はなさかづきその後
8月5日に東京でエルプロの公演”はなさかづき”を観た.戊辰戦争期の会津藩が舞台で,鳥羽伏見の戦いから鶴ヶ城落城までが描かれていた.白虎隊をはじめとする会津戦争についてはこれまでも多くのドラマや舞台で取り上げられているが,その後の会津藩士のたどった道については余り語られることがないように思う.戦後所領を没収された会津は明治3年に陸奥の国(今の北東北)に斗南(となみ)藩として再興を許され,藩士およびその家族併せて17000人がここに移住したのである.
”はなさかづき”に触発されて斗南藩について調べていたが,なんと!下北半島大間町に斗南藩士の末裔の方がやっている”会津斗南藩資料館”があることが判明,こりゃ行くしかないと先週末さっそく出かけたのだった.
私の住んでいるところから下北半島の中心都市むつ市まで約180km,8月26日お昼前に出発して(途中寄り道をしながら),夕方にむつ市に着いた.まず向かう先は同市大湊にある,斗南藩士上陸の地である.約17000名の会津の人々は陸路,海路様々なルートで斗南にやってきたが,新潟から海路でやってきた人たちが初めて上陸したのがここ大湊である.ここには上陸の碑がひっそりと建てられていた.港は現在では護岸工事がされているため往年の面影はないが,港から見える釜臥山の風景は昔から変わっていないはずである.初めて斗南の地に上陸した人々は,どんな思いでこの山を見たのだろうか.
(写真1) 大湊にある”斗南藩士上陸の地”の碑.鶴ヶ城の石垣と同じ石を使っており,会津の方角に向かって建っているそうです.
(写真2) 大湊から見える釜臥山.上陸した藩士たちはどんな夢を抱いてこの山を見たのでしょうか.
上陸の碑を見た後は日が暮れたため市内に宿泊した(むつ市の繁華街をぶらぶらしたが,結構活気があって,少なくとも私が住んでいる町よりは栄えていると感じた).
翌27日,まずは市内田名部にある円通寺に行った.ここは今では恐山の本坊として知られているが,当時ここに斗南藩の藩庁がおかれ,藩校の日新館も開かれた.境内には招魂碑(明治23年に藩主だった松平容大公による揮毫という)が建てられている.
円通寺を後にして今度は下北半島の北東端の尻屋崎を目指す.市内から数キロ走った道の左側に斗南ヶ丘と呼ばれるところがある.ここが移住当時に藩士たちが街を作ろうと開拓した土地である.現在当時がしのばれる建物などはなく,荒れた山林の中に碑(土塀跡という寂しい印しがわずかに残るのみ)が建っているだけであった(厳しい風雪で建物はすぐに倒壊してしまったらしい.それほど厳しい気候なのである).またここには秩父宮殿下斗南ヶ丘巡遊記念碑もある(秩父宮妃は松平容保公の孫勢津子であり,御成婚にあたっての会津人の感激は大きなものだったという).
(写真5) 斗南ヶ丘にある当時の市街地跡.今では市街地があった痕跡はほとんどない.
斗南ヶ丘の後,旧斗南藩士の墓に行こうとしたのだが,通り過ぎてしまったのか見つけられなかったため今回は断念,その後いよいよ本日のメインイベント,大間町の資料館訪問となった.
尻屋崎から車を走らせること1時間強,大間町郵便局の向かいにそれはあった.生花店の2階が資料館になっているとのことであったが,見ると「本日はお休みします」という紙が.ガーン,そ,そんなとショックを受けたが,「御用の方はインターホンでどうぞ」とも書いてあったため,とりあえずインターホンを鳴らす.応答があったため,資料館に伺った旨をお話しすると中に案内していただけた(生花店の方はお休みだが,資料館の方は遠方から来るお客さんも多いため呼ばれれば開けているとのこと).感謝しつつ中に入った.
