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2006年8月30日 (水)

はなさかづきその後

 8月5日に東京でエルプロの公演”はなさかづき”を観た.戊辰戦争期の会津藩が舞台で,鳥羽伏見の戦いから鶴ヶ城落城までが描かれていた.白虎隊をはじめとする会津戦争についてはこれまでも多くのドラマや舞台で取り上げられているが,その後の会津藩士のたどった道については余り語られることがないように思う.戦後所領を没収された会津は明治3年に陸奥の国(今の北東北)に斗南(となみ)藩として再興を許され,藩士およびその家族併せて17000人がここに移住したのである.

 ”はなさかづき”に触発されて斗南藩について調べていたが,なんと!下北半島大間町に斗南藩士の末裔の方がやっている”会津斗南藩資料館”があることが判明,こりゃ行くしかないと先週末さっそく出かけたのだった.

 私の住んでいるところから下北半島の中心都市むつ市まで約180km,8月26日お昼前に出発して(途中寄り道をしながら),夕方にむつ市に着いた.まず向かう先は同市大湊にある,斗南藩士上陸の地である.約17000名の会津の人々は陸路,海路様々なルートで斗南にやってきたが,新潟から海路でやってきた人たちが初めて上陸したのがここ大湊である.ここには上陸の碑がひっそりと建てられていた.港は現在では護岸工事がされているため往年の面影はないが,港から見える釜臥山の風景は昔から変わっていないはずである.初めて斗南の地に上陸した人々は,どんな思いでこの山を見たのだろうか.

Tonami1  (写真1) 大湊にある”斗南藩士上陸の地”の碑.鶴ヶ城の石垣と同じ石を使っており,会津の方角に向かって建っているそうです.

Tonami2  (写真2) 大湊から見える釜臥山.上陸した藩士たちはどんな夢を抱いてこの山を見たのでしょうか.

 上陸の碑を見た後は日が暮れたため市内に宿泊した(むつ市の繁華街をぶらぶらしたが,結構活気があって,少なくとも私が住んでいる町よりは栄えていると感じた).

 翌27日,まずは市内田名部にある円通寺に行った.ここは今では恐山の本坊として知られているが,当時ここに斗南藩の藩庁がおかれ,藩校の日新館も開かれた.境内には招魂碑(明治23年に藩主だった松平容大公による揮毫という)が建てられている.

Tonami4  (写真3) 円通寺.当時斗南藩の藩庁がここに置かれた.

Topnami3  (写真4) 境内にある招魂碑.

 円通寺を後にして今度は下北半島の北東端の尻屋崎を目指す.市内から数キロ走った道の左側に斗南ヶ丘と呼ばれるところがある.ここが移住当時に藩士たちが街を作ろうと開拓した土地である.現在当時がしのばれる建物などはなく,荒れた山林の中に碑(土塀跡という寂しい印しがわずかに残るのみ)が建っているだけであった(厳しい風雪で建物はすぐに倒壊してしまったらしい.それほど厳しい気候なのである).またここには秩父宮殿下斗南ヶ丘巡遊記念碑もある(秩父宮妃は松平容保公の孫勢津子であり,御成婚にあたっての会津人の感激は大きなものだったという).

Tonami5 (写真5) 斗南ヶ丘にある当時の市街地跡.今では市街地があった痕跡はほとんどない.

 

Tonami6  斗南ヶ丘の後,旧斗南藩士の墓に行こうとしたのだが,通り過ぎてしまったのか見つけられなかったため今回は断念,その後いよいよ本日のメインイベント,大間町の資料館訪問となった.

 尻屋崎から車を走らせること1時間強,大間町郵便局の向かいにそれはあった.生花店の2階が資料館になっているとのことであったが,見ると「本日はお休みします」という紙が.ガーン,そ,そんなとショックを受けたが,「御用の方はインターホンでどうぞ」とも書いてあったため,とりあえずインターホンを鳴らす.応答があったため,資料館に伺った旨をお話しすると中に案内していただけた(生花店の方はお休みだが,資料館の方は遠方から来るお客さんも多いため呼ばれれば開けているとのこと).感謝しつつ中に入った.

 資料館はお店の2階になっており,一部屋に様々な資料がきれいに並んでいた.容保公の写真各種や,当時の会津城下の地図,新潟から海路斗南にやって来た藩士が乗船した蒸気船ヤンシー号の絵,当時の名簿や書簡(はなさかづき関連では佐川官兵衛の写真や山川大蔵の書簡などもあった),短剣などが展示されていた.なかでもとりわけ貴重なのが,松平容保公が斗南を去るにあたって書いた直筆の掛け軸(向陽処.自分たちは賊軍の汚名を着せられ流されたが,いつかは陽のあたる処に出ることもあろう.その日まで会津藩士の誇りを失うことなく努力しようという意味らしい)である.これらは全てこの家に所蔵されていた品々である.一通り見て回った後,館長の方とお話しをした.それにしても,どうしてこんな貴重な資料がここにあるのか不思議に思ったが,この家のご先祖が斗南藩の史生(藩の記録を残す役職)であったため,これらの資料が残っているとのことであった.今でも新しい資料や事実がわかってきているとのことで,はなさかづきにも出てきた梶原兵馬が実はその後北海道に渡って根室で死んだというお話も伺った(お墓といわれる写真もあった).最後にお店においてあった星 亮一著「会津藩 斗南へ」を購入して御暇したのだった.

Tonami7

 大間町にすむ斗南藩の末裔の方が開いた会津斗南資料館は郵便局の向かいにあります.ホームページは下.

