2009年11月 8日 (日)

怒涛の週末

 さっき帰宅しました.

 例年秋はムチャクチャ活動的になる私ですが,今年はとりわけ激しいような気がします.この週末も全く家にいませんでした.

 今回は土日に加えて,いっぱい余っている年休をもらって金曜日から出かけてきました.3日間の予定はこんな感じです.

 11月6日(金) 第2回日光江戸村扮装ツアー(思いっきり私的イベント)

 11月7日(土) 盛岡で仕事関係の重要な会議(思いっきり公的イベント)

 11月8日(日) 仙台で来年1月のコンサートに向けた強化練習(やや私的イベント)

 さらに今回はJR東日本の土日きっぷを使ったため,山形城・多賀城・白河城の訪問もやってしまおうという欲張った日程となりました.

 6日の江戸村イベントは今年の7月に決行して楽しかったので,ぜひまたやろうと計画していたものでした.11月に入ってから急に冷えてきたので,日光は寒いだろうと厚着していったんですが,日頃の行いがいいのか天気は快晴(私を含め晴男・晴女が4人もいたからというウワサ),汗ばむほどの陽気でした.前回の参加者が中心でしたが,新手の人や無理やり扮装させられた人なんかもいて楽しかったです.もちろん写真を撮ったりして遊びました.夜は新選組関係の我が盟友コシゾウさんの屯所で宴会です.いろんな話題で盛り上がりました.私以外の非地元の参加者はそのまま夜の新幹線で帰宅,私のみ宇都宮に宿泊しました.

 で,翌朝11月7日は6時起床,7時の新幹線で一路北へ向かいます.前日は酔っ払ってブログの方,全く手付かずだったので車内でモバイルノートを広げ,さあ昨日の写真の一枚でもアップするかと思ったら… デ,デジカメがない!! とムンクの叫び状態になった私でした.さてはホテルかと前夜の宿泊先に連絡し見てもらうもそれらしいものは無しとの返事,では宴会の席かとコシゾウさんにメールして探してもらいました.結局無事に発見されたとの連絡がありホッと胸をなでおろしたのでした.

 さて7時に宇都宮を出たからといってそのまま素直に盛岡入りするはずもありません(笑い).乗った新幹線は実はつばさ号,そう山形行きです.山形に行って山形城近くの最上義光記念館で100名城スタンプをゲットしました(城郭そのものは以前じっくり見たことあり).

 その後は再びつばさ号で福島へ,そこでやまびこ号に乗り換え仙台,さらに仙石線で多賀城に向かいます.もちろん目的は多賀城のスタンプ,多賀城自体は昨年じっくり見学しているのでパスしました.

 そして再び仙台に戻り駅の立ち食いそばを食べて,新幹線でいよいよ盛岡入りです.駅で会議用の立派なスーツに着替えてタクシーで会場入りしました.緊張するイベントでしたが,なんとか無事に終了しました.その後は宴会(ワインがメインのお店でした)に参加して盛岡駅前のホテルに宿泊しました(寝る前に盛楼閣に冷麺を食いに行ったのはいうまでもありません 笑).

200911081009000 Sanninsonota_098

(写真左) 白河小峰城,(同右) 盛楼閣の冷麺

 でもって,翌11月8日は朝6時に起床,6時40分の新幹線で一路南に向かいます.この日は仙台での練習なんですが,まっすぐ仙台に行くはずがありません(笑).仙台を通り過ぎてそのまま白河へ.ここで白河小峰城のスタンプをゲットして,その後仙台に戻り,練習そして帰宅となったわけです.

 またまた激しい週末でした.

200911081041000  白河駅はSuicaの首都圏エリアと仙台エリアのちょうど切れ目にあたるらしいです.まさに国境と感心したのでした.

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2009年11月 4日 (水)

日本100名城スタンプラリー64

日本100名城 安土城(51番)

 滋賀県安土町には100名城に選定された城が2つもあります.そのうち1つが前回紹介した観音寺城でもう一つが安土城です.

P2080172 (写真1) 安土城には石垣がたくさん使われています.

 観音寺城が戦国時代までの中世の城とすれば,この安土城は近世城郭の始まりともいえるでしょう.中世の城が実用本位の軍事要塞・砦といった趣だったのに対して,近世のそれは軍事的側面に加えて為政者の居住空間や権威の象徴といった意味合いも付加されています.特に近世城郭の象徴ともいえる立派な天守はこの安土城から始まったと言われています.

