藤,川崎,池山,広沢が活躍していたヤクルト(途中から古田,石井一久などが加わった)を応援するようになった.その後衛星放送の普及とともに,パリーグの試合も多く中継されるようになってから,パリーグも面白いじゃないかと黒木や初芝のいたロッテを応援するようになり,最近では仙台に住んでいた因縁から楽天も応援している(何度も試合を見に行ったが,一度も勝ち試合にめぐり合っていない 泣).最近ではプロ野球観戦は衛星放送か,学会出張の際に球場に行くかのどちらかで,民放地上波の野球中継は全く見ていない.

Sapporodome 今年5月に学会で札幌に行った際にヤクルトとの交流戦を観戦.2塁上にいるのは新庄です.

 ちなみに今回の日本シリーズ,うちのKは北海道出身のため純粋に日本ハムを応援していたが,私は最近はパリーグの試合ばかり見ているため日ハムも応援していたが,昔の思い出もあり中日にも勝って欲しいと複雑な心境であった(愛知県には学生時代からの友人Nもいるし.阪神-日本ハムなら文句なく日ハムを応援していたであろう).

Asahiyama 野球と無関係ですが,学会ついでに行った旭山動物園の白熊.今の北海道はここも有名です.

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2006年10月26日 (木)

ヘンデルのメサイア

 今日の「毎日モーツァルト」はモーツァルト編曲のオラトリオ・メサイアであった(オラトリオを日本語に訳すと聖譚劇なんだそうです).メサイアはバロック時代の有名な作曲家G. F. ヘンデルの代表作ともいえる名曲である.

Handel_1 ヘンデルの有名な絵です.

 ヘンデルは元々ドイツ人で,ハノーヴァー選帝侯の宮廷楽長をしていたが,オペラの作曲をやって活躍したいとロンドンに渡り,そのまま居ついてしまったという(選帝侯の許可を受けたのかは不明),なんとなくモーツァルトにも似ている人生を歩んだ人である(旅をしてあちこち走り回っていたのも似ている).ドイツ時代の上司だったハノーヴァー選帝侯が,後年イギリス国王ジョージ1世として海を渡ってイギリスにやって来た時は,ヘンデルもさぞ驚いたに違いない.この時,過去のいきさつから,国王との気まずい雰囲気があり,これを解消するために水上の音楽を作曲したという説があるが,これは事実ではないらしい.

 ロンドンでのヘンデルの人生は浮き沈みが激しく,一時はオペラ劇場の経営に失敗して破産してしまう.こんな失意の時代に作曲され,大評判となり,ヘンデルの名を再び有名にしたのが,このオラトリオ・メサイアである.新約旧約両方の聖書の言葉から,主イエス誕生の預言から受難,復活までを劇的に描いた音楽劇である(第2部終曲のハレルヤ・コーラスはあまりにも有名).

 この曲は当時から非常に人気が高く,同時代人であるJ. S. バッハのマタイ受難曲が,19世紀にメンデルスゾーンによって再演されるまで,人知れず埋もれていたのと対照的である.もっとも有名すぎたために,当時からヘンデル自身による多くの編曲版があって,いったいどれがオリジナル版なのかわからない状態になっているが‥‥(これはメサイアの人気が凄くて,ヘンデルも当時,各地の演奏に引っ張りだこだった.しかし,演奏場所によってオーケストラの人数や編成,歌い手の力量が異なる(ロンドンのような大都市ならフルオーケストラOKで,楽員の技量も問題ないが,地方では規模も小さく,また管楽器がいない,歌手が難しい曲は歌えないなど多くの制約がある)ため,オケ編成や場合によっては曲そのものが違ったいろんなバージョンがあるのだった.

 モーツァルトが編曲したメサイアは,モーツァルト版として知られており楽譜やCD,DVDも出ている.DVDではヘルムート・リリング指揮のものがあり,なかなかいい演奏である.アマデウス・ブログ にも触れられているが,この編曲は18世紀末のテイストで書かれており,本来トランペットだったところがホルンになったり,弦が厚くなったりしている(初めて聴いたときは,「おお!魔笛だ」と思った私だった).

Handeldvd_1 これがヘルムート・リリング指揮のモーツァルト版メサイアです.合唱曲の一部が四重唱になっているなど,ヘンデル版と比較するとなかなか楽しいです.

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第一と第二

 私は10月24日に行われた,”能代寮歌を愛する会”に参加した.寮歌は主として旧制高等学校(新制大学の教養課程に相当する)や大学の予科の寄宿舎の歌である.旧制高校には,明治期にできた番号で呼ばれる学校(ナンバースクール,第一高等学校から第八高等学校まである)と,大正期以降にできた地名を冠した学校(ネームスクール,弘前高等学校,松江高等学校など)とがある.

 ナンバースクールのうち,第一高等学校の所在地は東京であり,第二高等学校は仙台にあった.この事実を知った時,「どうして仙台なんだろう」というのが正直な感想であった.第一が東京にあるのは理解できる.首都なんだから,まあそういうもんだろう.しかし,どうして第二が仙台なのか.町の規模や歴史から言っても,大阪や京都,名古屋あたりの方が適当なんじゃないかと思ったのである.しかも時代は明治である.戊辰戦争で仙台は奥羽越列藩同盟を作って薩長新政府軍に対抗した都市である.こうした朝敵の汚名を着せられたところに,第二と銘打った高等学校ができたというのが意外だったのである.薩長藩閥政府の時代なのだから,彼らの地元の山口や鹿児島に作っても良さそうなものをと思ったりもした(ちなみに鹿児島には明治34年に第七高等学校造士館が,山口には大正8年に山口高等学校が設置されている).

 実はこの,第一(東京),第二(仙台)というパターンを持つものがもうひとつある.それは旧日本陸軍の師団司令部の所在地である.師団というのは司令部を有し,単独で作戦を遂行できる能力を持った戦略単位と呼ばれる部隊である.規模は1万人(平時)~2万人(戦時)で,歩兵・砲兵以下,工兵(道路の修理や架橋,線路の敷設を行う兵種)や補給部隊,野戦病院なども含まれている.戦前の陸軍にはこうした師団が数多くあったが,そのうち第一師団司令部が東京に置かれ,第二師団司令部が仙台に置かれたのである.第一はともかく,なぜ第二が仙台なのかはよく分からない(ちなみに今の陸上自衛隊では第1師団は東京で,第2師団は北海道にある.東西冷戦時代北海道が日本の最前線だったからである).