斗南藩士末裔による手作り資料館と生花店

  その後国道338号を海沿いに南下し,湯野川温泉の濃濃(じょうじょう)館という共同浴場で入浴して家に帰ったのである.下北半島にはこの他にも柴五郎(後の陸軍大将)の居宅跡などゆかりの地がある.いずれまた再訪したいと思った次第である(この下北半島訪問記はホームページ本編に詳細してあります 下北半島斗南藩紀行 ).

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2006年8月25日 (金)

冥王星が‥‥

 昨日国際天文学連合の総会で冥王星を惑星から除外することが決議されたらしい.子供の頃から慣れ親しんできた「すいきんちかもくどってんかいめい(水金地火木土天海冥)」が通用しなくなったワケである.近年の天体観測技術の進歩から,このままでは新しい惑星が続々増えていく可能性があるからのようだ.今回の会議で惑星の定義が定められ,太陽の周囲を回っていることのほかに,自己の重力により球形となっていることや,ある程度の大きさが必要ということが決められたらしい.この定義に従えば,今後新たな惑星が発見される可能性は低いのであろう.たしかに冥王星は大きさが小さく(月の2/3位しかない),離心率が大きい(軌道が強い楕円である)など惑星と彗星の中間のような性質を持っている.学者の中には冥王星をはずしたことでかえってすっきりしたと言う人もいるようだ.

 とはいえ,慣れ親しんだ冥王星が除外されたことは一抹の寂しさも感じる.SFでは冥王星は太陽系の玄関口といったイメージがあり,異星人の地球侵略のための前線基地がおかれることが多かった(宇宙戦艦ヤマトのガミラスや白色彗星帝国など),今後地球侵略を狙う宇宙人は海王星に基地を作るのだろうか(笑).

 一方で天体観測技術の進歩は著しく,今でも多くの新星や小惑星が発見されている.ちなみに新しく発見された天体の命名法には決まりがあり,彗星の場合は発見者の名前が(鈴木さんが発見した場合は「鈴木彗星」など),新星の場合は所属する星座+符号で決められる.小惑星の場合は発見者が自由に名前をつけられるので,日本人が命名した小惑星には「仮面ライダー」や「新選組」,「早見優」などというのもある(自分が発見したら「コンスタンチヌス21世とでもつけようか(笑)).

 いずれにせよ,今回の冥王星フィーバー(?)は,昔天体少年だった自分を思い出させてくれた.

Yamato  (写真) ガミラスの侵略を阻止すべく冥王星に向かった古代進とアナライザー.そこで彼らが見たものは….こんなこともあったりして(作画はうちのKです)

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2006年8月23日 (水)

寮歌の思い出

 実は高校時代の私は弊衣破帽に,腰に手ぬぐいぶら下げて高下駄をカランコロンさせて歩くバンカラ学生であった(今ではその片鱗もないが).そんな格好をしていたのはひとえに旧制高等学校に憧れていたからであった.旧制の高等学校は旧制中学(5年制)卒業後に進学(実際には4年修了で受験できたらしいが)するもので,年齢としては今の高3から大学2年(いわゆる教養課程)位の3年間に相当する.授業的には文科と理科に分かれて各種教科(丁度新制大学の教養課程のような授業,当然第2外国語もある)が行われていた.なぜ,こんな旧制高校に憧れていたかといえば,当時の高校生はごく一部の優秀な生徒のみが進学しており,寮で仲間と酒を酌み交わしながら(当然未成年だったはずだ),やれニーチェがどうした,やれヘーゲルがどうしたと難しい学問について語り合っているというイメージがあり,そんな彼らがとてもカッコいいと感じていたからである.

 そして旧制高校といえば寮である.旧制高校は明治時代のナンバースクール(第一から第八まである)と以後の都市名がついた高校(ネームスクール),さらには大学予科(北大など)や私立も併せて40位あるのだが,ほとんどの学校に寮があり,多くの学生はそこで生活をしていたのであった.寮にはそれぞれ魅力的な歌(寮歌)があり,当時の私は好んで歌っていたものだった(当時ボニージャックスや加藤登紀子のLPレコードを買ったり,日本校歌寮歌集なるマニアックな本も持っていた).ただ,大学に入って以降はクラシックの声楽曲に目覚めてしまったため,この寮歌愛好は深層心理のなかに深くうずもれてしまった.だが今でも酔っ払った時や旧友に会ったときなどには顕在化するのであった.

 さて,何で今日この話題を出したかといえば,先日私の深層心理に訴える出来事があったからである.それは私の職場の方のご尊父が弘前大学北溟寮の出身で,大変な寮歌愛好者であるとのことを伺ったからであった(北溟寮は旧制弘前高等学校の寮である).そして何を隠そうこの私も弘前大学北溟寮出身なのでであった.思いがけぬ偶然に感激した次第であった.

Bankara1  ちなみに北溟寮寮歌は

 都も遠し 津軽野に あふるる生気 若人の 胸に希望の 春は来て 高なる血潮 紅に 咲くは理想の 花の色 潜む大鵬 みちのおく

 であった.

Ryokashu

 (写真上) 弘前大学時代の私.卒業式の日に寮門前で(このままの格好で卒業式に参加).(写真下) これが日本校歌寮歌集.今はもう絶版だろうなぁ.

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岩手の秘境駅2

 先日秘境駅であるJR山田線「大志田駅」について書いた.今回は同線の別な秘境駅である「浅岸駅」について書いてみる.

 浅岸駅は盛岡から宮古方面に向かって大志田駅の次の駅であり,大志田と同様に国道106号線からかなり外れたところにある(浅岸の次が区界でここからは国道106号と並行して走るため,かなり開けた感じになる).アプローチは国道106号線区界の手前から林道に入って向かう.道幅2~3mの狭い道だが,所々に退避スペースがあり,一応舗装もされているなど,国道455号線から大志田駅に向かう林道よりはよっぽどまともであった.