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(左写真2) 大手道,(右同3) 二の丸跡

 安土城を築いたのは織田信長ですが,信長の居城は当初は尾張の清州城でした.その後永禄十年(1567年)に美濃の斎藤龍興を追放して,斎藤氏の本拠岐阜城(稲葉山城)に入りましたが,畿内の平定をほぼ終えた天正四年(1576年)に安土城を築きここに移ってきたのです.

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(左写真4) 大手道の敷石に使われた石仏.信長の宗教観が現れているんでしょうか,(右同5) 信長の側近森蘭丸の屋敷跡 

 以後は信長による天下布武の本拠地となりましたが,天正十年(1582年)の本能寺の変後の豊臣秀吉らと明智光秀とのいわゆる山崎の戦の後のドサクサの中で天守は焼失したとされています.その後もしばらくは織田氏の居城として使われていたようですが,天正年間中には廃城となったようです.

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(左写真6) 天主台です,(右同7) 信長の本廟です

 安土城は安土山全体を利用して築かれた山城です.同じ町内にあり徒歩圏内の観音寺城の影響を強く受け,石垣がふんだんに使われています.そしてなんといってもこの城の象徴と言えるのが天守(天主)です.当時日本で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師も「これほど壮麗な城はヨーロッパにもない」と伝えているそうです.それがどのようなものであったか,正確な絵図面等が発見されていないことから不明な点が多いですが,七重であったとか屋根が金色であったなど様々な伝聞があります.

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(左写真8) 城郭内にある摠見寺三重塔,(右同9) 復元された天主の一部

 近代になってから発掘,保存が行われるようになり,現在城郭は国の特別史跡に指定されています.当時の建築物はもちろん遺されてはいませんが,石垣や堀,天守台などの遺構に加え,大手道などが復元整備され,当時の威容を偲ぶことができます.また町内には資料から復元した天守の一部が保管されている安土城天主信長の館もあります.

安土城へのアクセス: JR安土駅からレンタサイクルで15分程度です.

スタンプの設置場所 安土城天主信長の受付にあります

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 良く整備されているため歩きやすいですが,山城なのでそれなりに大変です(観音寺城の後で来ると楽に感じます).

51aduchijo 登城日 2009年2月8日

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2009年10月22日 (木)

日本100名城スタンプラリー63

日本100名城 観音寺城(52番)

 久しぶりの100名城ネタです.滋賀県安土町は町内に2か所の100名城を有するキャッスルタウンなんですが,そのひとつが今回紹介する観音寺城です.

 観音寺城は標高430メートルの繖山(きぬがさやま)の山頂に築かれた山城です.この地は中世には東山道や八風街道の筋にあたる交通の要衝でした.

Kannonjijo1 (写真1) 南から見た繖山の全景

 城の歴史は南北朝時代にさかのぼると言われています.太平記によると建武二年(1335年)に六角氏頼が後醍醐天皇の側近北畠顕家の軍勢に備えるためにこの地に入ったとなっています.ただこの時期は臨時の簡易砦といった趣であり,本格的な城郭と呼べるものではなかったようです.

 ここが本格的な城郭になったのは応仁の乱(1467~1477)の頃でした.当時の当主六角高頼は西軍に属していたため,東軍側の京極氏との間で三回にわたって観音寺城の攻防戦が行われています.

Kannonjijo2 (写真2) このような石段をひたすら上ります.

 戦国時代に入るとこの城の整備はさらに進み,天文年間には今に残る各郭の石垣が築かれたと言われています.中世の城郭でこれほど石垣が作られた城は例がなく,このことからも観音寺城が特異的な城郭であったことがわかります.

Kannonjijo3 (写真3) 観音正寺の境内

 永禄十一年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛,この時六角氏は信長に対抗しましたが,支城である箕作城が落とされるとそのまま観音寺城から撤退し,城は無血開城となりました.そして安土桃山時代になり,信長によって近くに安土城が築かれると観音寺城の方はそのまま廃城となったのです.

Kannonjijo4 (写真4) 本丸の石垣

 現在観音寺城は往年の石垣が残る城跡となっています.その範囲は広大でその全貌を見るのはなかなか大変です.散策としては繖山の南方の石寺楽座会館から登っていくコースが一般的です.石段を登っていくと30分ちょっとで観音正寺に到着します.ここは聖徳太子ゆかりのお寺と言われ,室町時代には観音寺城の六角氏の庇護で栄えたそうです.この観音正寺からさらに歩いて10分ほどで本丸です.当時の石垣などがよく残っていました.

