2024年4月10日 (水)

南予観光

 一夜明け4月10日になりました。この日も昨日に続き快晴の良いお天気です。ホテルの朝食後チェックアウトをしてまずは愛南町南部にある紫電改展示館に向かいます。紫電改は第二次世界大戦時の日本海軍の主力戦闘機のひとつで、陸軍の四式戦闘機「疾風」とともに大戦後期の苦しい戦況の中で活躍した戦闘機です。大戦初期の1000馬力級だったゼロ戦や一式戦「隼」を大きく上回る2000馬力級のエンジンを搭載した機体でしたが当時の日本の技術力では手に余るものがあり、整備が非常に難しく稼働率が低いなど問題を多く抱えた機体でもあります。それでも整備がうまく行った部隊などでは期待に違わない活躍を見せています。当館に展示されている機体は昭和53年に付近の久良湾に原型を保ったまま沈んでいた機体が引き上げられたもので、日本に存在する機体としては唯一のものです。今は何も言わず鎮座している紫電改を見て改めて戦争と平和について考えました。

Img_1921 Img_1912(左写真1)紫電改展示館、(右同2)海底から引き揚げられた紫電改

 紫電改展示館を後にして北上、まずは途中の須ノ川公園に立ち寄ります。ここは主にキャンプ場として利用されているところですが、平日の日中ということで誰もおらず、きれいな南予の海を眺望できるスポットでした。この後は津島町にある日本の道100選の南予レク道路を見てさらに北上、この日宿泊予定の宇和島市を通過して高知県との県境にある松野町に入ります。実はこの町には続日本100名城のひとつ河後森城と日本の滝100選のひとつ雪輪の滝があるのです(正直この日は100関連の場所ばかり観光していた)。

Img_1923 Img_1932(左写真3)須ノ川公園、(右同4)カメが!

Img_1942(写真5)あおさのりうどん

 途中寄り道をしたこともあり、この段階でお昼、まずは食事をということで松野町の道の駅へ、この日は海老天入りのあおさのりうどんになりました(あおさのりを練りこんだうどんが美味)。食事後はまずは河後森城へ、ここは戦国時代の山城跡で土佐と伊予の国境に位置する重要な拠点でした。ここを治めていたのは公家の一条氏の諸流の渡辺氏でした。名門であり当地の盟主的な存在だったのですが、土佐の長曾我部氏が勢力を拡張する中で城を追われてしまいました。後に豊臣秀吉による四国遠征が行われるとこの地には藤堂高虎が、江戸時代になると伊達家が治めるようになり、最終的に元和の一国一城令によって廃城になっています。山頂に本郭が、尾根筋に沿って多くの郭がU字型に設置されるなど典型的な山城ですが、使用されたのがむしろ安土桃山時代だったことから一部石垣のほか、櫓や天守もあったとされています。城跡としてよく整備されていて当時の姿を想像することができる場所でした。

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Img_1977_20240509172801(左上写真6)河後森城案内図、(右上同7)郭がよく残っています、(左下同8)石垣、(右下同9)本郭

 河後森城の後は同じ松野町内の山の中に入っていきます。目指すは滑床渓谷と呼ばれるところです。途中から対向車が来ると怖いような狭い道が続きますが、幸い平日のためかほとんど出会うことはありませんでした。走ること30分で渓谷入り口にあるロッジに到着、ここから歩いて滝を目指します。ロッジの人からマップをいただきそれを見ながら歩いていきます。川に沿って渓谷を歩くというのは山梨の西沢渓谷や熊本の菊池渓谷をほうふつさせます。この日は往路を右岸、復路を左岸というコースを取ったんですが、結果的に正解でした(右岸は少しアップダウンはあるものの景色がよく、一方左岸は平坦だが渓谷が見えない地帯が続く)。約30分ほどで目的地の雪輪の滝に到着、豪快に落ちる滝ではなく、一枚岩を滑りながら水が流れる滝でした。水流が渦を巻く様が雪輪のように見えることからこの名があるそうですが、一方で夏のシーズンには天然のウォータースライダーが楽しめるんだそうです(要ガイド)。

Img_2019 Img_2033(左写真10)滑床渓谷、(右同11)雪輪の滝

 しばし滝を堪能した後は駐車場に戻りそのまま宇和島市内へ。駅近くのホテルにチェックインした後は地元の料理屋さんで鯛などの南予の美味しいものを堪能したのでした。

Img_2040(写真12)南予名物鯛の刺身

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2022年5月31日 (火)

もうひとつの五稜郭

 5月29日日曜日はふと思い立って長野県の佐久市に繰り出しました.目的は続日本100名城の一つである龍岡城を訪問することです.

 龍岡城は龍岡藩1万6千石の藩庁で,築城が開始されたのは幕末の元治元年で一応の完成を見たのが慶応3年です.日本100名城正続200城の中で最も歴史が新し城郭になります.そしてこの龍岡城が特記すべきなのは,これが西洋風の五芒星星形城郭(いわゆる五稜郭)であることです.