 以下に旧制高校(ナンバースクール)の所在地と陸軍師団司令部の所在地を示します(第一と第二はいずれも東京と仙台ですが,第三以降はバラバラです).

旧制高校の所在地

陸軍師団司令部の所在地

第一

東京

東京

第二

仙台

仙台

第三

京都

名古屋

第四

金沢

大阪

第五

熊本

広島

第六

岡山

熊本

第七

鹿児島

旭川

第八

名古屋

弘前

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2006年10月25日 (水)

第36回能代寮歌を愛する会 秋の会

 昨日10月24日,かねてからお誘いのあった能代での”寮歌を愛する会”に参加してきた.この日は午前中から昼過ぎにかけて,大学病院で医学生の相手をしたり,所用を済ませたりした後,午後1時ごろに車で出かけたのである.

 秋田県能代市は秋田県の北西部,日本海に面した町である(元阪急ブレーブスのサブマリン,山田久志投手の出身地でもある).滝沢インターから東北自動車道に入り,十和田インターで降りて国道103号,7号を走る.能代市内に入り,宿泊先のホテルに着いたのは午後4時ごろであった(3時間かかったわけだ).あらかじめ配布されていた案内には,午後5時50分にフロントにタクシーが来るとあったため,時間にフロントに下りてみると,学生服に白線帽,高下駄や学校名が書いた法被を着た人たちが大勢集まっていた.どう見ても私より圧倒的に年配の人ばかりである(自分の親より年上っぽい感じだが,みな生き生きとした表情をしている).「今日はお世話になります」と挨拶をしてから,みんなでタクシーに乗り込んで会場に向かった.

 会場となったのは「金勇」という料亭である.ここは明治23年創業で,建物は樹齢260年余りの秋田杉をふんだんに使っているそうで,なんでも国の登録有形文化財になっているらしい.

 料亭 金勇のHPです

Ryouka4 料亭「金勇」の概観です.ここの2階の大広間を借り切って行われました.

 会場に着くと受付を済ませて,ゲスト(遠隔地から参加した人)の控え室に通される.見渡すと,かなりの年配者ばかり.プログラムに記載されている参加者名簿を見ると,東京や大阪,兵庫県から参加している人もいる.学歴も一高(旧制第一高等学校,いまの東大の教養部にあたる)卒,四高(第四高等学校,金沢にあった)卒など凄い学歴の方々ばかりである.自分なんか下手すれば孫の世代なんじゃないかと思ってしまった(勿論,旧制高校卒以外の,新制大学卒の参加者もたくさんいたが).

 6時半に宴会場に案内される.地元の会員が拍手で出迎えてくれた.百五十四畳という巨大な大広間で,壁には旧制高校の手ぬぐいなどが掲げられ,雰囲気を盛り上げている.主催者の挨拶,ゲスト代表の挨拶(旧制一高卒の方であった)の後,歓迎寮歌(その年のゲストによって変わるらしく,今年は山口高等学校の寮歌(私の知らない曲)であった)が歌われ,ついで乾杯,ゲストの自己紹介と進んだ.

Ryouka3 恐ろしく元気な高齢者の方々.寮歌には若返りの作用もあるそうです.

 しばらくビールでのどを潤した後,いよいよ歌の開始である.寮歌は原則的に北から南へ(北大予科,弘前高,二高から五高,七高造士館など)順に歌っていく.それぞれOBは自分の学校の部分をステージに上がって歌うのだが,その他歌いたい人も自由に上がって歌えるスタイルである.私が知っている歌は全体の半分程度あったため,混ぜて歌わせてもらった.

Ryouka2_1 出身母体である旧制弘前高校の法被を着た私(弘前大学北溟寮出身です).

 約4時間の会であったが,一番感じたことは「みんな若い!」ということである.80歳を越えたような人たちも多いのだが,とてもそうは思えないような,大きな声をだして歌っていた.参加者の一人が,「寮歌には認知症を抑制する作用ばかりでなく,若返りの作用もある」といっていたのがうなずける感じであった(職業柄、普段元気のない高齢者を相手にしている私には,こんな高齢者もいるんだと感慨を抱いたのであった).

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2006年10月23日 (月)

本州の寒極 ”薮川”

 先週末は講演会やら仕事がらみの会合があり盛岡市にいた.10月21日の昼にちょっと空き時間ができたため出向いたのが,盛岡の北東30kmにある薮川である.

 実はこの薮川,一部の人の間では有名な場所である.それは,本州で最も寒い場所(寒極)という点で.なにせ盛岡市内(盛岡自体が冬寒く,東北六県の県庁所在地で一番寒い)より10℃は低いといわれているのだ.一般には緯度が高くなるほど寒くなると考えられているが,気温を決める要因には様々なものがあり,緯度だけで決まるわけではない.たとえば南半球の寒極は南極であるが,北半球のそれは北極ではない.北半球でもっとも寒いところは東シベリアの高原地帯(北緯60~70度付近)なのである.北極は,緯度は高いものの海であり,主として大西洋からやってくる海流の影響で意外に寒くはないのである(南極の冬が氷点下80℃位に達するのに対して,北極は氷点下30℃位にしかならない).これに対して東シベリアの高原地帯は,冬は実に氷点下60~70℃に達する極寒の地である(ベルホヤンスクが特に有名で,我が家の旅行先でも毎年候補にあがるのだが,どうやって行くのかよくわからず,未だに行けていない 笑)

 ある場所の気温を決める要因は様々であるが,主な要因を挙げると

① 緯度が高いほど寒い

 理由) 太陽が低くなるため,単位面積当たりの日照量が少なくなるから.

② 海に近いほど寒暖差が小さくなる(反対に海から遠いと寒暖差が大きくなる)

 理由) 水は熱しにくく,冷めにくい性質(比熱が大きい)があるため.