Kannonjijo5 (写真5) 平井丸の虎口

観音寺城へのアクセス: JR安土駅からレンタサイクルで15分で石寺,そこから徒歩40分で観音正寺です.

スタンプの設置場所 観音正寺の受付にあります

登城のハード指数(★★★ かなりハードです) 石寺から観音正寺まで40分ひたすら石段を登ることになり,かなり大変です.しかも観音正寺が終点ではなく,実際の城郭はそこからさらに歩くことになります.

52kannonjijo 登城日 2009年2月8日

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2009年10月 4日 (日)

日本100名城スタンプラリー62

日本100名城 小谷城(49番)

 戦国時代末期,天下布武を掲げて戦った織田信長最大の危機が,元亀元年(1570年)の越前金ヶ崎の戦いです.

 京都を拠点に周辺の大名を勢力下に収めつつあった信長は,敵対していた越前の朝倉義景を攻めるために出陣しました.当初織田軍が優勢でしたが,彼の義弟で同盟関係にあった北近江の浅井長政が裏切り一気に前後から挟み撃ちにされる態勢になったからです(とはいっても,元々浅井と朝倉は盟友であり,この時の信長の朝倉攻めも,事前に浅井方には知らされていなかったといいますから,こうなるのは予想できたという見方もあります).この時信長は木下秀吉(豊臣秀吉),池田勝正らの奮戦によって九死に一生を得ることができました.この時信長を裏切った浅井長政の居城が小谷城です.

P2070033 (写真1) この小谷山全体が城でした.

 小谷城は琵琶湖の東岸,標高約500メートルの小谷山と,そこから南に伸びる尾根筋に築かれた典型的な山城です.築城時期は長政の祖父亮政の代,16世紀初めといわれています.以来長政まで3代にわたって浅井氏の居城でした.この城がいかに堅固だったかは,元亀元年6月の姉川の合戦で大敗を喫して城に逃げ帰った浅井氏を信長はすぐに攻撃できず,結局小谷城を落城させるために4年の年月を要したことでも判ります.

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(左 写真2) 大手道入り口.ここからひたすら登山です.(右 同3) 本丸

 浅井氏滅亡後ここには羽柴秀吉が入りましたが,秀吉は琵琶湖岸の長浜城を居城としたため小谷城は廃城となりました.戦国時代の城跡であり当時の建造物はもちろん残ってはいませんが,尾根線に沿って築かれた曲輪の様子はよく保たれており,堀切や当時はまだ珍しかった石垣なども見ることができます.

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(左 写真4) 大石垣,(右 同5) 山王丸

 散策ルートはありますが,遊歩道などが整備されているわけではないので登城にはかなりの気力と体力を必要とします.本丸から少し離れたところに浅井長政自刃の地といわれる赤尾屋敷跡がありますが,ここに向かう途中でカモシカに遭遇しました.体力的にキツイ城跡なので,登城に適した季節は晩秋から冬にかけてと思われます(雪の日は除く).

P2070084P2070080 (左 写真6) 浅井長政自刃の地,(右 同7) 途中遭遇したカモシカ

P2070090

小谷城へのアクセス: JR河毛駅からコミュニティバスで10分程度,レンタサイクルもあるようです.

スタンプの設置場所 麓の小谷城戦国歴史資料館受付にあります

登城のハード指数(★★★ かなりハードです) 資料館から大手道を通って尾根沿いに各曲輪を見学していくと,山王丸まで1時間近く山登りになります.

49odanijo 登城日 2009年2月7日

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2009年9月23日 (水)

日本100名城スタンプラリー61

日本100名城 宇和島城(83番)

 久しぶりの100名城ネタです.9回にわたった四国シリーズの最後を飾るのは愛媛県南部にある宇和島城です.

P1120359 (写真1) 宇和島城の現存天守

 今に残る宇和島城の基礎を造ったのは築城の名手と呼ばれる藤堂高虎で,文禄四年(1595年)に豊臣秀吉からこの地を与えられ入封したことに始まります.彼はただちに築城にとりかかりましたが,その後の関ヶ原の戦いで家康に味方した功績から高虎は今治に加増移封となりました.その後紆余曲折を経て,慶長十九年(1614年)に伊達政宗の長男秀宗が10万石で入り伊達宇和島藩が立藩されました.秀宗は政宗の長男でしたが側室の子だったため伊達本家を継ぐことができず,政宗の計らいで宇和島藩主となったものです.ただし同じ伊達姓ではありますが,この宇和島藩は仙台藩の支藩ではなく,れっきとした独立の大名です.