P5290588 Img_8196(左写真1)龍岡城大手門跡,(右同2)堀と郭

 星形要塞は近世以降のヨーロッパで発達した城郭の形態で,敵の火砲による攻撃を防ぎつつ,攻め寄せる敵兵に効果的に射撃を浴びせることを目的としています.中世までの城は高い城壁を持つことがより強力な防御を持つことを意味しましたが,火砲が発達すると高い城壁は格好の目標となり容易に破壊されうるようになりました.この対策としてより低く厚い城壁が求められるようになったのです.ただし日本では大型の火砲が多数配備される前に戦国の世が終わったこともあり,城はシンボル的なものとなり高い城壁,派手な天守や櫓などを持つ形態のまま幕末に至りました.

P5290605 Img_8191(左写真3)現存する唯一の建物である御台所,(右同4)龍岡城隣にある五稜郭公園

 しかし列強の脅威が迫る中で従来の城郭ではとても拠点を守ることは困難であり,西洋風の城郭が作られることになります.もちろん代表例は函館の五稜郭ですが,信州佐久にも同じコンセプトの城郭が作られていたのです.ただ龍岡城の広さは函館五稜郭の4分の1と小ぶりで,堀も狭く,付近の小高い山から全体が一望できるなど,とても実戦に耐えうるとは思えず,これは西洋文化に造詣が深かった藩主松平乗謨の個人的な趣味によるものではと考えられています。

 明治後廃城となり大半の建物は破却あるいは売却されましたが,唯一御台所のみ現存しています.また現在城内は佐久市立田口小学校の敷地となっています.

Img_8203(写真5)展望所から見た龍岡城,周囲の緑が五角形を示しています

 五稜郭といえばその全体像を眺めてこそその感慨が味わえます.函館の五稜郭はすぐそばに高さ107mのタワーがありますが,龍岡城にはそのような塔はありません.その代わり城の北東部の山の中腹に展望所があり,そこから全体像を把握することができます.

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2022年1月24日 (月)

山城歩き

 コロナ禍になって明らかに運動量が減ったことを自覚しています.学会や研究会が軒並みオンラインになったことや旅行の自粛などどこにも行かない生活が増えたからだと思います.そのことは自分の体重が微妙に増えてきていることからもわかります(笑).

 そんな世相ですが少しでも運動量を増やそうということで,現在取り組んでいる日本の滝100選や続日本100名城と組み合わせることでそれに取り組んでいます.特に山城散策は出会う人もまばらでコロナ時代にぴったりの運動でしょう.この週末はそんな続100名城の一つである隣県の高天神城に行ってきました.

Img_7211 Img_7138(左写真1)この山全体が高天神城,(右同2)搦手門跡

 高天神城は駿河国と遠江国との国境付近に位置する山城で,特に元亀から天正年間頃(1570年代)には徳川家康と武田信玄・勝頼親子との激戦の地となった城郭です.南に追手門,北に搦手門がありそこから登城することができますが、そこ以外は山が急峻で攻め入ることが困難な造りになっています.武田信玄でも落とすことができなかった難攻不落の城でした(その後勝頼の代になって攻略に成功(第一次高天神城の戦い)するも、長篠の戦い後武田氏が衰退していく過程で家康に奪い返された(第二次高天神城の戦い))。

Img_7160 Img_7166(左写真3)堀切,(右同4)土塁

 この日は北の搦手門側から登城します。登り坂が続いて息が上がりますが遊歩道は整備されておりそれほど苦労はしません(滝と違って城は人が住んでいた場所なのでキツイといってもレベルが違う 笑)。この城郭は大きく東側の本丸・三の丸と西側の二の丸・西の丸の2つの部分に分かれています(一城別郭)。中世城郭でまだ石垣が一般的になる前の時代なので,石垣はありませんが、堀切や土塁、曲輪の形は良く残っており往時をしのぶことができました。

Img_7194(写真5)第一次高天神城の戦いで捕虜になった大河内政局が捕らわれた石牢

 全体で4キロのハイキングコース,ちょっとは体重が減ったんではないかと思います(笑)。

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2021年12月 9日 (木)

丹波丹後観光

 先日間人蟹を食べに丹後半島方面に行ってきましたが,普段なかなか訪れる機会が少ない場所ということで周辺の観光にも行ってきました.

Pc040181(写真1)福知山城

 まずは福知山城,丹後とその南に隣接する丹波地区は織田信長が天下布武を掲げて戦っていた天正年間,その命を受けた明智光秀が数年かけて攻略していった土地です.その前半生が謎に満ちている光秀が歴史の表舞台に登場し一番活躍していた時代にかかわる場所です.福知山城は丹波平定後に光秀が同地の拠点として築いた城です(続日本100名城にも入っている).