③ 暖流の側は暖かい(寒流の側は涼しい)

 理由) 自明

④ 曇っていると昼夜の寒暖差が小さい(晴天だと昼夜の寒暖差が大きくなる)

 理由) 夜間晴天だと地上の熱が宇宙に逃げていくため気温が下がる(放射冷却)

⑤ 標高が高いほど気温は低い

 理由) 地面から受ける熱(反射熱,地熱など)が少なく,大気も薄くなるから.

 この条件を当てはめて考えると,北極は高緯度だが海であり標高が低い.大西洋からの暖流が流れ込んでいる.また冬季は天候が悪く曇りの日が多いため,放射冷却も起こりにくい.結局,意外と気温は下がらないのである.

 これに対して東シベリアのベルホヤンスクは高原地帯であり標高が高い.海から隔絶しており昼夜の寒暖差が非常に大きい.冬季も晴天が多く,夜間の放射冷却が起こりやすい.本来晴天であれば日中には気温が上がるのだが,ベルホヤンスクは北緯66度と高緯度のため,冬季の日照時間が極めて少なく(昼が極端に短い),日中の気温も上がらない.かくして気温を上げる要素がほとんどないのに,気温を下げる要素が非常に多く,北半球の寒極となっているのである.

 さて,振り返って我が薮川である.ここは北上山地の中にある高原地帯で,当然標高は高い.周囲を山に囲まれており,海の影響が少ない.冬季でも意外に晴天が多い(近くに岩洞湖という人造湖があり,冬季はワカサギ釣りで有名な場所でもある).つまりはベルホヤンスクとよく似た環境なのである.これが,当地が本州の寒極となっている理由である(昔,岩手県を揶揄する言い方として”日本のチベット”というのがあったが,地理学的には”日本のシベリア”と言った方が実勢に近いかもしれない).ちなみに日本の寒極はというと,一番北にある稚内ではなく,旭川と稚内の中間にある名寄市(実は管理人の生まれた所.よほど寒いところに縁があるらしい 笑)のちょっと西にある朱鞠内湖(人造湖)付近である.私の父親が昔,「自分は氷点下40℃を経験したことがある」と自慢していたのをよく覚えている.

Gandouko 秋の岩洞湖.すでに紅葉も終盤の様相です.冬にはワカサギ釣りで賑わいます.

 そんな薮川の名物が,”そば”である.元々蕎麦は痩せた土地でも育つため,稲作には厳しい岩手県北部でも盛んに栽培されている.ここ薮川でも,蕎麦なら十分に栽培可能である.”薮川そば”の店は盛岡から岩泉方面に向かう国道455号線沿いにある.手打ちの蕎麦は歯ごたえ抜群で旨いのだった(当地で採れる舞茸の天ぷらもいい).

Yabukawasoba2 薮川そばのお店,名前もズバリ”藪川そば”

Yabukawasoba1 これはざるそばです.もちろん温かいそばもあります.

 尚この薮川,以前は玉山村薮川だったが,平成の大合併で盛岡市薮川になった.

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2006年10月20日 (金)

講演の秋

 読書の秋という言い方があるが,暑い夏が終わって涼しい秋になると,なんとなく頭が冴えたような気がしてくる.そんな理由もあるのか,秋になると学会や各種研究会・講演会が目白押しになり,私のところにも,時々講演の依頼が舞い込んでくる.

 私の講演の内容はというと,新選組やビザンチン帝国史について語るわけにもいかないため,専門である神経内科領域の話になる(これでも一応神経内科医なので).神経内科疾患といえば,脳卒中,アルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性疾患,てんかんや頭痛,めまいなどが該当する.幅広い神経疾患のなかで何を話すのかは,講演会の主催者側の意向で決まるのだが(こっちから演題を指定できるほど偉くないので),私に依頼してくる人達は頭痛やパーキンソン病を指定してくることが多いようだ.

 実は10月に講演が2つある.10月13日(金)と10月20日(金)である.前者は地元の医師会主催,後者は製薬メーカー主催で盛岡市で行われる.講演というのは準備期間もあるため,大抵本番の数ヶ月から半年前に依頼が来るのだが,私のような忘れっぽい人間は,直前になって慌てて準備に追われるというパターンが多い.今回も先週,今週と日常業務が終わってから,あくせくと準備していたのだった.ちなみにテーマは10月13日が「子供たちの頭痛」,10月20日が「パーキンソン病の薬物療法」である.頭痛は私自身が片頭痛持ちのため,結構力を入れている分野なのであった.

Kouenjunbi 職場で夜遅くまで講演会の準備をする私(もっと早くから準備しろ! 笑)

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2006年10月19日 (木)

日本の珍名駅3 ”はげ”

 久しぶりの珍名駅ネタです.”なんじゃい(南蛇井)”,”ごめん(後免)”に続く第3弾は,四国のJR予土線にある”はげ(半家)”駅です.予土線は愛媛県の宇和島駅と高知県の窪川駅を結ぶ約80kmのローカル線であり,途中に大きな町はない.電化もされておらず,最近では”赤字→廃止”の噂も聞こえてくる路線である.ローカル線特有の1両編成のディーゼルカー(1両しかなく,列をなしてはいないから列車とは言えないよなぁ,ただの車か?)は80kmを2時間かけて走っている.今回は宇和島から窪川に向かって走った.めざす”はげ”駅は全行程のほぼ中間に位置する.

 途中江川崎という(予土線では)比較的大きな駅で約10分停車した後,いよいよ次が目指すはげ駅である.車内放送に耳を澄ましていると,待ちに待った放送が.「間もなくはげはげに着きます.降り口は前側です.」

 

ここをクリックすると,はげ(半家)駅到着直前の車内放送が聞けます.

Hage2 はげ駅の看板の前で.相変わらず嬉しそうです.

Hage3 こういう風に露骨にかかれると困ってしまいます.

Hage9 1日7往復くらいの汽車(電車ではない)があります.

Hage4 はげ駅の前です.道路から行くと,階段を何段も登らなければ駅に行くことはできません. 

 はげ駅で下車してあたりを見渡すと,一面に緑が広がっている.駅の周囲には栗の木も多く,斜面に沿って段々畑のように石垣もある.こんな所に普段住んでいる東北とは違った,古くから人の手が入っている形跡を感じるのであった(JR山田線のローカル駅には全く人の手が入っていない).