P1120344 (写真2) 本丸に向かう道と石垣

 その後江戸時代を通じて宇和島藩は伊達家の領国となり幕末を迎えました.幕末期の藩主が俗に四賢侯の一人に数えられる伊達宗城です.

 宇和島城は宇和島市の中心部の丘陵地帯に建つ平山城で,その外郭は五角形をしています.今でこそ内陸に建つ城に見えますが,当時は海岸線が今よりずっと内陸に迫っていました.このため城郭の北側と西側は直接海に面しており,当該部分の堀には海水を引くなど海城の面もあったそうです.

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(左 写真3) 桑折氏武家長屋門,(右 同4) 上り立ち門

 明治維新後廃城となり,以後多くの建物が解体されていきましたが,寛文十一年(1671年)に改修された天守が現存しており,その他門や石垣などから往時をしのぶことができます.

P1120368(写真) 宇和島城のイメージ図

宇和島城へのアクセス: JR宇和島駅から徒歩10分で登山口に着きます.

スタンプの設置場所 天守入り口にあります

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 普通の公園感覚ではきついです.ただ他の★ふたつの城ほどではありません.★ひとつ半といったところでしょうか.

83uwajimajo 登城日 2009年1月12日

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2009年8月27日 (木)

日本100名城スタンプラリー60

日本100名城 大洲城(82番)

 この日本100名城シリーズもついに60まできました.飽きっぽい私にしては上出来です.

 さて,そんな60番目の訪問先は愛媛県中部に位置する大洲城です.ここは松山からの大洲街道と宇和島からの宇和島街道が出会う交通の要衝で,江戸時代には大洲藩が置かれていました.

Ozu1 (写真1) 肱川の対岸から見た大洲城

 そんな大洲に初めて城郭を築いたのは鎌倉時代末期の伊予国守護,宇都宮豊房と言われています.その後宇都宮氏が200年以上にわたってこの地を支配していましたが,戦国時代末期に土佐の長宗我部氏と結んだ家臣の大野直之によって乗っ取られます.しかし,天正十三年(1585年)に四国平定に乗り出した豊臣秀吉の先鋒小早川隆景に攻められ落城となります.

Ozu3 (写真2) 中央の再建天守を挟んで左が高欄櫓,右が台所櫓(櫓はいずれも重文).

 豊臣政権下の大洲は当初の小早川隆景から戸田勝隆,藤堂高虎と城主が交代しました.特に築城の名手といわれた藤堂高虎の時代に天守や櫓等の建造物が造られたといわれます.関ヶ原の戦いを経て,高虎が伊勢に移封されると大洲藩が立藩され,脇坂安治,次いで加藤貞泰が城主となり,以後幕末まで加藤氏の支配が続くのです.

Ozu7 Ozu4 (左 写真3) 内部の様子手前の現存部分と向こうの再建部分の違いがよくわかります.(右 写真4) 本丸の石垣です.ここも築城の名手藤堂高虎の城なのです.

 明治維新後は廃城となり,天守を含めた多くの建物が解体されましたが,櫓の一部などが保存され,さらには平成十六年に明治初期の写真等から天守が木造で再建され,現在は城郭一帯が県の史跡に指定されています.

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(左 写真5) 市街地に現存している南隅櫓.(右 写真6) 堤防の上に現存している苧綿櫓.

 規模としては決して大きいとはいえませんが,特に現存の二つの櫓(台所櫓・高欄櫓)の間に再建された天守が立つ光景は,再建の違和感が全く無く,城郭の保存整備はこうすべきというお手本のようでした.

大洲城へのアクセス: JR伊予大洲駅から徒歩20分または循環バスにて13分市民会館前下車徒歩(循環バス時刻表 本数が少ないので注意)

スタンプの設置場所 天守の隣,台所櫓の受付にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園感覚です.周辺の櫓を回ってもさほど苦労しません.

82ozujo 登城日 2009年1月12日

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2009年8月14日 (金)

日本100名城スタンプラリー59

日本100名城 湯築城(80番)

 愛媛県松山市の城といえば,なんといっても現存天守のある松山城が圧倒的に有名です.しかしこの街には,実はもう一つの100名城が存在します.