Asagishi6

Asagishi3  国道から分け入って走ること11km,浅岸駅に到着した.駅は1本の線路と1本のホーム,それにホーム上のこじんまりとした駅舎と,大志田駅にそっくりな構造である.大志田駅と同様昔はスイッチバック方式の駅だった.ただ,スイッチバックの引込み線はもう既になく,辛うじて当時引込み線だったと思われる部分が道路になっていて,それと判る程度であった.ただ,大志田駅と違うのは駅前に校舎と思しき建物があることだ.ここは旧中津川小学校だそうである.小学校があったということは,以前はそれなりに人がいたといわけで,少なくともここに駅がある必然性は感じられる.また駅から2~3km程度のところに民家や畑もあり,利用者もそれなりにはいるのだろう(列車の停車本数も5本と,大志田よりも多い).

Asagishi4 Asagishi2

Asagishi1 川井村出身の私の母親は,この浅岸に親戚がいたらしく,よく子供の頃に浅岸駅から歩いて親戚の家に行ったものだと自慢していた.いずれにせよ,駅の構造はそっくりな大志田,浅岸両駅であるが停車本数,アプローチ道路の難易度,周辺の生活感からみて秘境度では大志田駅に軍配が上がるのは間違いないと思われた.

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2006年8月20日 (日)

岩手大学合唱団サマーコンサート

 本日8月20日に岩手県沿岸北部の普代村というところで岩手大学合唱団(以下岩大合唱団)のサマーコンサートが行われた.岩大合唱団は冬に定期演奏会を行い,夏には県内のどこかの地域に出かけて,当地の老人ホームや小中学校への訪問演奏を行っている.この訪問演奏の間にその地域で小さなコンサートを開いているのだが,これがサマーコンサートである.

 私は盛岡バッハ・カンタータ・フェラインという合唱団に所属しているのだが,この合唱団には岩大合唱団のOB・OGのみならず現役の学生も多数参加しているため,何かと付き合いが深いのである.定期演奏会の方も,自分の出身合唱団である東北大混声合唱団の定演には10年近く行ってないのに,岩大の定演には毎年行っている位である.

Samakon3

 今回の会場は普代村(人口3200あまりの小さな村です)の自然休養村管理センターというところ.もちろんコンサートホールなどではなく,地元の公民館といった趣だ.私が会場に着くとすでに沢山の来場者でごった返している(私の外来にやってくる患者さんもいた).今回は地元の合唱団との合同ステージもあるとのことで,集客力のアップに働いているのだろう.構成は4部で,1部が合唱団の愛唱曲,2部がミュージカル,3部が地元合唱団との合同ステージ,4部がメインで後輩に伝えたい”日本の混声合唱愛唱曲集”であった.私は途中病院からの呼び出しをうけてしまった(涙)ため残念ながら2部と3部は聞けなかったが,1部と4部でとり上げられた曲は,自分も学生時代によく歌っていた曲だったためとても懐かしく感じた次第であった.

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2006年8月19日 (土)

球界の盟主とは?

 8月の第1週末に江戸表に行った際,千葉マリンスタジアムに野球を見に行った.週末とはいえほぼ満員に膨れ上がったマリンスタジアムであったが,20年以上前のオリオンズ時代のロッテを知るものにとっては感慨深いものがあった.当時のロッテはお世辞にも人気球団とは言い難く,本拠地の川崎球場はいつも閑古鳥が鳴いている状態であった(バックスクリーン付近に入ったホームランボールを,ポール際から走っていっても十分にゲットできるくらい客がいなかった.特に秋の消化試合の季節になると選手や関係者の数より客の数の方が少ない日もあったという).ただ昭和63年に当時の近鉄バファローズがシーズン終盤信じられない勢いで勝ち進み,最後のロッテとのダブルヘッダーで連勝すれば西武をかわして逆転優勝という日(いわゆる10・19)には川崎球場に超満員の客が詰め掛け,急遽テレビ中継もされるなど(確かテレビ朝日系だったと思う)大いに盛り上がった事もある(もっとも,客の99%は奇跡の優勝を願う近鉄ファンであり,ロッテと有藤監督は完全に敵役であったが).週末とはいえびっしり埋まったスタンドを見て大いに感慨に浸ったのだった.

Marine1  その時ふと頭に浮かんだのが,球界の盟主という言葉である.最近でも新聞や雑誌などでセ・リーグの読売ジャイアンツを指して球界の盟主という言い方をする人達がいる.しかし球界の盟主とはいったいなんだろうか? 私が思うには球界の盟主とは人気,実力もさることながら,野球界発展のための人材を多数輩出する球団でなければならないと思う.そういう観点からすると,かつての巨人軍は紛れも無く球界の盟主であった.選手OBが自軍のみならず各球団に散って,それぞれの球団の発展に尽力していたのである.古くは三原脩(あの大洋ホエールズを優勝させた),青田などがいた.その後広岡や森がヤクルト,西武両球団に果たした役割は大きいものだったし,高田も日ハムの監督・GMをやっている.王監督のホークスや日本球界に対する貢献度はいまさら言う必要もないだろう.

 しかし現在のジャイアンツをみていると,そういう人材が育っているとはとても思えない.むしろ逆で,他球団から人材をかき集めて辛うじてチームとしての形を維持している状態である(自分のチームすら自力で維持できない状態であり,とても他球団や球界全体を発展させる余裕はなさそうだ).

Marine2  そのように考えてみて,じゃあ今の球界の盟主はどこだろうと改めて思う.そうするとひとつのチームが浮かび上がってきた.福岡ソフトバンクホークスである.ホークスは昔大阪に本拠を構える名門チームだったが(現楽天監督の野村氏は昔ホークスの選手兼監督だった),長い低迷時代を経て福岡に移転し現在の形になっている.