Pc050206 Pc050239(左写真2)黒井城の石垣,(右同3)眺望がすばらしい

 ついで黒井城,光秀の丹波征討戦で最大の激戦地となった城です.猛将として知られる赤井直正が拠点とした山城で江戸時代に入って間もなく廃城になったものの,現在でも山頂部に石垣と曲輪が残っています(ここも続日本100名城).麓の興禅寺は江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母だったお福(後の春日局)の生誕地となっていますが,これは光秀の黒井城攻略後,当地を管理したのがお福の父親斎藤利三だったからです.

Pc050246(写真4)興禅寺

 黒井城の後は西の養父市にある日本の滝100選の天滝渓谷を目指したのですが,残念ながら雨が降ってきたために断念し,その北の香美町にある猿尾滝に行きました.こちらも100選滝で,滝の下段の様子が猿の尾のように見えることからその名があります(猿尾滝は駐車場からすぐにあるのに対し,天滝は遊歩道を1時間ほど歩かなくてはならないので冬の雨の中ではつらい).

Pc050269(写真5)猿尾滝

 そして間人蟹をいただいた翌日は丹後半島の観光,まずは近くにある琴引浜へ.ここは鳴り砂の浜として知られる場所です.最初に付近にある琴引浜鳴り砂文化館で予習をします.鳴り砂の原理や条件,世界各地の同様な場所の紹介がありました.鳴り砂の条件は砂がきれいで乾燥していることであり,当地の冬は雨や雪が多く,また海からのごみの漂着もあって鳴りにくいことを知りました.その後浜へ行くとやっぱり係員が「今日は鳴らんのですよ」と言っていましたが,もしかしたら乾いたところを探して歩けば鳴るかもということで少し期待して浜を歩きました.確かに乾燥したところを探してすり足で歩くと「キュッ,キュッ」と鳴っています.感動の一瞬でした.

Pc060283 Pc060288(左写真6)鳴り砂文化館,(右同7)琴引浜

 琴引浜を後にして丹後半島を海沿いに東に向かいます.丹後松島を過ぎて今度は半島東部の伊根町に入ります.ここは舟屋と呼ばれる海に面した1階に舟を収容するスペースを持つ建物が並ぶ光景で知られる地です.この日は遊覧船に乗って海から舟屋群の様子を眺めました.

Img_6904 Img_6887(左写真8)丘の上から,(右同9)舟屋群

 そして昼食として地物の魚をふんだんに使った舟屋定食をいただきました.

Img_6900(写真10)舟屋定食

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2021年4月 5日 (月)

三春城と那須どうぶつ王国

 4月3日の朝三春滝桜を観桜した後、せっかくこちらまで来たのだからと少し観光することにしました.まずは町内にある三春城跡へ.

 三春の地は戦国時代,田村氏の支配地域であり三春城はその本拠地でした.それほど勢力の大きいとはいえない田村氏は,芦名氏や佐竹氏など周辺の大名の思惑に常に翻弄されていました.そんな中で天正七年(1579年)当主田村清顕の娘愛姫を伊達政宗に嫁がせたのは,有力な戦国大名だった伊達家の後ろ盾が欲しかったからでしょう(ただし田村氏は後に豊臣秀吉の小田原参陣要請に応じなかったために改易される).

P4030344 P4030379 (左写真1)三春城跡,(右同2)石垣です

 田村氏時代の三春城は標高407メートルの山頂に城主の居館を含めた本丸がある典型的な山城でしたが,その後の織豊時代から江戸時代にかけて近世的な平山城に改修されています.現在の城跡は基本的に改修された後の姿です.当時の建物は残っていませんが,堀や石垣など往時を偲ばれる遺構が多くありました.

P4030388 P4030338 (左写真3)ここにも桜があります、(右同4)愛姫生誕地の碑

P4030392写真5)那須どうぶつ王国

 三春城の後は隣県の那須町にある那須どうぶつ王国へ.ここは主に草食獣や小型動物,鳥類が充実した動物園です.動物たちを近い距離から観察できるのが魅力です.土曜日ということもあり家族連れの姿を見かけました.展示はアーケードでつながるなど全天候型である王国タウンと広い屋外空間に動物がいる王国ファームから構成されています(両エリアの行き来は専用バスによる).メインは王国タウンで熱帯の森やアジアの森などゾーン別になっています.

P4030494 P4030503 (左写真6)レッサーパンダ,(右同7)マヌルネコ

P4030450 P4030457 (左写真8)ハシビロコウ,(右同9)オニオオハシ

P4030578 P4030417 (左写真10)ナマケモノ,(右同11)オウギバト

P4030485 P4030475 P4030468 P4030528 (左上写真12)ミーアキャット(立ちショ〇ンしているようにしか見えません 笑),(右上同13)話題のスナネコ,(左下同14)二ホンライチョウ,(右下同15)入浴するカピバラ

P4030441 P4030601 (左写真16)フンボルトペンギン,(右同17)ルーセットオオコウモリ(手持ちではこれが限界💦)

 約3時間ほどの滞在でしたが,じっくり観察できました.