Yuzuki1_2 (写真1) 湯築城です

 それが湯築城(ゆずきじょう)です.松山市内の有名な温泉地道後温泉そばにある道後公園がそこにあたります.ここは松山城が造られる前,南北朝時代から戦国時代末期にかけての伊予国の中心地でした.城を築いたのは鎌倉幕府の御家人だった河野通盛で建武三年(1336年)といわれています.彼 は南北朝の争乱で足利将軍家に味方して最終的に伊予の守護となりました.その後近隣の諸勢力や身内との争いもありましたが,戦国時代末期まで伊予の支配を続けました.

Yuzuki2 (写真2) 湯築城の堀と土塁

 しかし,天正十三年(1585年)に全国統一に乗り出した豊臣秀吉にはかなわず,遠征軍の将小早川隆景に降伏,河野氏による伊予支配は終焉を迎えました.開城後,湯築城には小早川隆景が入りましたが,間もなく移封されました.代わって天正十五年(1587年)に福島正則が入りましたが,彼はまもなく今の今治にあった国分山城に居城を移し,湯築城は廃城となったのです.

Yuzuki3 Yuzuki5 (左 写真3) 丘に登る道,(右 同4) 丘の上からは松山城が見えます

  かつて湯築城があったところは現在道後公園となっています.湯築城は小高い丘に三段の曲輪を置いた丘城でしたが,戦国時代になって丘の周囲に二重の堀と土塁が造営され平山城となりました.当時の建物は一切残っていませんが,堀や土塁から往時の姿をしのぶことができます.

 松山城の方は圧倒的に観光客が集まる城でしたが,こちらの湯築城(道後公園)は逆に地元の人たちの憩いの場になっているようでした.

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湯築城へのアクセス: JR松山駅から伊予鉄道道後温泉行きで18分,道後公園下車すぐ

スタンプの設置場所 公園内の湯築城資料館にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園です.丘に登るのもさほどの労力を要しません.

80yuzukijo 登城日 2009年1月12日

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2009年8月 6日 (木)

日本100名城スタンプラリー58

日本100名城 松山城(81番)

 愛媛県の県庁所在地松山市は,夏目漱石の坊ちゃんゆかりの地として,また今秋から3年にわたって放送予定のNHKスペシャルドラマ坂の上の雲の主人公,秋山兄弟の出身地としてして,さらには新選組十番組長原田左之助の出身地としても知られています.

Matsuyama1 (写真1) 松山城の天守

 松山は江戸時代に伊予松山藩の城下町でした.藩主は当初,外様の加藤氏,蒲生氏(蒲生氏郷の子孫)でしたが,寛永十一年(1634年)に藩主忠知が無嗣子で没したため断絶となり,以後は親藩の松平氏が入りそのまま幕末に至りました.

Matsuyama2 (写真2) 天守から見た本丸の様子

 そんな松山の中心が松山城です.市内の標高132メートルの勝山山頂に本丸を置いた平山城です.本丸に残る天守は幕末に再建されたものですが,とりあえず江戸時代の建造物ということで現存12天守の一つに数えられています.

Matsuyama3 (写真3) 松山城古地図

 松山城の本丸は山頂に置かれているため,細長い形をしていますが,ここにはこの天守を含めて合計21もの国の重要文化財があります.それらを見て歩くだけでかなりの時間が必要になります.本丸へは徒歩で登ることも可能ですが,東雲口からロープウェイで行くのが一般的です.

Ichinomon Shichikumon

(写真4 左) 一の門,(同5 右) 竹紫門(いずれも重文です)

Noharayagura Kakuremon

(写真6 左) 野原櫓,(同7 右) 隠門(いずれも重文です)

松山城へのアクセス: JR松山駅から路面電車で大街道下車,徒歩5分で登り口です.

スタンプの設置場所 天守受付にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ロープウェイを利用すれば楽に散策できますが,徒歩で登るならそれなりにハードになります(徒歩なら★★).

81matsuyamajo 登城日 2009年1月11日

 

 

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2009年7月28日 (火)

日本100名城スタンプラリー57

日本100名城 今治城(79番)

 日本100名城四国シリーズ,後半は愛媛県です.四国に100名城は9城ありますが,なんとそのうち5つが愛媛県にあるんです.1県5城は長野県,兵庫県とならんで最多です.