 駅から長い階段を下りて道路に出ると,目の前には大きな川が.これが有名な四万十川である.四万十川といえば中村が有名であるが,実は予土線のはげ駅付近は四万十川の中流域に当たるのであった.

Hage7 はげ駅は四万十川観光の駅という側面もあります.

 さて,四万十川といえば沈下橋が知られている.これは,しばしば氾濫を起こす四万十川に対して,普通の橋を架けても流されてしまうため,流されないように水面に近い,欄干のない橋を架けたものである(水に対する抵抗を極力減らすとこういう形態になる).増水時には橋ごと水中に隠れてしまうことから沈下橋と呼ばれ,この四万十川には全部で47本の沈下橋があるそうだ.ここはげ駅近くにも”長生沈下橋”がある.私が訪ねたのは丁度大雨の直後だったため,残念ながら「清流四万十川」ではなかったが,橋のすぐ近くまで増水しており,本当の沈下橋になる直前の光景が見られたのであった.

Hage6 はげ駅近くにある”長生沈下橋”.増水のため,いまにも本当に沈みそうです.

Hage8 今にも沈みそうな橋の上で恐れおののくビザンチン皇帝(早く避難しなさい 笑).

ホームページ本編にも珍名駅のコーナーを設置しました(日本の珍名駅

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2006年10月18日 (水)

"寮歌を愛する会"への誘い

 寮歌は私の青春の歌である.今では主としてクラシックの声楽曲を愛好するようになったが(モーツァルトもそのひとつだ),深層心理には寮歌が眠っていて,ことあるごとに湧き出てくるのだ(カラオケに行ってもたまに寮歌を歌うこともある.私もKも実はカラオケ好きである).

 私の職場の同僚のご尊父が大変な寮歌愛好家で,年に1回秋田県能代市で「寮歌を愛する会」を主宰しているとのことであった.私が寮歌好き(今年夏の公舎のバーベキューの会で,酔った私とKが”北溟寮寮歌(都も遠し)”を歌っていた)であることを知った件の同僚が,ご尊父にそのことを知らせたため,私にその会へのお誘いが来た次第である.

 会は来週の火曜日,10月24日に行われるのだが,その最終案内が届いた.内容を読んでみると…….「健康保険証,持病のある方は病名,服用中の薬剤名とその薬効を…」,こ,これは,つまり持病の発作が起こるような年頃の人がたくさん参加するということか…,私もとりあえず医者の端くれであるが,何となく不安になってくる.さらに読み進めると,急遽参加する方がいるらしい.一高S23と書いてある.こ,これは…,もしかして昭和23年旧制一高卒業ということか…(自分の親が子供の頃だ),す,すごい.凄すぎる.さらに,ゲストの皆様へ「午後5時50分,寮歌着装にて会場へ」とある.寮歌着装とは??(その後読み進めると,どうやら必ずしも寮歌着装でなくてもいいらしい).

 それにしても件の同僚が,「いやー,ウチの親父本当に好きですからねぇ」と半ば困ったようにつぶやいていたが,会にかける熱意がひしひしと伝わってくる案内状であった.さあ,いったいどんな世界が待っているのやら,楽しみでありつつも何となく不安も抱く私であった.

Ryouka1 それにしても寮歌着装ってこんなの?(キングレコード ボニージャックスの寮歌の表紙の写真)

Ryouka2 それともこんなのか? 着物に袴なら持っているが(新選組のコスプレ用に).

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2006年10月16日 (月)

山本耕史と巡るモーツァルト

 おととい10月13日の夜にNHK BS-Hi Visionで”毎日モーツァルト”の案内人,山本耕史氏がモーツァルトの足跡を尋ねてザルツブルグやウィーン,プラハを旅するという企画を放送していた.この夏,私とKもウィーンとザルツブルグに旅行に行ってきたこともあり(このオーストリア旅行についてはHPの方にアップすべくただいま製作中です),是非見たいと思っていたが,この日は夕方から夜にかけて講演会がありリアルタイムでは見られなかったため,家でタイマー録画したものを先ほど鑑賞次第である(Kも所要で出かけていたため不在であった).

 この番組は山本氏がザルツブルグ,ウィーンなどモーツァルトゆかりの地を旅しながら,モーツァルトの生誕から死に至るまでの足跡をたどる形で進んでいく.当然番組のあちこちにはモーツァルトの名曲が流れるわけだ.

 冒頭,NHKのスタジオで山本氏の「役者という仕事柄,これまでいろんな人生とめぐり合ってきた.だが今年のモーツァルトとの出会いほど鮮烈なものはなかった…….」というセリフで番組が始まる.そしてモーツァルトの足跡を辿るべく,「鞄ひとつの気ままな旅」に出た山本氏であった(後からいろんな服装で登場するのだが,鞄ひとつに収まりきるのか?などという野暮なつっこみはやめておこう).

Mozart6_3 Mozart_2

写真左はザルツブルグ旧市街のメイン通りゲトライデ通り,写真右はモーツァルトの生家(嬉しそうに立っているのは私です).

 まず訪れたのは生地ザルツブルグ.旧市街のゲトライデ通りを歩く山本耕史,モーツァルト一色になった街に驚く.訪れたのは丁度ザルツブルグ音楽祭期間らしく,大勢の観光客でごった返していた.まずはモーツァルトのオペラを鑑賞すべく,祝祭劇場にやってきた(パリッと正装して登場.これも鞄に入れてきたのか?).観劇した作品は「フィガロの結婚」,ニコラウス・アーノンクール指揮で,アンナ・ネトレプコがスザンナを演じる,この夏一番の注目ステージだ(チケットはほとんど発売と同時に売り切れたらしい).ちょっとだけとはいえ,このステージが見れたのは私にとっては予想外の喜びであった.山本氏はオペラを生で見たのは初めてらしく感激した様子,はじめてのオペラ鑑賞がアーノンクールとネトレプコのフィガロなんてと,うらやむ私であった.