資料館はお店の2階になっており,一部屋に様々な資料がきれいに並んでいた.容保公の写真各種や,当時の会津城下の地図,新潟から海路斗南にやって来た藩士が乗船した蒸気船ヤンシー号の絵,当時の名簿や書簡(はなさかづき関連では佐川官兵衛の写真や山川大蔵の書簡などもあった),短剣などが展示されていた.なかでもとりわけ貴重なのが,松平容保公が斗南を去るにあたって書いた直筆の掛け軸(向陽処.自分たちは賊軍の汚名を着せられ流されたが,いつかは陽のあたる処に出ることもあろう.その日まで会津藩士の誇りを失うことなく努力しようという意味らしい)である.これらは全てこの家に所蔵されていた品々である.一通り見て回った後,館長の方とお話しをした.それにしても,どうしてこんな貴重な資料がここにあるのか不思議に思ったが,この家のご先祖が斗南藩の史生(藩の記録を残す役職)であったため,これらの資料が残っているとのことであった.今でも新しい資料や事実がわかってきているとのことで,はなさかづきにも出てきた梶原兵馬が実はその後北海道に渡って根室で死んだというお話も伺った(お墓といわれる写真もあった).最後にお店においてあった星 亮一著「会津藩 斗南へ」を購入して御暇したのだった.
大間町にすむ斗南藩の末裔の方が開いた会津斗南資料館は郵便局の向かいにあります.ホームページは下.
その後国道338号を海沿いに南下し,湯野川温泉の濃濃(じょうじょう)館という共同浴場で入浴して家に帰ったのである.下北半島にはこの他にも柴五郎(後の陸軍大将)の居宅跡などゆかりの地がある.いずれまた再訪したいと思った次第である(この下北半島訪問記はホームページ本編に詳細してあります 下北半島斗南藩紀行 ).
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コメント
…凄いなぁ。
隊長、思い込んだら一直線、の方なんですねぇ(笑)。
芝居に触発されて斗南藩の資料を調べるだけではなく足を運んでしまうとは。
天晴れで御座います。
上記の資料館で展示されている貴重な品や、隊長が足を運ばれた史跡に大変興味を持ちました。
中でも鶴ヶ城の石垣と同じ石で作られているという斗南藩士上陸の地の碑。
自分もこの場所から大湊の風景を見てみたいと思いました。
下北半島訪問記、楽しみにしております。
投稿: 桜庭百太郎 | 2006年8月31日 (木) 07:58
その行動力、流石です隊長!
上演した方としてはそのお気持ち大変嬉しく思います。
私が下北半島へ赴いた時は真冬だった為、恐山は閉山していた上、ガイド等には斗南藩の事は載っていませんでした。
青森はまた訪問する予定ですので是非資料館等会津の足跡を訪れたいと思います。
今でも少しずつ史実が分かってきているとの事、嬉しいですね。
私事ですが、いずれ今話題の(笑)根室に赴き梶原さんのお墓参りをしたいと思っております。
下北半島訪問記楽しみにしてます!
投稿: 蒼野 | 2006年9月 1日 (金) 04:25
桜庭様,蒼野様書き込みありがとうございます.斗南藩のことは私も以前から知識としては知っていましたが,今回の訪問で初めて当時の藩士の方々の心の一端に触れられたような気がします.大湊の上陸の碑は本当に気が付かなければ素通りしてしまいそうな感じで,穏やかな海辺(大湊湾は天然の良港で本当に穏やかです.斗南藩士たちもこの大湊港を長崎に負けないような国際港にしようと夢見ていたそうです 斗南藩資料館の館長に伺った話です)にひっそりと建っています.
でも今回の皆さんのお芝居を見なければ,このような経験もなかったわけでこれも新選組のおかげかな?と思っています(三番隊隊長の斎藤一も斗南藩士として五戸に行っていますし).
投稿: 管理人 | 2006年9月 1日 (金) 04:45