Imabari1 (写真1) 今治城を築いた藤堂高虎

 そんな愛媛県の最初を飾るのが今治城です.今治城のある今治市は松山市に次ぐ愛媛県第2の都市です.瀬戸内海の海上交通の四国側の要衝であり,江戸時代には今治藩の城下町が置かれていました.

Imabari2 (写真2) 今の今治を象徴する天守(当時のものではありません)

 そんな今治城を築いたのが,築城の名手藤堂高虎です.浅井長政,豊臣秀吉に仕えた高虎ですが,秀吉の死後は徳川家康に接近し,関ヶ原の戦いでは東軍に属します.その功績によって今治に20万石を与えられてここに入り,慶長七年(1602年)から築城に取り掛かり,2年後に完成したと伝えられています.

Imabari4 (写真3) 今に残る石垣と堀(櫓は再建されたものです)

 今治城は8町16間(約900メートル)四方の城郭に三重の堀を巡らし,堀の水は海水を引き入れて利用した典型的な水城でした.当時本丸には天守が作られたようですが,慶長十三年に高虎が伊勢に移封されると,解体され後に丹波亀山城の天守として再利用されたといわれています.

Imabari3 (写真4) 天守からは瀬戸内海が間近に見えます

 現在遺構として残っているのは,内堀と本丸,二の丸の石垣で,その他多聞櫓や鉄御門が再建されています.また天守も建てられていますが,慶長年間の資料などが詳しく残っているわけではなく,史実に基づかない模擬天守とみなされているようです.

 とはいえ、築城の名手高虎が築いた見事な石垣はそれだけで一見の価値があるものです.

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今治城へのアクセス: JR今治駅から徒歩20分程です.また瀬戸内バスにて今治駅前から今治営業所行きで約7分,今治城前下車です(瀬戸内バスHP 時刻表検索から時刻がわかります).

スタンプの設置場所 天守受付にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園です.

79imabarijo 登城日 2009年1月11日

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2009年7月20日 (月)

日本100名城スタンプラリー56

日本100名城 丸亀城(78番)

 久しぶりの100名城ネタです.

 讃岐の国は今はほぼ香川県に一致しますが,江戸時代には寛永年間の生駒氏の改易後東西に分割され,東の高松藩には水戸光圀の兄,松平頼重が入る一方,西讃には新たに丸亀藩が立藩され,山崎氏が入封しました.その後山崎氏は3代で断絶,改易となり,その後京極氏が入ってそのまま明治に至ります.

Marugame2 (写真1) 丸亀城の堀と天守

 丸亀城は今の丸亀市内の南にある小高い丘である,亀山の上に築かれた平山城です.その歴史は室町時代にさかのぼると言われますが,今の形になったのは慶長年間の生駒氏の時代です.生駒氏は豊臣秀吉,さらに関ヶ原の戦い後は徳川家康によって讃岐の所領を安堵され,本城である高松城に対する支城として丸亀城を築きました.山上の本丸に天守が置かれ,その周囲に二の丸と三の丸が配置されてます.さらにそれらは非常に高い石垣の上に乗っており,遠くから見ると高い石垣の上にそびえる城であることがよくわかります(ギアナ高地じゃないですが,テーブルマウンテンに乗った城という感じ).お城の周囲には堀(当時は内堀)が廻らされています.

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(左 写真2) 大手二の門,(右 写真3) 大手一の門  

 お城は北側に大手門,南が搦手になります.真正面の大手一の門,二の門は国の重要文化財に指定されています.ここから三の丸に向かって長い坂道が続きます.ここが見返り坂と呼ばれる道で,ここをひたすらに登っていくと,ようやく三の丸に到着します.ここからさらに一段高いところに二の丸,本丸があり天守が聳えています.

Marugame8 Marugame4

(左 写真4) 見返り坂,(右 写真5) 高石垣

 丸亀城の天守は,17世紀後半に京極氏の時代に作られたものです.全国現存12天守のひとつで,規模は決して大きくありませんが,高石垣の上に建つその姿は見る者に感動を与えます.

Marugame5 (写真6) 小ぶりながらも見事な天守です

 明治以後廃城となりましたが,幸い天守を含むいくつかの建物が残され今に至っています.現在は亀山公園として市民の憩いの場になっています.