Mozart4

ザルツブルグの祝祭劇場です.私が行ったのは音楽祭1ヶ月前なので,まだ比較的閑散としていました,

 その後旧市街のモーツァルトの生家(Geburtshaus)を訪ね,当時モーツァルト一家が生活していた部屋を見学する.部屋の片隅には一台の古びたクラヴィーアがおいてあり,山本氏はガイドに促されるままにそのクラヴィーアを弾いていた.後でそのクラヴィーアが当時実際にモーツァルトが使っていたものだと聞かされて,「えっ,これモーツァルトが実際に触ったやつなんですか?」と無邪気に感動していた.Geburtshaus見学後,建物の5階に住んでいる人を訪ねてケーキとワインをご馳走になった山本耕史であった.

Mozart5_1 シェーンブルン宮殿です

 その後,ザルツブルグからウィーンに移動しシェーンブルン宮殿(ハプスブルグ家の夏の離宮)の鏡の間で,モーツァルトがマリア・テレジアの御前演奏をした跡をしのび,その模様が描かれた絵を感慨深く見る山本氏であった.その後は市内のモーツァルトの家を訪ねた.ここはフィガロの結婚を作曲した当時住んでいた家で,現在はモーツァルトハウス in ウィーンと呼ばれ多くの観光客でごった返している(この家は以前はフィガロハウスといって比較的地味な観光地であった).

Mozart7

ウィーン国立歌劇場内の休憩中の様子です.私とKはここで「魔笛」を観劇しました.

 ウィーンの後は,チェコの首都プラハに行く.プラハはモーツァルトが生前最も成功した町である.ここにあるスタヴォフスケー劇場は18世紀当時の様子をそのまま残した劇場で,ここで1787年にモーツァルト自身の指揮で「歌劇ドン・ジョバンニ」の初演が行われている.山本耕史は劇場のガイド(実は昔,劇場の指揮者だった人である)の説明に熱心に耳を傾けていた.

 その後はウィーンに戻り,シュテファン寺院や,妻コンスタンツェが療養に滞在した温泉地バーデン(ウィーン郊外にある奥座敷といった趣,盛岡でいえばつなぎ温泉か?)などを訪ね,最後はモーツァルトが葬られた雨のマルクス墓地を訪ねて終わるのであった.

 この間いくつかの印象的なシーンがあり,ザルツブルグの大司教コロレドとの決別のシーン(役者としての山本耕史の面目躍如のシーン)が特に印象的であった.またバーデンの教会でアヴェ・ヴェルム・コルプスの演奏が行われた場面では,山本氏ではないが涙が出そうなくらい感動した(合唱をやる人間にとっては忘れられない曲である.個人的には未完に終わったレクイエムよりも,モーツァルトの宗教心が純粋な形で表現された名曲と思う).その他最後のほうで,モーツァルトが最晩年,ドイツ語の歌劇魔笛を作曲した小屋(魔笛小屋)が出てきたが,これはザルツブルグのモーツァルティウムの庭に移築されているとのことで,この夏我々もザルツブルグを訪ねた際に探したのだが見つけられなかったところであった.また以前のブログにもアップしたモーツァルトの父,レオポルド・モーツァルトの墓の石版の行方についても知りたい出来事ではあったのだが,番組中で明かされることはなかった.

 こうして2時間のスペシャル番組はあっという間に終わってしまったが,200年以上たっても,これほど人々を熱狂させ続けるモーツァルトの偉大な存在に,改めて感心する私であった.

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2006年10月14日 (土)

妖怪検定合格発表!

 10月8日に境港市で行われた第1回妖怪検定の合格発表が本日ネット上で行われた.受験者421人に対して,401人が合格していた.合格率は95%である.観光的な色合いの高い検定であるから合格率が高いのは当然であるが(たとえば合格率が30%とかだと,わざわざ境港まで出向く人はあまりいないだろう),初級ということで問題が易しかったことも関係しているのであろう.私も晴れて合格者の中に入っていた(これで医学博士に続く2つ目の博士号だ 笑).後日認定証と妖怪博士ピンバッチが送られてくるらしい.楽しみである.

 今回の妖怪検定の試験問題をうろ覚えですが,写真付きで掲載します(テキストを見ながら思い出して列挙したため,一番最後の境港市の5問以外は実際の出題順とは異なります.写真が撮れなかった妖怪もありました).

1.写真の妖怪の名前

Raijuu   

  答え 雷獣

         

2. 写真の妖怪の名前 

 Momonjii_1

  答え 百々爺

3. これは何が化けたものか 

  答え ムササビやモモンガ

4. 写真の妖怪の名前

Garappa   答え ガラッパ

5. この妖怪に対してやってはいけないこと  

  答え 悪口

6. 写真の妖怪の名前(記述)

Ookamuro   答え 大かむろ

7. この妖怪の別名  

  答え たんたん坊

8. 山わろの大きさ  

  答え わらじのサイズが1メートル

9. 山わろの好きな食べもの  

  答え エビやカニ

10.写真の妖怪の元の姿

Kajibabaa   答え 鍛冶屋の女房

11.この妖怪が出現したわけ  

  答え 刀の代金を受け取りに行く途中狼に食べられた.

12.この妖怪の出身地  

  答え 高知県

13.この妖怪を退治に出かけた侍がみたものは  

  答え 白い一頭が率いる狼の群れ

14.写真の妖怪の名前

Wanyuudou    答え 輪入道

15.この妖怪の出身地  

  答え 京都の東洞院通り

16~17.この妖怪の特徴(2つ)  

  答え ①牛車の持ち主が死んで妖怪になった ②下町から山へ恐ろしい勢いで駆け上がった

18.写真の妖怪の名前

Nureonna   答え 濡れ女

19.キジムナーの大きさ

  答え 120センチ

20.写真の妖怪の出身地

Tesso   答え 滋賀県の比叡山

21.この妖怪はは何がどうやって生まれたのか

  答え 恨みを抱いた僧侶が妖怪化した

22.写真の妖怪の名前は

Dorotabo   答え 泥田坊

23.これは何が妖怪になったものか

  答え 酒飲み息子のために田を失った農夫

24.この妖怪は何と叫ぶか

  答え 田を返せ

25.写真の妖怪の出身地は

Konakijijii   答え 徳島県

26.この妖怪が抱きつくとどれくらいの重さになるか

  答え 五十貫(188キロ)