 私がホークスがすごいと思うのはここ数年,毎年のように主力選手がチームを離れているのに,相変わらず優勝争いをしているという点である.FAで工藤が巨人に去ったのをはじめとして,井口,城島がメジャーに,村松がオリックスへ,小久保が巨人へと主力選手がごっそりと抜けてしまっているにもかかわらずチームが弱体化しないこの底力に感心するのである.これはつまりは選手を育成する機能がしっかり働いているからであろう(セ・リーグでいえばヤクルトスワローズも選手が流出しながら,なかなか弱くならないチームである).やはり次世代の選手をしっかりと育成しながら,しかも優勝争いもするのが,球界の盟主と呼べるチームのあり方であろう.井口,城島,松中,小久保といったホークス出身選手は間違いなく,将来の日本野球界を背負って立つ人材になるであろうと確信している私であった.

Marine3 (写真)敵地マリンスタヂアムでもかなりのホ-クスファンがいた.

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2006年8月16日 (水)

平庭高原

 カシオペアチケットの購入に失敗した私であったが,その帰り道に見つけたのがここで紹介する森のおそば屋さんである.場所は平庭高原の葛巻側のふもとである.

 岩手県北部は元々蕎麦の産地として有名(要するに土地が痩せていて米が作れない)であり,おいしいそば屋も多い.しかもしゃれたお店ではなく,民家をそのまま転用したような店が多いのも特徴である.この店もそんな感じであった.内部は民家をそのまま利用したような造りで,囲炉裏では岩魚や茶餅を焼いていた.

 私が注文したのは「水車そば」で,あったかいかけそばと冷たいざるそばに,雑穀飯と御新香などがセットになったものだった.

 ちなみにお店は川の傍にあり,ここで使われるそば粉は地元の水車を使って挽いているという.もちろん蕎麦湯もしっかりと出てくるのであった.

 そばを満喫した後,平庭峠を越える.ここは葛巻町と久慈市の境にもなっており,白樺林が美しい高原である.当地は岩手短角牛や乳製品,くずまきワインなどの名産品で知られているのだった.

Morinosoba2

Morinosoba3  Morinosoba1_1  

 

Hiraniwa  

 

 

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第1回カシオペア計画

 9月に3連休がある.ここをどう使うかが今の我が家での関心事である.現段階で決まっていることは連休初日の9月16日に仙台で学会があることだけである.ゆえに16日午前に仙台にいることは確実なのだが,その後は全く未定である.愛知県の友人Nからも遊びに来いという誘いが来ているのだが,せっかくだから,ただ行くのは面白くないので,16日の昼に仙台から札幌に飛んで,そこから寝台特急カシオペアに乗って東京まで出るという企画を考えた.

 カシオペアは全室A個室のJR東日本が誇る豪華寝台列車である.シャワー室やトイレまで完備したカシオペアスイートと普通の2人用個室のカシオペアツインからなる(その他スイートとほぼ同じだが若干狭いカシオペアデラックスも1室のみある).非常に人気がある列車で発売と同時に売り切れることでも有名だ.このチケットをゲットしようというのが今回の企画である.JRの特急券は丁度1ヶ月前の午前10時に発売ということで,本日がその日であった.

 前日8月15日は当直だったため,朝起きてシャワーを浴びてから8時半に岩手沼宮内駅に出発する.距離は約70kmである.なぜ岩手沼宮内なのか,実はこういうプラチナチケットは発売と同時に売り切れるため,発売時刻である午前10時かっきりに購入する必要がある.このため盛岡駅や仙台駅のような窓口が混んでいる駅では10時に自分の順番が来る保証がないのである(行列を待たせて購入するようなことはしたくない).その一方ローカル過ぎる駅では,一人の駅員が何役も仕事をこなすため10時に窓口にいない恐れもある.このためプラチナチケット購入に適した駅とは

 1.常に窓口に駅員がいる

 2.窓口が混んでおらず,しかも10時ごろに発着する電車がない.

 こんなムシのいい条件を満たす駅こそ,岩手沼宮内駅である.この駅は東北新幹線の八戸延伸時に開業した駅で,元は特急はつかりも停車しないローカル駅であった.ここに新幹線が停まることになったのは,そうしないと盛岡の次が70kmはなれた二戸まで駅がなく寂しいからと思われる.こういう駅であるから利用状況も寂しく,新幹線も1日8往復しか停車せず,1日の利用客も100人と新幹線の駅としては全国で最も利用客が少ないところであった.しかし,曲がりなりにも新幹線の駅であるため窓口には常に駅員がおり,新幹線も2時間に1本のため,丁度10時ごろは客もいないのであった.実は以前,寝台特急北斗星の個室チケットを取る際にこの駅を利用し,見事にゲットできた経験があったのである(北斗星もカシオペアほどではないが,個室チケットの取りにくい列車である).

 さて,快調に車を走らせ午前9時50分頃に駅に到着した.切符購入申込書に必要事項を記入して窓口に行くと,いつもはいないはずのお客さんが,そうお盆の帰省シーズンで臨時列車がたくさん走っているのだった.予想外の展開にちょっとあせる(前回の北斗星の時は,貸切状態の窓口で9時55分くらいから全ての事項を機械に入力して,10時かっきりにENTERキーを押してもらって購入したのである).なんとか10時ちょっと前に順番が回ってきたが,今日の駅員はなれていないのか入力に手間取り,10時を回ってもまだキーを操作している.オイ大丈夫か,と心配していたが10時5分頃に「いやー,ヨーイドンで売切れてしまったようですね」とにこやかに言う.オイオイだから10時かっきりに買いに来たのにと泣きたい気分になった.手際の悪い駅員を怒るわけにもいかず,肩を落として寂しく帰ったのだった(せっかく70kmも走ってきたのに).