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丸亀城へのアクセス: JR丸亀駅から徒歩20分程度

 スタンプの設置場所 天守内にあります

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ちょっと登りはありますが大丈夫と思います.

78marugamejo 登城日 2009年1月11日

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2009年7月 8日 (水)

日本100名城スタンプラリー55

日本100名城 高松城(77番)

 日本100名城四国シリーズ,3つ目は高松城です.

 讃岐の国の中心にして,香川県の県庁所在地である高松は瀬戸内海に面した城下町です.かつては本州と四国を結ぶ宇高連絡船の入港地であり,現在も岡山から瀬戸大橋線の列車が次々とやってくる交通の要衝でもあります.

Takamatsu1 (写真1) 月見櫓

 そんな高松が城下町として発展し始めたのは秀吉の時代からです.秀吉による四国征伐後の天正十五年(1587年)に生駒親正が讃岐一国を与えられてこの地に入ったことから始まります.翌天正十六年から築城が始まり天正十八年に完成しました.

Takamatsu6 (写真2) 艮櫓

 生駒氏は関ヶ原の戦いで東軍についたことから戦後所領を安堵されましたが,寛永十六年(1639年)にお家騒動から改易となり,以後讃岐は分割され,西側には丸亀藩が立藩され高松藩には水戸黄門こと水戸光圀の兄,松平頼重が入りました.以後江戸時代を通じて松平氏による支配が続き幕末に至ります.

Takamatsu2 (写真3) 天守と二の丸を結ぶ鞘橋

 明治維新後廃城となり,天守を含む建物も破却されてしまいましたが,第二次大戦後になって現存していた櫓などが国の重要文化財に指定されると,以後は公園として整備され,現在に至っています.

Takamatsu4 (写真4) 海水を引き込んだ堀

 瀬戸内海に面した高松城は水城として知られており,特に外堀,中堀,内堀の水は瀬戸内海の海水を引き込んで利用しています.内堀に浮かぶ天守台には三重五層の天守が江戸時代を通じて建っていました.明治後破却されてしまいましたが,写真などの資料も残っていることから市では復元を目指しているようです.その他遺構として艮櫓月見櫓渡櫓水手御門が重要文化財指定されています.

 尚,高松城というと岡山県にある備中高松城も歴史的に有名で,これと区別するために讃岐高松城と呼ぶこともあります.

Takamatsu5 玉藻公園の地図

高松城へのアクセス: JR高松駅から徒歩5分程度で西入口です.

 スタンプの設置場所 玉藻公園東西2か所の入り口にあります

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園です

77takamatsujo 登城日2009年1月9日

 

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2009年6月26日 (金)

日本100名城スタンプラリー54

日本100名城 徳島城(76番)

 日本100名城,2つ目は徳島城です.

Tokushima3 (写真1) 城の東側の堀

 阿波の国の城下町徳島は四国三郎の名で知られる吉野川の河口の三角州に広がる街です.この地に城が築かれたのは安土桃山時代のことで,豊臣秀吉と縁の深い蜂須賀小六の息子蜂須賀家政によります。

Tokushima4 (写真2) 再建された鷲の門

 1600年の関ヶ原の戦いに際しての家政の苦悩は有名です.家政は心情的には東軍派でしたが,父小六が秀吉と古くからの付き合いだったこともあり,表だって東軍支持を表明できませんでした.このため,自分の所領を秀頼に返上して,自らは引退して中立を保つ一方で,息子の至鎮の妻が家康の養女であることを理由に彼を東軍に送り込み,結果的に所領を守ったのです.結局徳島城は江戸時代を通じて蜂須賀家の支配する徳島藩の居城となりました.

Tokushima2 (写真3) 御殿跡にある庭園

 徳島城は城山と呼ばれる標高60メートルの小山を中心に築かれた平山城です.北は助任川,南は寺島川を天然の堀としていました.城山部分に本丸,二の丸,三の丸が,平地部分に御殿と,西の丸と呼ばれる部分がありました.城山自体が東西に細長い形をしているため,二の丸は東西に分かれていたそうです.

Tokushima6 (写真4) 石垣です

 この城の特徴としてあげられるのが,天守が本丸ではなく東二の丸に建っていたという点です.なぜそうしたのかは諸説があるようです(防御上の理由や,景観など).

Tokushima5 (写真5) 天守跡です.天守台はなく,東二の丸に直接建っていたようです.