27~30.妖怪”朱の盆”の特徴4つ

  答え ①赤い顔 ②額に一本の角 ③針のような髪 ④耳まで裂けた口

31.雨師に仕えた子供の妖怪の名前は

   答え 雨ふり小僧

32.写真の妖怪の出身地は

Uwan   答え 青森県

33.天井なめは天井をなめてどうするのか  答え シミをつける

34. 写真の妖怪の名前

Makuragaeshi   答え 枕返し

35. この妖怪が現れると何が起こるか

  答え いろいろ災いがおこる

36.写真の妖怪の名前

Tankororin   答え たんころりん

37.この妖怪の出身地

  答え 宮城県

38.写真の妖怪の名前

Sagari   答え さがり

39.この妖怪は何が妖怪化したものか

  答え 道中病気で死んだ馬

40.悪鬼・疫鬼を退散させる妖怪の名前

   答え 方相氏

41.写真の妖怪の名前(記述)

Tenome   答え 手の目

42.何がこの妖怪を生み出したのか

  答え 盗賊に殺された恨みから

43.東北地方の妖怪”山精”に欠かせないもの

  答え 

44.写真(残念ながら撮れませんでした)の妖怪の名前

   答え しょうけら

45.これはどんな妖怪か

  答え 神様の見張り役

46.境港は何年連続水揚げ日本一だったか

  答え 5年

47.現在境港で水揚げ日本一のものとは

  答え カニ

48.水木しげるロードのブロンズ像は何体か

  答え 119体

49.鬼太郎駅と名づけられた駅は

  答え 境港駅

50.鬼太郎フェリーはどことどこを結ぶ?

  答え  隠岐

 以上でした(ふーっ).来年中級とかがあったら是非また行ってみたいと思った次第です.

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2006年10月12日 (木)

砂の惑星

 妖怪検定終了後,境港市内を見物(水木しげる記念館や妖怪神社,妖怪倉庫などを見て歩いた)し,遅い昼食を摂った.そして夕方5時半頃の汽車で再び米子に戻り,そこで乗り換えて,10月8日の宿泊地である鳥取市に向かった.

 鳥取市は鳥取県の県庁所在地であるが,主要な交通路から外れており(JR山陰線は電化されておらず,東京からのサンライズ出雲も鳥取は通らない.空港や医学部を抱える米子のほうが栄えているような気がする.甲子園でも米子東が有名だ),何となく地味なところという印象がある.そんな鳥取にやってきたのは,鳥取砂丘でジェダイの騎士の撮影をするためである.2005年の職場の忘年会でジェダイの騎士のコスプレをやり,いつか鳥取砂丘で砂の惑星の撮影をしたいと思っていたのである(欲を言えばジェダイの騎士 VS. ダース・ベイダーの構図でやりたかったのだが,残念ながら一人旅のため断念した).この撮影は今回の山陰遠征において,妖怪検定に勝るとも劣らないビッグイベントなのであった.

 撮影用の衣装は袋に入れて持っていったが,ライトセーバーはかさばるためあらかじめ鳥取のホテルに郵送しておいた.翌9日朝早く,レンタカーを借りて鳥取砂丘に向かった.

 砂丘に着くと,衣装袋とライトセーバーを持って砂丘内部に入っていく.草が生えている場所に荷物を置いて着替えて撮影をしたのだった(他の観光客がこっちを見て「あっ,スターウォーズだ」と叫んでいた 笑).いずれは網走の流氷で”氷の惑星”,屋久島で”森の惑星”ロケもやってみたいものである.

Jedi2 砂丘内の草が生えている場所で

Jedi4 砂丘にて,ライトセーバーのスイッチを入れているのですが,周囲が明るすぎて全く光りません.

Jedi3 砂丘には観光用のラクダがいます.相変わらずすごくうれしそうです.

Jedi5 指先の方向に敵がいるのでしょうか?

Saver1 これが我が家にあるライトセーバーです.赤いのはダースベイダー用で,青いのがアナキン・スカイウォーカー用です.

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2006年10月11日 (水)

妖怪検定本番

 2006年10月8日,今秋最大のイベント(?),境港妖怪検定の日がやってきた.朝から気分は高まっている.昨夜割り子そばを食べたため,この日は釜揚げそばが食いたくて駅のそば屋に入った.釜揚げそばを注文し,出てきたそばを見ると何の変哲もないかけそばに見える.しか~し!食べてみると大違いなのであった.普通のかけそばは湯通ししたそばに別に作ったそば汁をかけるが,この釜揚げそばは茹でたそばに蕎麦湯をかけ,汁で味付けしたシロモノなのだった.このため汁を一口飲むと,蕎麦湯の味がしてくるのである.そういえば岩手でも田舎の方に行くと,こういうそばがあったような気がする(岩手もそば所としては有名だ).

Izumosoba2 これが一見かけそばに見える釜揚げそばです.

 出雲そばも食べたし,いよいよ試験会場の境港に向かう.松江から境港に向かう王道はJR山陰線で米子まで行って,そこでJR境線に乗り換えて行く方法である(この方法だと1時間半くらいかかるが,1時間に1~2本くらい汽車がある).一方邪道は松江からバスで北東に向かい三保関から境水道を越えて境港に入る方法である.こちらは50分くらいで着くが1日に1~2本しかない).どっちにしようか悩んだが,結局王道を行くことにした.

 米子まで特急で行き(出雲市から松江,米子までは山陰線も電化されている),そこからいよいよ境線に乗り換える.JR境線は鬼太郎に会える汽車ということで,妖怪化された路線である.始点の米子から終点の境港まで全16駅全てが妖怪名を付けられているのだった(例 米子駅がねずみ男駅,境港駅が鬼太郎駅など.どうでもいいけどこの境線,全線20kmなのに駅が16個もあって,ほとんど東京の国電並みに発車,停車を繰り返しているのだった(20kmなんて,北海道だったら下手すれば駅2~3個しかないぞ 笑).

Yonagoeki 米子駅にて.境線は0番ホームです.

 境線は各駅ごとに水木しげる氏の絵が描かれたプレートがあり,停車ごとに車内を走り回って,撮影ポイントを探して写真を撮っていた(なかなか恥ずかしいものがあったが,私以外にも結構走り回っている観光客も多く,目立つことはなかった.地元の人もこんな観光客は慣れっこになっているのか,気にしていないようであった).