 かくして第1回カシオペア計画は無残な失敗に終わったが,次回に向けて決意を新たにする私であった.

Hokutosei (写真)今年の5月に乗った北斗星.今回残念ながら2匹目のどじょうはいなかった

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2006年8月15日 (火)

モーツァルトと小泉純一郎

 今日8月15日は終戦の日,日本にとって特別な日である.そういうわけではないだろうが,今朝またしても”毎日モーツァルト”が流れてしまった.小泉首相の靖国神社参拝のニュースに吹き飛ばされてしまったのである.政治的な理由でこの番組が流れたのは7月5日の北朝鮮のミサイル発射についで2回目である.政治的な話題は本ブログの趣旨にあわないので普段は載せないのだが,今日は特別な日ということでお許し願いたい.

 今朝のニュースを見た私の感想は「何だかなー」であった(実はこれ,7月のミサイル発射の際に受けた感じと極めて似ている.理由は後述).私は昔からプラモデルを作ったり,今でも戦跡を見に行くこともあったりと軍事マニアの部類に入るのであるが,正直言って靖国神社に対する思い入れはあまりない(旧軍の兵器等が展示されている博物館的な興味はあるが).それはいわゆる靖国史観とA級戦犯の問題が引っかかるからである.靖国神社は基本的に軍人・軍属が祭られている軍のための施設である(なぜか文民のA級戦犯も祭られているらしいが,一方で原爆や空襲で亡くなった方や沖縄や外地で戦闘に巻き込まれて亡くなった方は入っていない).もちろん祭られた英霊の99%は一銭五厘の赤紙1枚で召集され,心ならずも戦陣に散った人たちである.しかしそんな彼らと,自らの意思で軍人を志し,軍の中枢にいて国を動かした人たちを一緒に考えることはできないと思う.

 A級戦犯の問題に関しては,「東京裁判は連合国側によって一方的に押し付けられたものだ」という意見が今でも見られる.それはその通りなのだが,では東京裁判でA級戦犯とされた人物が全く何の罪もないのかと考えれば,決してそうは言えないのではないか.太平洋戦争が自衛のためやむをえない戦争であったと考える向きが今でもある.昭和16年の状況のみを考えればそうかもしれないが,歴史は流れであり何もないところから急にあの昭和16年の状況になったわけではない.それ以前の昭和8年の満州事変,昭和12年の盧溝橋事件に始まる日中戦争の行き着いた先が昭和16年だったのである.それゆえ昭和16年夏の段階では戦争になるのは必至だったかもしれないが,それ以前ならいくらでも外交的,政治的に解決するチャンスがあったはずである.開戦前,陸海軍ともにアメリカとの戦争になった場合,勝機はないと認識していたのだから,なおさら努力すべきだった.それをしないままずるずると戦争に突入し,結局国を滅ぼしたのだから当時の軍や政府首脳の責任は極めて重いと言うほかない.つまりは東京裁判が連合国によって押し付けられたから(たしかに東京裁判の判決はかなり政治的で正義の裁判とは言えない部分も多い)と感情的に反発しA級戦犯を擁護するのではなく,仮に東京裁判が無かったと考えて,我々日本人自身によるあの戦争に対する総括を行うべきなのである.

 しかしながら日本では戦争が終わるとすぐに「一億総懺悔」というワケのわからないスローガン(?)が出てきて,あの戦争は国民みんなの責任といわんばかりにたくみに戦争責任が隠されてしまったのである.一億総懺悔とはおかしな話で,現代日本なら政府首脳は一応選挙で選ばれた人たちがなっており,その人たちの責任も,まあ突き詰めれば有権者である国民の責任と言えなくもない.しかし当時は25歳以上の男子にのみ選挙権があり(女性には選挙権が無かった),しかも5・15事件以来政党政治が崩壊してからは,国民によって選ばれた人物が国の中枢をになったことはない(選挙で選ばれた議員は大半が大政翼賛会であり,一部の気骨ある議員は活動を妨害されたり迫害を受けた).国民が懺悔する理由などどこにもないのである.懺悔すべきは国策を誤った政府や軍の首脳らであり,我々は戦争に至った経緯と責任の所在を明らかにするための議論を行わなくてはならないのである(もちろんこれは近隣諸国がどう言うからではなく,あくまでも日本人自身で決着をつけるべきものである).

 そんなわけであるから,小泉首相が言う,不戦の誓いをするために靖国神社を参拝するという議論に賛同できないのであった(不戦の誓いなら,毎年政府主催でやっている天皇陛下も出席する戦没者追悼式じゃだめなのか.また不戦を誓う相手も靖国の軍人よりも,罪無くして戦火に倒れた一般国民や戦場となったアジアの人たちの方がより重要ではないのかと感じる).

 ここで最初の話題に戻る.多くの人たちが「よせばいいのに」と思っていることを敢えて強行するという点が,何となく北朝鮮のミサイル発射に通じるものがあると思った次第である(もしかしたら小泉純一郎と金正日は気が会うかもしれない.二人とも芸術を愛するそうだから 笑).果たして番組を流されたモーツァルトはどう思っているのだろうか.我々日本国民に祟るのだけは勘弁してほしいものだ(ミサイル発射後北朝鮮で水害が起こったそうだが,これも祟りなのか?).

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 8月の毎日モーツァルトは夏休み特集で今週はリクエスト(皮肉にも18日はミサイル発射で流れた回が再放送される),来週は声楽曲特集らしい(毎週月曜には山本耕史氏も顔を見せており,ウチのKも大喜びである).