 その後はそこから車で20分ほどの那須湯本にあるホテルビューパレスへ.今夜の宿泊先です.ここは那須の名湯「鹿の湯」から源泉を引いている露天風呂が有名です.チェックイン後さっそく入りました.

 そして18時からは夕食,この日はフルコースを選択,ワインも一緒にいただいたのは言うまでもありません.

Dsc_1583 Dsc_1584 Dsc_1585 Dsc_1586 Dsc_1587 Dsc_1589 Dsc_1591 Dsc_1592 (左上写真18)オードブル,(中上同19)冷たい前菜,(右上同20)トウモロコシのスープ,(左中同21)パン,(中中同22)オマール海老のソテー,(右中同23)桜のシャーベット,(左下同24)とちぎ和牛のサーロイン,(右下同25)デザート

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2021年3月 8日 (月)

伊勢志摩に行ってきました①

 東京を含む1都3県の緊急事態宣言が2週間延長となりました.これだけ宣言が長引いてくると,もはや緊急事態ではなくこれが通常状態なんじゃないかと錯覚してしまう感じがしてきます(笑).最近は出かけることが少なくなっているわけですが,とはいってもたまには息抜きも必要ということで,この週末は伊勢志摩方面へ出かけてきました.この地域に繰り出すのは2019年1月以来2年ぶりです.大きな目的は伊勢神宮の参拝と3月末で閉館が決まっている志摩マリンランドの訪問です.

Dsc_1555 (写真1)松阪牛

 3月5日(金)は午後から年休を取って早めに自宅を出ます.東海道新幹線で西へ,こんなご時世だからか空いていました.名古屋駅からは快速みえに乗り換えて伊勢方面に向かいます.この日の宿泊地は伊勢市,夕食ですが外に食事に繰り出すのは憚られるご時世なのでホテルのレストランでいただくことに.この日は松阪牛のステーキに挑戦(ロースと赤身のハーフハーフ),さすが美味でした✨.ワインも一緒に注文したのはいうまでもありません.

 翌6日は朝からレンタカーを借りて,まずは隣の玉城町にある田丸城へ.ここは続日本100名城になっている城郭で石垣や堀などの遺構が良く残っています(スタンプはそばの村山龍平記念館にあり).実は数日前まで雨模様という予報だったんですが,晴れ男の自分が訪問するのに雨なんか降るはずがない!と強く念じていたら前日には晴れの予報に変わり,結局晴れました.気持ちのいい空気の中で城跡散策でした.

Img_7213 (写真2)田丸城の石垣

 城郭見学の後は伊勢市内に戻りまずは伊勢神宮の外宮へ.晴れた土曜日でしたが駐車場の混み具合はまあまあ,スムーズに駐車できました.駐車場に近い北御門から中に入り正宮に参拝して火除橋に抜けるという通常とは逆のコースでしたが,ゆっくり歩いて1時間ほど境内を散策しました.

Img_7257 Img_7246 (左写真3)外宮の火除橋,(右同4)正宮

Img_7259 (写真5)伊勢うどん

 この段階でちょうどお昼時だったため,伊勢うどんを食べようと外宮そばの中むらさんに行ったらなんと!定休日でした(昔は平日が定休だったんですが,最近土日定休に変わったようです.店内の混雑を避けるためでしょうか).仕方がないので伊勢駅方面に歩き老舗の山口屋さんへ,こちらは通常営業していました.この日注文したのはかやく伊勢うどん,揚げと麩とかまぼこが載ったうどんです.伊勢うどんといえばフワフワとした極太麺で知られます.うどんにコシを求める人にはなじめないかもしれませんが,独特のタレと相まって味わい深いものがあります.

 昼食後は内宮へ,外宮では近くに駐車できたものの,こちらは遠いところにしか停められませんでした.五十鈴川沿いに歩いて内宮に向かいます.途中おはらい町&おかげ横丁を覗いたら凄い人出!,まあお伊勢参りの本来の姿なのかもしれませんが,人混みは避けたかったので退散しました.

Img_7281 (写真6)内宮の宇治橋前

 内宮は宇治橋から順路に従って参拝します.途中の五十鈴川畔の御手洗場はこの日川水が白く濁っていたこともあり,なんとなくガンジス川の沐浴場を想像してしまいました(ガンジス川はここの1億倍くらい雑然としてそうですが).内宮は広いのでゆっくり散策するだけでも1時間半くらいかかります.幸い好天だったこともあり,すがすがしい気分になりました.

Img_7269 Img_7271 (左写真7)五十鈴川そばの御手洗場,(右同8)内宮の正宮

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2020年11月 3日 (火)

100に関連した週末旅行

 いよいよ11月に入りました.今年も残り2か月となったわけですが,この週末は珍しく土日とも何も用事なし,しかも天気予報は上々と格好の行楽日和になりそう,いうことで急遽出かけることにしました.行先は三重県北中部です.