Kitaroueki 終点境港駅は別名鬼太郎駅です.

 終点境港駅で下車し,メインストリートである”水木しげるロード”を歩いてみた.道路沿いにたくさんの妖怪のブロンズ像がある.ああこれは高女だ,これはあかなめだと妖怪の名前が次々と出てくる.我ながら勉強の成果に驚くのだった.水木しげるロードの終点近くの交差点を右に曲がり,妖怪検定の会場である,境港市商工会議所を目指した.会議所ではすでに多くの受験者と思しき人々が来ている(鬼太郎やねずみ男の着ぐるみも来ていた).受付を済ませて会場に入り(当初の見込み以上に受験者が多く,4箇所くらいの会場が用意されていた),自分の座席を確認して座った.あたりを見渡すと,何人かの受験者が一心不乱にテキストを勉強している(なかにはテキストの重要項目に蛍光ペンでしるしを付けている人もいる).こりゃ大変だとばかりに自分もテキストを開いて勉強したのだった.

Kaijou 試験会場にて,開始30分前.静かに勉強しています.

 13時40分頃から試験の説明が開始される.試験開始後15分間は退出できないとか,机の上には筆記用具以外は置いてはいけないとか,不正行為があった場合は失格だとか型どおりの説明が行われた(さすがに観光的な試験のため,試験官もほのぼのとしていた).その後試験問題が配られる.答案用紙はなく,問題用紙に直接書き込むスタイルであった.

 14時に試験開始,思ったよりやさしい問題が多く,あっという間にできあがってしまう.開始15分で退出する人が続出していました.問題はというと,基本的に水木しげるロードにある妖怪のブロンズ像の写真を見て答えるスタイルで,多くが3択(時に4択)でした.問題の内容は後でアップします.問題数は全部で50,おそらく1問2点の100点満点かと思います.自分の印象は?というと,70%はできているでしょう.結果は今週末発表だそうです.

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2006年10月 8日 (日)

直前!妖怪検定

 インターネット上で妖怪検定の存在を発見して一ヶ月,テキストを取り寄せ,付け焼刃の勉強をしていよいよ本番が迫ってきた.出発したのは10月6日夕方である.以前の記事に載せたように当初,サンライズ出雲で直接山陰に乗り入れるつもりであったのが,予想に反して(?)サンライズの切符が取れなかったため,急遽急行銀河を利用することになったのであった.

Ginga 東京駅に入線してきた銀河号

 急行銀河は東京と大阪を結ぶ夜行の寝台列車である.急行列車であるため,今風の豪華寝台列車とは設備面では比較にならず,個室ではない昔風のA寝台車1両のほかは全て,二段式のB寝台車である.さすがに三段式のB寝台ではないようだ(昭和期には客車三段式B寝台という寝台幅52cmの極めて窮屈な寝台車が主流であった).まあ夜の11時に東京を出発して朝7時に大阪に着く列車であり,寝る以外には用事はないためB寝台で十分なのではあった(3連休の直前ということもあるのか,なんと全車満員であった).

Ginga2 急行銀河のB寝台です.ベッド幅は72cmです.

 翌7日,新大阪で下車し新幹線に乗り換えた.当初はすぐに山陰に入るつもりだったのが,大阪乗換えになったため寄り道をすることにしたからである.新幹線で広島まで行き,今度は山陽線に乗り換え,向かった先は安芸の宮島である.宮島は宮城の松島,京都の天橋立とともに日本三景に数えられている観光地であるが,なんと私は一度も行ったことがないのであった.

 宮島口で下車し,そこからフェリーに乗り換えて宮島に向かう(わずか10分の船旅である).上陸して早速厳島神社を目指す.さすが日本三景だけあって大勢の観光客でごった返していた.まずは有名な海上に浮かぶ大鳥居を見物,あたりを見渡すと外国人観光客がやけに多い.英語の他,フランス語もあちこちで聞こえる(私の周囲にはフランス人団体観光客がガイド(これもフランス語を話す西洋人)の話に耳を傾けていた).

Miyajima1 有名な大鳥居をバックに.付近のフランス人観光客に撮ってもらいました.

 大鳥居の見物を終え,今度は厳島神社の参拝に向かったのだが…….なんと,大潮のため神社内に浸水し,入場できませんとのこと.境内を覗き込むと係員らしき人々が懸命に水を掻き出している(もっとも,こういうことはよくあるらしく,係員も団体観光客のガイドも落ち着いたものであった).浸水から回復するまで待つ時間がなかったため,やむなく周辺を見物して帰りのフェリーに乗りこんだ.

Miyajima2 浸水で中に入れない厳島神社.

 次に向かったのは岩国の錦帯橋である.ここも話には聞いていても,行ったことがない場所であった.岩国駅からタクシーで15分くらいの距離である.この橋は第三代岩国藩主吉川広嘉が流れない橋を,とのことで架けさせたという,五連の見事なアーチ橋である.日本三名橋に数えられるのだそうだ(他の二つは長崎の眼鏡橋と東京の日本橋).

Kintai_1

錦帯橋にて.最も有名な川原からのショットです.

 岩国の見物を終えて,山陽線をさらに西に向かう.ガタゴトと揺られながら小郡(今は新山口と駅名が変わっている)に到着した.小郡は古来山陽道と山陰道の分岐点にあたる交通の要衝である(山陽道にそってJR山陽線が,山陰道にそってJR山口線が走っている).ここで山口線に乗り換えていよいよ山陰を目指す.途中山口で途中下車した.山口は室町時代に守護大名大内氏の本拠がおかれ,応仁の乱後には戦乱を逃れた都の公家が多数逃れてきて,西国の京といわれるほどの文化都市であったが,戦国時代には下克上で毛利氏の支配化に入った.江戸時代には毛利氏(長州藩)の居城が萩に置かれたこともあり,目立たない存在となったが,幕末になると藩庁が萩から移され俄然重要な場所になった.そんな土地柄であるから,町中,高杉晋作や桂小五郎などが目立っているのだった(サンリオのキティちゃんグッズにも奇兵隊バージョンがあった).そして山口駅で見つけたのが,この”薩長同盟弁当”である.私のような新選組愛好家にとってはチト厳しい弁当だが,興味があるため食べようとしたのだが,残念ながら売り切れであった(やむなく見本品とやらを写真に収めた.ところでこの弁当,薩長同盟の片割れの鹿児島でも売っているのだろうか?2年前に学会で鹿児島に行った時には見かけなかったが).