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2006年8月14日 (月)

岩手の秘境駅

 今日も暑い.午前中にお墓参りに行って,実家で昼食をとってから帰ることにする.ただそのまま帰るのもツマラナイので,実家近くの秘境に寄ってみることにした.

 数日前の記事にも書いたが,盛岡から北上山地を横断して宮古市に出る鉄道,JR山田線には俗に秘境駅と呼ばれる駅が存在する.秘境駅とは人家もほとんどなく,アクセスが困難な場所にある無人駅のことで,停車する列車も日に数本といったレベルであることが多い.山田線は地図で見ると判るが,盛岡市と川井村の境の区界駅から宮古寄りは国道106号線に沿って走っているが,区界よりも盛岡寄りでは国道を大きく迂回するように走っている(どうしてこんな経路になっているのかは不明).このため途中の大志田駅,浅岸駅は国道からも遠く,人家もほとんどない場所にひっそりと駅だけが存在するのであった.そして,この2駅こそが全国に誇る山田線の秘境駅である.今日はそのうち大志田駅を訪ねることにした.

Yamadasen_1

 (地図1)山田線の図.区界までは106号線とは別ルートになっている.

Ohsida

 (地図2)大志田駅付近の地図.林道以外なにもありません.

大志田駅はなんと!1日に上下あわせて3本しか列車が停まらない(普通列車すら通過する,だから秘境駅なわけだが).列車で行くと下手をすると丸一日放置状態にされてしまうため,今回は車で行くことにした.国道455号線の外山というところから,大志田駅11kmの標識に従ってわき道に入っていく.道幅2~3mの未舗装の林道である.急勾配,急カーブの連続(いわゆるキック道)で,ところどころ土砂崩れを起こしている.本当にこの先に駅があるのか不安になるような道を走ること30分(こんな道路のため11kmの行程でも30分かかってしまうのだった.もちろん冬季は閉鎖になる),ついに大志田駅に到着した.

Rindou  (写真1)こんな林道を10kmも走ります.

 大志田駅は単線の線路(列車交換用の待避線はない)にホームが1本だけの構造で,ホーム上に待合室が付いている.この駅は国鉄時代は,当時でもめずらしいスイッチバック方式の駅で駅員も常駐していた.列車本数も今よりはずっと多く,1日に何本も停まっていた(母親の生まれ故郷が川井村なため,小学校時代には,夏休みになると毎年山田線で出かけていたものである).

Ohshida1

 (写真2)秘境大志田駅に佇む私

 

 Ohshida2 (写真3)大志田駅の発車時刻.なんと!下りは1日1本しかありません.

 駅構内を見渡すと,ホームから浅岸側に本線からスイッチバック用の引込み線が錆びた状態で残っていた.たしか昔の駅はこの引込み線上にあったはずである.見ると昔の駅舎かと思われる建物が朽ち果てて残っていた.ホーム上で写真を撮ったりしていると,不意に警笛が,見ると盛岡方面から列車がやってくるではないか.顔に快速と書いてある.13時46分盛岡発の,宮古行き快速リアスであった.列車は排気ガスを撒き散らしながら,決して速くはない速度で通過して行った(この辺は勾配がきついため,ディーゼル車は喘ぎながら走っていくのだった.列車には結構乗客も乗っていて,ホームに立っている我々に手を振ってくる人もいた(こんなところで何しているんだろうと思ったかもしれない).

Hikikomi

 快速列車を見送った後,我々も駅を後にする.帰りは線路に沿った林道(こっちは舗装されている)を走って上米内駅に抜けた.

 短い間ではあったが秘境気分を楽しめた探検であった.同行していたKに感想を聞くと,こんな近くに秘境があるとは思わなかったと感心していた.アフリカや南米だけが秘境ではなく,こんな身近(盛岡市内)にも秘境が隠されているのである.

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2006年8月13日 (日)

盂蘭盆

 今日8月13日は久しぶりに実家に戻っている.いわゆるお盆だからである.盆は特に盂蘭盆(ウラボン)とも呼ばれるが,これはサンスクリット語(古代インドの言葉だがいわゆるインダス文明の言葉ではない)のウランバナの音訳といわれている.本来は仏教用語で旧暦の7月15日頃に父母や先祖の供養をするという意味合いだったようだが,日本では更に発展して踊りやらお祭りやらで国を挙げての夏休みの時期といった感じになっている(時期も新暦で8月15日前後になっている).

 お盆ではあるものの,今日は私が所属する合唱団”盛岡バッハカンタータフェライン”の強化練習があるため日中はそちらに出向いてきた.来年1月に盛岡でバッハのヨハネ受難曲の演奏会があるからである.盆にもかかわらず東京や仙台からも会員が駆けつけてにぎやかな練習となった(幸い昨日あたりから寒気が入り込んでいるという話でそれほど気温が上がらず練習には丁度良い気候であった).仙台から参加していた,学生時代からの友人と練習終了後どこかに行こうという話しになり,盛岡駅前の焼肉屋に出かけて久しぶりの親睦となった次第である.

 明日はお墓参りをして仕事に戻らなければならないのであった.

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2006年8月 9日 (水)

真夏日

 いよいよ夏本番である.昨日8月8日は岩手県内各地でこの夏一番の暑さとなった(盛岡で35℃!).この日私は急な出張で沿岸中部の宮古市に出向くことになった.私の住んでいる地域から宮古市までは,三陸沿いに南下すると90km位の距離であるが,この日は一度盛岡に寄ってから行かなければならなかったため片道200km以上の行程となる.改めて岩手県の広さにめまいを覚えるのだった(なにせ四国四県分の広さがある.北東端の洋野町から南西端の須川温泉まで軽く250kmはあるだろう).