 三重県といえば,南部の熊野や伊勢,志摩は観光地として有名で伊勢神宮や鳥羽水族館,志摩スペイン村等ガイドブックでも著名な観光地がたくさんあります.しかしながら北中部はというと,街としては桑名,四日市,津などがありますが,観光地的には南部に比べると地味な印象です(るるぶなどのガイドブックも「伊勢・志摩」括りになっていて,三重県全体とはなっていない).

 そんな三重県北中部,私もあまり行ったことのない場所なんですが,ライフワークにしている100名城や100選滝,100選道絡みでは実は対象地があったりします.この週末はこうした三重県北中部の100関連の場所に行ってきました.

 前日10月30日が泊りだったため,31日帰宅後手早く準備をして出発です.10時7分小田原駅発のひかり号で西へ向かいます(小田原駅の新幹線は基本30分に1本のこだまですが,2時間に1本小田原の次が名古屋というひかりがあり,それだと名古屋までほぼ1時間で行ける).名古屋駅で新幹線を降り,ホームにあるきしめん屋住よしさんで早めの昼食を摂ります(自分は出張の際の定番ですが,ウチのKは初めてだったもよう).食事後近鉄線に移動し,11時50分の特急に乗って津まで行きます.

 津駅近くでレンタカーを借りてまずは続日本100名城のひとつ津城へ.築城の名手と言われる藤堂高虎によって整備されその居城となった城郭です.しかし三重県内には同じ高虎による伊賀上野城や蒲生氏郷が建てた松阪城もあるせいか,津城は最初の100名城には入れず,続編の方での選出となりました.内堀と外堀が二重丸のようになった輪郭式城郭ですが,現存するのは内堀の一部と本丸,西の丸の一部のみです.当時の建物は残されていませんが(本丸東部に丑寅櫓が建っていますが,場所も形状もオリジナルとは異なるものです),石垣や堀は立派なものでした.

Pa310517 Elpumcvkaagz_b (左写真1)津城の内堀,(右同2)復興丑寅櫓

 続いては北の亀山市へ.東海道というと近年では東海道本線や東海道新幹線の影響もあり,名古屋から北上して岐阜周りのイメージもありますが,江戸時代の東海道は名古屋から桑名,鈴鹿峠を通って滋賀県の草津に抜けるのが本筋です(鉄道でいえば名古屋以西は関西本線,草津線がオリジナルに近い).亀山市にある関宿は旧東海道の宿場の街並みを今に残すスポットとなっており,日本の道100選にも選ばれているのでした.

51tokaido Pa310572 (左写真3)関宿の街並み,(右同4)百五銀行の実店舗

 大型車は絶対にすれ違えない狭い道を挟んで昔の趣の建物が軒を連ねる様子は江戸時代にタイムスリップしたかのよう(ここで宿場まつりやったら雰囲気抜群だろうな 笑).銀行や郵便局も江戸風でした.この日は同曜日でしたが観光客はまばらでした.しかし1年前にはインバウンド系の観光客で大賑わいだったんだろうなと想像してしまいました(中国人観光客とかこういう雰囲気好きそうなので).

 関宿観光の後はこの日宿泊する伊賀氏のホテルへ.亀山から伊賀への名阪国道は一応一般国道なんですが,みんなまるで高速道路並みに飛ばしていました(所々緑色の高速っぽい看板が出ているが,まぎれもなく一般道路である).ホテルにチェックインしたあと夕食のために近くのワインとお肉をいただけるお店へ.ラムや伊賀牛を始め,赤ワインが似合いそうな料理を堪能しました.

 食事後ホテルに戻り,風呂に入ってさっぱりした後,しばしNHKのラジオ深夜便を聴いてしまいました(それにしても,ラジオ深夜便の,あのしっとりしたテーマが流れると,学生時代の深夜ドライブが鮮明に思い出されます).

 一夜明けて11月1日,いよいよ11月に入りました.ブッフェスタイル朝食を食べて(コロナ関連でブッフェスタイルの朝食は久しぶり)一日の英気を養います.その後チェックアウトして外へ出ます.昨日に続きこの日も良いお天気です.この日の目的地は県中部で奈良との県境に近い赤目四十七滝です.ここは渓谷の中に多数の滝が存在するところで,山梨の西沢渓谷や木曽の田立の滝などと似ています.片道4キロのトレッキングはまずまず中級向けと思われます.スタート地点には当地名物のオオサンショウウオが展示されているセンターがありました.

 歩くこと数分で最初の見どころ不動の滝が登場、ここまではアップダウンがないので誰でも来られます.そこからは階段や勾配のきつい箇所も出てくるので足腰が弱い人は難しいでしょう.先述の不動の滝を含め,千手滝,布曳滝,荷担滝,琵琶滝の5つがメインの大きな滝で5つ目の琵琶滝から10分くらい奥に進んだ巌窟滝がコースの終点となります(この他大小たくさんの滝がある).この日の往路は2時間以上かけてゆっくり観察しながら歩きました.