Sacchou1

薩長同盟弁当ののぼりです.残念ながら売り切れでした.

Sachou2 そしてこれが薩長同盟弁当の見本です.何かの混ぜご飯のようです.

 山口から特急スーパーおきに乗り本日の宿泊地松江に着いたのは夜であった.松江といえば”出雲そば”の本場,さっそく食べるべく手打ち蕎麦の店に走ったのだった(以下のホームページを参考にしましたhttp://www.city.matsue.shimane.jp/kankou/izumo_soba/).

 出雲そばは”割り子そば”と”釜揚げそば”が有名であるが,この日はまず割り子そばに挑戦した.色が黒く(そば殻も一緒に練っているためらしい),歯ごたえがあり,噛むとざらざらするそばはなかなか旨かった.

Izumosoba1 これが出雲の割り子そばです.ちなみに食べたのは「そば清」というお店です.

 さあ,いよいよ明日は妖怪検定本番です.

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2006年10月 2日 (月)

モーツァルトとジェネリック

 ある薬の特許が切れたあとに,他社が発売する同一成分の薬剤のことをジェネリック医薬品(通称ゾロ)という.さらに我が家ではマイナーなメーカーから発売されたパクリ商品のこともゾロと呼んでいる.今年はモーツァルトイヤーということもあり,今回はモーツァルト絡みのゾロのお話です.

 オーストリアのお土産の定番として,モーツァルトクーゲルン(Mozart Kugeln)と呼ばれる丸いチョコレートがある.赤い箱に入った,モーツァルトの顔の絵が描かれた金紙に包まれたお菓子で,見たことのある人も多いと思う.オーストリア全土(主要観光地や空港など)はいうまでもなく,日本国内でも大きなデパートで扱っていることもあるし,ザルツブルグの現地ガイドの話では,中央アジアのカザフスタンでも目撃されてるという情報もある.それほど有名なお菓子なのである.

Zoro みんな一度は眼にしたことがあると思われる赤と金のモーツァルトクーゲルン.

 しか~し!この赤いモーツァルトの顔が描かれたモーツァルトクーゲルン,実はゾロ品なのである.本家のモーツァルトクーゲルンはザルツブルグにある”フュルスト”というカフェで作られたものであり,銀紙に包まれて全体的に青っぽい色調となっている.一つ一つ手作りらしく,形も真球には程遠く,値段も高めである(先発品だから当然か?).

Honke こちらが本家のクーゲルン.銀と青を基調としています.

  どうしてゾロ品のほうが有名になったのか?何でも,モーツァルトクーゲルンを発明したフュルストの主人が特許申請をしなかったためとか.かくして大手お菓子メーカーがこぞってモーツァルトクーゲルンをゾロゾロと発売したのであった.実際ゾロ品のクーゲルンは一種類ではなく,色調は皆,赤と金であるものの,何種類かある.今回写真に載せたものの他に,ミラベル社製のクーゲルンが特に有名である(毎日モーツァルトの案内人の山本耕史がモーツァルトの足跡を辿ってウィーンやザルツブルグを旅する番組が今月放送されるが,取材の時にこのクーゲルンを食べたのだろうか?).

Kugeln 先発品と後発品.並べると先発品のほうが大きめです.後発品はみな赤と金を基調としており,青と銀を基調とした後発品はないようです(本家にはばかっているのか?).

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2006年10月 1日 (日)

妖怪検定に向けて

 昨日境港市商工会議所から通知が舞い込んだ.なんだろうと見てみると,当日の受付時間を変更するとのお知らせであった.なんでも申込者が450人を越え,当日受付の混乱が予想されるので,受付開始を早めたとのことであった.自分が申し込んだ時点で249人だったから,その後200人以上増えた計算になる.試験会場に入りきるのだろうかと,余計な心配をしてしまうのだった.

 さて,先日盛岡に行った際,山陰行きの切符を買うべく盛岡駅に出向いた.羽田から飛行機で行くという手もあるのだが,地に足が付いていないと何となく不安な私はやっぱり陸路がいい.幸い東京から山陰地方に向けては,”サンライズ出雲”という電車寝台特急が走っている.サンライズは全寝台(B寝台も含めて)個室という,恵まれた環境の列車である(B寝台の個室はそれなりに狭く,横幅はカプセルホテルなみではあるのだが).しかも電車寝台車であるため,普通のブルートレイン(客車寝台車)に比べて発車・停車時の揺れが少ないというメリットもある.これはもう,サンライズで決まりだろうと盛岡駅のみどりの窓口で申し込んだ(寝台券はネットでは買えないため,みどりの窓口に出向く必要がある).

 と,ところが.「いやー,満席ですねぇ.のびのびシート(普通指定席扱いの,一応横にはなれる,雑魚寝タイプの客室)もありません」という駅員の非情な声.カシオペアじゃあるまいし,サンライズってそんなに人気の列車だったんだ,と妙な感心をした私である(やっぱり3連休直前だからということらしい.帰りのサンライズは確保できた).結局仕方なく,東京発大阪行きの”急行銀河”のB寝台を使うことにしたのだった.急行銀河は夜11時に東京を出て翌朝7時ごろ大阪に着く夜行の急行列車(いまや急行列車なんてほとんどないよなぁ)である.ビジネス客などにはそれなりに需要があるらしく,いまだに廃止されずに生き残っている夜行列車の老舗でもある.ただ,急行列車の悲しさか,昔のブルートレインのお下がり客車を使用しているため,設備的にはサンライズとは比較にならないのである.さあ,頑張って行ってこよう.

Sunrise1 これは以前乗車したサンライズ瀬戸号の外観です(サンライズ出雲号も同じ造りです).

Sunrise2 これはB寝台個室シングルです.横幅はカプセルホテル並みですが,高さはそれなりにあります(同じB個室でもソロはまさにカプセルホテルです).

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