 盛岡に着くとうだるような暑さである.普段あまり暑くないところに住んでいる人間にはこの暑さは非常にコタエル.さっさとこんな処にはおさらばしようと,用を済ませるとすぐに宮古に旅立った.盛岡-宮古間は国道106号線で約100kmである(100kmもありながら盛岡市と宮古市の間に位置する自治体は川井村のみ!).ほとんど信号もない一本道であり,渋滞することも無く順調に走る.約2時間で宮古にたどり着いた.

 仕事の帰り,ついでにと寄ってみたのがここで紹介するJR山田線花原市(けばらいち)駅である.何の変哲もないただのローカル駅であるが私にとっては思い入れのある駅だ.小学生くらいのときに何気なく時刻表を見ていて見つけたのである.漢字で書くとどうってことないが,時刻表のように平仮名表記すると「なんとも変な名前だなぁ」と思った次第である.実際に行ってみると国道106号線のすぐ傍に短いホームと開放式の待合室のみの駅なのであった.JRになってからは各地のローカル駅の駅舎もシンプルになったが,国鉄時代はどんな小さな駅でもそれなりに重厚な造りであった.この花原市駅の偉大さはそんな国鉄時代から今のようなシンプル待合室のみの駅だったことである(幼い自分にとっては結構衝撃であった).

Kebara1_1  追伸) JR山田線は岩手でもレベルの高いローカル線で,いわゆる秘境駅もいくつか持っている路線である.これについてはまたいずれの機会に.

Kebara2 Kebara8現在の花原市駅.(上)ご覧の通りの開放式の駅舎.バスの待合室みたいです.(中)時刻表を見るとなんと!盛岡行きは1日3本しかありません(平行してバスが走っていてこちらの方が時間,値段とも勝っています).(下)駅のプレートは今風に変わっています.

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2006年8月 7日 (月)

はなさかづき

 先週末江戸表に出向いた最大の目的は5月のひの新選組まつりでお世話になったエル・プロダクツ(エルプロ)の公演を見に行くためであった.エルプロは主に時代ものを取り上げて活動している女性ばかりの劇団である.私は今年のひのパレで思いがけなくも六番隊隊長井上源三郎の役をやらせていただいたのだが(ひのパレのレポートについてはホームページの方にアップしてあります第9回ひの新選組まつり参戦記録),この時六番隊の隊士を務めていただいたのがエルプロの皆さんなのであった.パレードの合間に行われた殺陣のパフォーマンスも見事で,これは是非公演を見に行かなくてはと思っていた次第である.

 今回の演目は”はなさかづき”,これは戊辰戦争における会津藩がテーマである.会津藩といえば幕末に京都守護職であった松平容保公の治める藩である.孝明天皇の信頼も厚く,最も勤皇でありながら戊辰戦争では朝敵の汚名を着せられた悲劇の藩として知られている.維新後も不毛の地”斗南”(今の下北半島)に移封され辛酸を舐めさせられている(最もこの斗南移封については,会津藩士自身が猪苗代と斗南のうち斗南を選択したともいわれている).そんな会津の戦いをテーマにした作品であった.

 8月6日11時の公演を観に行くため東京は銀座へと向かう(山高シャッポにロイドめがねではなかったが…… って誰もわからないか 笑).会場は銀座みゆき館劇場という小さな劇場,最初に入った時はあまりにこじんまりとしていてちょっと驚いた.

 さて,舞台である.物語は慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いから9月の会津藩降伏までの出来事が演じられている.会津藩家老で,北越戦争に参加し鬼官兵衛と恐れられた佐川官兵衛とその側近,桜庭百太郎を中心とし,それに会津で小料理屋を営む結城孫八という無駄に男前な店主と,情報屋の田所一矢が絡む形で進んでいく.基本的には史実にそって話は進んでいくのだが,所々に創作やお笑いも交えていた.飯盛山での白虎隊自刃の場面では独自の解釈(城下の炎を城が燃えていると誤認して自刃したとされている部分を,まだ城は燃えていないことを知りつつ,帰還が困難であることを悟って魂となって城を守ろうと自刃したことにした)を出して白虎隊隊士の純粋さを高めるのに成功していたと思う.また会津の伝統芸能である彼岸獅子が所々に登場して演出効果を上げていた(彼岸獅子については,日光口の戦闘で大鳥圭介とともに善戦していた家老の山川大蔵が会津に帰還した際,鶴ヶ城が既に敵に包囲されていたため,彼岸獅子を舞って敵の目を欺いて入城したという話が有名である.このエピソードは昭和55年のNHK大河ドラマ”獅子の時代”でも描かれていたのを覚えている).役者もみな個性的で良かったと思う(特に佐川や山川のキャラクターが良かった).

 とにかくあっという間の2時間であった.私は昔から涙腺が弱く,ちょっと感動するとすぐに涙が出てくるのだが(ハクション大魔王の最終回や赤毛のアンのマシューが死んだ回などは未だに涙なしでは見られない),今回も大いに感動した次第であった.

Hanasakaduki (写真)今回の公演のチラシです.いったいどこで撮影したのでしょうか?

斬心 (エルプロの活動や公演についての情報が見られるサイトです)

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不思議の島”千葉”

 この週末江戸表に行ってきた.最大の目的は5月の「ひの新選組まつり」でお世話になった,エルプロの皆さんの公演を見るためである.こちらについては後に詳しく記したいと考えているが,せっかく江戸まで行くのだからついでに野球も見に行くことにした.めざすは千葉マリンスタジアムである.同じ日に神宮と東京ドームでも試合があったのだが,個人的にパリーグの試合の方が好きなために千葉まで行くことにしたのだった.試合はマリーンズ対ホークスで,結局マリーンズがサヨナラ勝ちしたため地元の観衆は大いに盛り上がっていたのだった.