Sente Nunobiki Ninai Biwa (左上写真5)千手滝,(右上同6)布曳滝,(左下同7)荷担滝,(右下同8)琵琶滝

 終点の巌窟滝で昼食(持参したコンビニおにぎり),帰路は下りなのでサクサク歩いたら1時間ちょっとでした.

 赤目四十八滝観光の後は,津市の南方美杉地区にある続日本100名城のひとつ多気北畠氏城館跡へ.途中すれ違いが厳しい狭い道を通りたどり着きました.ここは戦国時代に伊勢を支配していた北畠氏の居城だったところで,現在は神社になっています.防御施設としては背後の山上に霧山城がありました.今回は到着時点で夕方近かったため登山は断念し,神社と隣接する庭園を見学しました.

Pb010776 Pb010792 (左写真9)北畠神社,(右同10)隣接する庭園

 この後津へ戻りレンタカーを返却,駅前で夕食を摂って家路に着いたのでした.

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2020年9月29日 (火)

岐阜県に行ってきました

 2020年9月も終盤です.年度としての2020年度もまもなく半分が終了しようとしているわけで,月日の流れの速さを感じます.思えば9月は中旬に父島への旅行があり,そのすぐ後に2月以来休止していた東京21合唱団のリアル練習が行われるなどかなり充実した月になっています.そして本来ならばしながわ宿場まつりの江戸風俗行列が行われていたはずのこの週末は,思い立って岐阜県に行ってきました.現在放送されている大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀ゆかりの土地ですが,今回はメインはそれとは直接関係のない郡上八幡です.

 学生時代以来全国あちこちに出かけている私です.岐阜県も県都岐阜市を始め,下呂温泉,飛騨高山,奥飛騨地方,白川郷など主だった場所は訪問済みなんですが,なぜか郡上八幡は未訪でした(理由は不明,本当に縁がなかったとしか言いようがない).このため今回なんとなく行ってみようとなったのです.

P9260211 (写真1)養老の滝

 9月26日の朝自宅を出て2時間に1本ある小田原に泊まる東海道新幹線ひかり号で一路西へ.自分は月初に学会で岡山に行ってますが,ウチのKの西上は去年の1月の伊勢志摩以来のようでした.このひかりは小田原の次が名古屋まで停まらないの魅力です.1時間ちょっとで名古屋駅に,そこで数分停車したのち(後続ののぞみを先に行かせるため,ここですぐ出発しないところがひかりの限界)出発,15分ほどで岐阜羽島駅に到着し下車します.駅前でレンタカーを借りてさっそく観光開始,まずは付近にある養老町にある養老の滝へ.同名の居酒屋チェーンがありますが,もちろんオリジナルはこちらです(笑).ここは日本の滝100選に含まれる名瀑で,孝行者の息子が病気の父のことを思っていたところ滝の水がお酒になったという伝説で知られます.

Img_6714 (写真2)関ヶ原駅前の施設にあった参戦武将の家紋入りロッカー

 続いては滋賀県との県境である関ヶ原へ.1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いの舞台となった土地で,完全に合戦で町興しをやっています.今回は当時石田三成の陣があった決戦の地,小西行長の陣跡にほど近い開戦の地さらには宇喜多秀家の陣跡(なぜか西軍諸将の陣跡ばかりですが偶然です 笑)を訪問しました.

Img_6712 P9260256 (左写真3)石田三成陣跡、(右同4)宇喜多秀家陣跡

P9260250 P9260246 (左写真5)小西行長陣跡,(右同6)小西陣から笹尾山の石田陣が見えます.

P9260276 (写真7)郡上八幡城の模擬天守 

関ヶ原からいよいよ今回のメイン訪問地郡上八幡へ.関ヶ原インターから高速に乗って向かいます.途中のサービスエリアで昼食を摂って現地には15時ごろ到着しました.郡上八幡インターを降りて国道から市街地方面に入ると対向車とのすれ違いが難しいような細道です.このまま山奥の峠に向かうんじゃないかと心配になりますが,まもなく町の中心へ.”郡上八幡城”,”駐車場”の文字が見えたのでそのまま駐車(有料)し,案内に従って郡上八幡城に向かいます.郡上八幡城は続日本100名城に指定された名城ですが,市街地を見下ろす山上に築かれた山城です.本丸に向かう坂道をあえぎながら登っていくと,なんと山上に駐車場があるじゃないですか!しかも無料💦,まあ上る苦労も含めての城郭観光だと自分に言い聞かせました(笑).

 お城観光後は下山してこの日の宿泊先である吉田屋さんへ.チェックインをして部屋に入り,大浴場で汗を流した後夕食会場へ.この日は当地の郷土料理で,鮎の塩焼きや姿造り,鰻のかば焼きから飛騨牛のステーキまでたくさんの御馳走を堪能しました.