 さてこの千葉県であるが実は北海道および沖縄県と意外な共通点がある.

 答えは”陸続きの県境がない”である.そんな馬鹿なと思う方は地図を見てみよう.地図の上で千葉県は東京都,埼玉県,茨城県と県境を接しているがその県境を追っていくとほぼ常陸利根川,横利根川,利根川,江戸川,旧江戸川になっており他都県から千葉に入るには水を超えなければならないのである(厳密に言えば極一部地域はつながったっぽい所もあるが,まあ誤差の範囲内ということで許してもらおう).つまり橋を渡らない限り濡れずに千葉には入れないというわけだ.ちなみに千葉出身の友人Nは「千葉は浮島だ」と言っていたし,極論すれば「日本は北海道,本州,九州,四国,千葉島等からなる」とも言えるのであった.その他にも山がちな日本の中で千葉には高い山がなく(千葉には標高500メートル以上の山はないらしい),その光景は何となく異国風(イギリスに似ているか?)である.また千葉の人達は地元意識が薄いのか,千葉にありながら”東京”と名がついたものも多い(例 東京ディズニーランド,新東京国際空港など).この論理でいくとロッテも新東京ロッテマリーンズになるのだろうか(笑).まさに不思議の島千葉であった.

 (地図)千葉と周辺都県との境.よく見ると川ばかりである.

Photo 2 3

 

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2006年8月 4日 (金)

アクセス解析

 最近のブログではアクセス解析といって,自分のブログを訪れた人がどんなルートでたどり着いたのか,解析するプログラムが付いている.一般には何らかの検索サイトから入って来るパターンが多いのだが,ここ2~3日の私のブログを訪問してくれた方々の場合,検索のキーワードは圧倒的に”山本耕史”であった(その他”ジェネリック”で検索していた人もいた).ということはもし山本耕史がらみの記事を書かなければ,誰も訪ねてくれなかった可能性もあるわけであった.考えてみれば世の中に存在するブログっていったいいくつくらいあるのだろう.一人で複数のブログを持っている人もいるようだが,その総数はまったく想像もつかない.とすれば一生目にすることもないブログもたくさんあるわけで,まさにブログの世界も一期一会である.訪ねてくれた人たちを大切にしたいものだと感じた次第であった.

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2006年8月 3日 (木)

ついに梅雨明け!

 昨日8月2日でついに東北地方の梅雨が明けたらしい.今日は早速気温も上がり夏らしくなってきた.元々私の住む岩手県沿岸北部は夏でもあまり気温の上がらない地域である.一般に東北地方北部(青森,秋田,岩手)は緯度が同じならば,太平洋側に比べて日本海側のほうが温暖である.青森県津軽地方や秋田県は米どころとして知られているのに,反対の太平洋側はちょっとした冷夏であっという間に米の作況指数が低下してしまうのであった.これは北東北太平洋岸にはヤマセという冷たい北東の風(極偏東風)が吹き込んでくるためである.このため同じ青森県でも津軽半島は古くから栄えてきたのに,反対側の下北半島は明治になってからようやく開発が始まったのであった.戊辰戦争後に会津藩の人々が移封された斗南藩はこの下北半島地域にあり,平成の現在でも稲作が難しい地域である(このことからも,当時の会津藩の人たちの苦労がしのばれる).ちなみに新選組副長助勤で,維新後会津藩と行動をともにした斎藤一が斗南藩時代住んでいた地域は五戸(ごのへ)といって,青森県の太平洋側(三八上北地方)にあり,私が住んでいるところから比較的近い.このことからも私の住む地域の夏があまり暑くないことがわかるのであった.

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2006年8月 2日 (水)

盛岡さんさ踊り

 いよいよ8月である.しかしここ東北地方はいまだに梅雨が明けていない(今日2日は晴天であり,もしかしたら今日あたり梅雨明けだったりして).例年だと東北地方は7月下旬の梅雨明け後一気に夏になり,8月上旬の夏祭り期間中に盛夏を迎える.そして盂蘭盆の頃には既に朝夕には気温が下がり始め,もう秋の気配となる.このように短い東北の夏であるが,短いからこそ人々の気分も盛り上がるわけで8月上旬に各地で盛大に夏祭りが行われる.有名なところで青森のねぶた祭り,秋田の竿灯祭り,仙台の七夕祭りが俗に東北3大祭りと呼ばれている.このほかでは弘前のねぷたや八戸の三社大祭,山形の花笠まつりなども有名である.わが岩手ではこの時期,盛岡でさんさ踊りが行われる(今年は8月1日から4日までの4日間).実行委員会では「日本一の太鼓パレード」,「東北5大祭り」と鼻息が荒いが,そこまでメジャーかと言われると考え込んでしまうのであった(盛岡のお祭りとしては6月に行われる「チャグチャグ馬っこ」の方が有名な気がする).

 ただ,私はここ数年盛岡に拠点がないためせっかくのお祭りも行く機会が無かったが,昨日8月1日は夕方から盛岡に行く用事があり久しぶりに街を歩いてみた.通りには夜店が並び,観光客や浴衣を着た地元の老若男女でごった返している.数年ぶりに見たのだが以前よりは観客が増えているような気がした.踊りの方は各種団体がそれぞれおそろいの浴衣を着て勇壮に舞い踊っていた(この日は岩手医大や盛岡友愛病院など医療関係の団体も多く参加していた).地元民としては今後も大いに盛り上がって欲しいものである.

Sansa

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