Dsc_1254 Dsc_1256 (左写真8)松茸の土瓶蒸し,(右同9)鮎の姿造りと鯉の洗い

Dsc_1260 Dsc_1266 (左写真10)鮎の塩焼き,(右同11)飛騨牛のステーキ

Dsc_1271 (写真12)朝食の朴葉味噌

 翌朝はゆっくり起きて朝食会場へ.野菜中心のシンプルな朝食ですが,こちら名物の朴葉味噌が美味でした.たっぷり英気を養ったところで町の観光です.郡上八幡は基本的な町割りが江戸時代から変わっていないその風情が人気です.きれいな川や水路が豊富な所としても知られています.そうした街並みや水場を散策しました.当地で有名なものに郡上踊りがあります.夏には一晩中踊る巨大盆踊りとして有名ですが,多分に漏れず残念ながら今年は中止だったそう.町の郡上八幡博覧館で解説と実演が行われています(ちょうど10時の回を見学,ぜひ夏の徹夜踊りを見てみたい).

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(左写真13)昔風の街並み,(右同14)宗祇水

 この町でもうひとつ有名なのが食品サンプルです.食堂なんかに飾ってあるあれですが,実は全国の食品サンプル生産の半分以上を占めるのが当地とか.街中には工房や専門のお店があり,見ているだけで楽しい気分になります.

P9270386 P9270385 P9270384 (写真15~17)本物そっくりなサンプルたち

 午前中いっぱい街を散策して続いては北の白鳥町にある阿弥陀が滝へ.ここも日本の滝100選に選定されているところです.県道から山道に入ったところの駐車場に車を置いて徒歩で散策,約15分ほどで滝に到着しました.高さ60メートル,幅7メートルの細い滝ですが裏見もできる滝として知られ,多少濡れることを覚悟すれば他では見られない雰囲気を味わえます(休日ということと,有名な滝ということで結構人が来ていました).滝鑑賞後は近くにある阿弥陀ヶ滝荘で流しそうめんをいただきます.ただ新型コロナの感染対策のため対面禁止,時間制限アリとなっていました(ひんやりして美味しかったです).

Img_6727 P9270462 (左写真18)阿弥陀が滝,(右同19)当地の流しそうめん

 食後は高速に乗って南下,大垣市にある大垣城へ.関ヶ原の戦い直前に石田三成が布陣していた城として知られます.明治後も天守が残っていた城郭でしたが戦災で焼失,現在あるのは戦後外観復元されたものです.ここも続日本100名城のひとつということで観光することになったのでした.

P9270473 (写真20)大垣城復元天守

 大垣城観光後は岐阜羽島駅に戻ってレンタカーを返却,その辺で一杯やりたいなと思ってたんですが,店がなく😢仕方なく駅のコンビニで買ったビールを飲みながら電車を待ったのでした(まあ岐阜羽島は水沢江刺みたいな立ち位置の駅だからなぁ).

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2018年10月23日 (火)

コンサートと函館

Img_4104  産業医の単位をかき集めた週の最後を飾ったのが東京21合唱団第15回コンサートでした.ここは医師会合唱団と並んで,私がメインで活動している合唱団です.邦人作品やポップス系も扱う医師会と違って,こちらは純粋に教会音楽専科(笑)の合唱団です.今回はラインベルガーのミサ曲変ホ長調(カントゥス・ミサ),讃美歌21より,J. S. バッハの教会カンタータ21番という3ステ構成でした.毛色の違う3つのステージということで,スペースオペラとラブコメ,時代劇の豪華三本立てじゃないかと感じるほど濃厚さでした.特にラインベルガーのミサ曲はア・カペラに加えて二重合唱という高難度の二乗という感じで手ごわかったです.

 演奏会当日は夕方から最後の練習を経て本番に臨みました.この日は自分の大学合唱団時代の周辺学年の方々がたくさん来てくれて大感激でした(泣).終演後は恒例の打ち上げを経て終電で帰宅します.近年は演奏会の日は近くに宿泊というパターンが一般的だったんですが,実は翌日からウチのKの実家に遊びに行くことにしていたからです(演奏会用の荷物を置きたかったのと,飛行機が午後なので宿泊すると時間が余ってしまう).

 前回函館に行ったのは2016年のGWだったのでほぼ2年半ぶりでした(新函館北斗駅松前城の桜).今回はKの親姉妹とその子供たち等総勢9人で市内湯の川温泉のホテルに宿泊しました.久しぶりの温泉と豪華ブッフェでみんな喜んでくれたようです.

Img_4109 Img_1054  湯の川といえば,日本城郭協会が今年の春から始めた続日本100名城スタンプラリーのひとつ志苔館があります.せっかく近くまで来たのだからとそちらにも寄ってみました.

Img_1019  ここは14世紀の末に津軽安東氏によって築かれた道南十二館のひとつで,中世から近世にかけてのアイヌと和人の戦いに際しては和人側の最前線となったところです.今回続100名城に選定されたわけですが,Kの実家の人たちは「こんなところがあるなんて知らなかった」と言ってたので,知る人ぞ知る場所だったと思われます(まあ自分も100名城じゃなかったら来てなかったな 笑).

 最後は函館山に上ったんですが,そこの売店で購入したのがこちら.

Img_4140  ドラえもんと新選組のコラボなのでした(笑).

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2018年5月 6日 (日)

日本100名城スタンプラリー101

続日本100名城 忍城(118番)

 今年の4月6日(城の日)からついに始まった,続日本100名城スタンプラリー,歴史好き&こうした集める系のネタに目がない自分にとって,参加しないという選択肢があろうはずもなく,公式ガイドブックも購入してあとは開始するだけとなっていた.ただ,なかなか出かけるタイミングが見つからず約1か月放置されたままになっていた.

 が,5月の連休唯一の休みとなった5日は朝から快晴の良いお天気,こりゃどこか行くしかないということで,続100名城の中でも至近ではなく,かといって日帰り圏である埼玉県行田市の忍城に行ってきた.

P5052064 (写真1) 忍城三階櫓(当時のものを復元したわけではない)

 忍城は室町時代の文明年間に豪族の成田氏によって築かれたといわれている.当地は荒川と利根川に挟まれた大湿地帯であり,広大な沼地のあちこちに島のように高台が陸地として浮かんでいるような地形だった.忍城はこの地形を巧みに利用し,広大な沼を天然の堀として防御に役立てている.

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(左写真2) 当時の遺構である土塁,(右同3) 土塀は復元されたもの

 この城を歴史的に有名にしたのが1590年の豊臣秀吉による小田原攻めである.北条氏の本拠である小田原攻略に先立ち,秀吉は当時関東各地にあった北条氏の支城を攻略していった.この忍城も同年6月に攻略に着手,指揮にあたったのが後の五奉行の一人石田三成である.秀吉の意向もあり三成は忍城を水攻めにするもうまくいかず,結局小田原の北条氏が降伏するまで忍城は落ちなかった(この水攻めの際,水の中に本丸が浮かんで見えたことから浮き城の別名がある).江戸時代に入るとここは主に譜代大名の領地となり,特に島原の乱後の17世紀半ばから19世紀前半の文政年間までは阿部氏を藩主とする忍藩の居城とされ整備が進んだ.明治維新後はご多分に漏れず城郭の破却が進み,特に建造物に関しては一部の門を除き現存していない.

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(写真4) 懐かしい感じのする秩父鉄道行田市駅

 自宅を出て小田原駅から湘南新宿ラインの特別快速に乗車,約2時間半で熊谷駅に到着し,ここから秩父鉄道に乗り換え3駅で行田市駅で降りる.埼玉県は東京都と同様に東側に都市が西側に田園や山が広がる構造になっているが,この地域は典型的な田園地帯である(ここから西に行くともう秩父だ).

P5052082 (写真5) これは江戸時代の忍藩の藩校の門を移築したものだそう

 駅から南西に歩いて15分ほどで城の本丸跡に建つ行田市郷土博物館に到着,ここには忍城に関する資料のほか,当地で盛んだった足袋の生産のに関する展示もあった(入場料200円).この資料館に接続する形で1988年に御三階櫓が鉄筋コンクリート製で建てられている.忍城に三階櫓が存在したことは歴史的事実であるが,それは今櫓が立っているのとは異なる場所であり,時代考証的には問題がある.本丸部分には一部の土塁が存在し,これは当時の遺構といえる(その他土塀も再建されている).

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(左写真6) 当時の外堀の姿を残す水城公園,(右同7) 成田御門跡(小学校のそばだった)

 ただ当時の忍城の大部分は現在市街地化されているため,当時を偲べるものは少ない.ただ,資料館から徒歩15分ほど離れた水城公園は当時の外堀の一部を整備して講演としたものである(一方で街中を歩くと「●△門跡」といった案内碑も目にする).

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(左写真8) 丸墓山古墳(この上が石田三成の布陣場所),(右同9) 石田堤は今は歩道になっている

P5052102 Img_0376 (左写真10) 古墳上からは本丸の櫓が見えます,(右同11) こちらは東日本最大の前方後円墳である二子山古墳

 行田市といえば東日本最大の古墳が存在する土地として知られ,さきたま古墳群として整備されているが,その中にある丸墓山古墳が忍城水攻めの際に石田三成が布陣した場所であり,その周辺に今も存在する土手が彼が水攻め用に作らせた堤で,現在石田堤と呼ばれている.

忍城へのアクセス: JR吹上駅からバス,または秩父鉄道行田市駅から徒歩で本丸跡に到着します

スタンプの設置場所 本丸跡に建つ行田市郷土資料館入口にあります.

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 平城なので高低差はなくスムーズに移動できます.ただ城の遺構はあちこち散らばっているので,それなりに歩くことになります.

Img_0378 登城日 2018年5月5日

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