 明治維新後廃城となり鷲之門を除く建造物がことごとく破壊され,鷲の門も第二次大戦末期の空襲で焼けてしまいました.

 現在徳島城址は徳島中央公園として整備され,市民の憩いの場となっています.前述のように当時の建物は残っていませんが,戦争で焼けた鷲の門が再建され,当時の面影を忍ばせています.

Tokushima1

徳島城へのアクセス: JR徳島駅から徒歩10分程度(距離的には駅のすぐ北ですが,徳島駅の出口が南側にしかないため,迂回する必要がある).

 スタンプの設置場所 徳島場内にある博物館にあります

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 城山があるので,歩くとそれなりに疲れます.

76tokushimajo 登城日 2009年1月9日

 

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2009年6月18日 (木)

日本100名城スタンプラリー53

日本100名城 高知城(84番)

 今回から9回にわたって四国シリーズになります.その第1回は高知城です.

Kouchi1 (写真1) 高知城追手門と天守

 高知・土佐というと何といっても坂本龍馬です.空港の名前も高知龍馬空港ですし,桂浜には龍馬のでっかい像が立っています.お土産物屋をのぞいても龍馬Tシャツや龍馬ビールに龍馬日本酒,はては龍馬うどんまで豊富なラインナップをそろえています.

 そんな高知ではありますが,高知城ということになると龍馬の影は薄くなります.坂本龍馬は元々土佐藩の郷士(下級武士)であり,お城にはあまり縁がありません.龍馬が歴史の表舞台に登場するのは,脱藩後のことだからです.

Kouchi3 (写真2) 高知城天守

 そんな高知城を作ったのは,功名が辻で知られる山内一豊です.元々高知城のある場所には南北朝時代から大高坂山城と呼ばれる城がありました.戦国時代になるとこの地は長宗我部氏の支配するところなりますが,天正十九年(1591年)に長宗我部元親はここではなく,より海に近い浦戸に城を築き移りました.

Kouchi2 Kouchi7

(写真3左) 詰門 (同4右)黒鉄門

 しかし,慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで長宗我部氏は西軍に味方したため,戦後改易となり,代わって入ったのが山内一豊なのでした.この時以来土佐藩では一豊とともに掛川からやってきた家臣が上士として,旧長宗我部家臣の郷士を支配する体制が出来上がり幕末に至るのです(幕末期に土佐藩が藩主は佐幕なのに,下級武士が反幕的なのはこの辺に由来があります).一豊は長宗我部氏の居城だった浦戸から再び大高坂山城に移り,これ以後高知城として土佐の中心地となっていきます.

Kouchi5 (写真5) 鐘撞堂

 そんな高知城ですが,明治後も天守や御殿など多くの建造物が残されました.天守と本丸御殿が共に残っているのはここ高知城くらいのものです(高知城の本丸はほぼ昔のままそっくり残っています).そのほかにも追手門・黒鉄門などの門,櫓など15棟が国の重要文化財に指定されています.

Kouchi6 (写真6) 功名が辻で有名な一豊の妻千代

 現在高知城は公園として整備され,市内の観光スポットとして賑わっています.特に追手門と天守が一望できる場所は絶好の写真スポットとしてしられています.私が登城した時,ちょうど石垣の改修が行われていました.

Kouchi4

高知城へのアクセス: JR高知駅から徒歩20分(バスもあるようです)

 スタンプの設置場所 天守内にあります

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園なので楽に散策できます.

84kochijo 登城日 2009年1月9日

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2009年6月10日 (水)

日本100名城スタンプラリー52

日本100名城 伊賀上野城(47番)

 三重県に存在する日本100名城は,前回紹介した松阪城の他に伊賀上野城があります.

 伊賀上野城のある伊賀市は,今でこそ主要交通路から外れていますが,律令時代から江戸時代の初めにかけては東海道の道筋であり,京都や大阪と関東との間の重要拠点でした.このため戦国時代から江戸時代の初期にかけて城が築かれたのです.

Ueno3 (写真1) 伊賀上野城模擬天守

 この地に最初の近世城郭を築いたのは洞ヶ峠で有名な筒井順慶の養子筒井定次です.筒井氏は本来大和郡山城主でしたが,天正十三年(1585年)に秀吉によってこの地に移されました.秀吉は自分の本拠地の大阪城を守るため,大阪に近い大和郡山に実弟羽柴秀長を入れるため,結果的に定次がこの地に飛ばされたようです.この時代の上野城には三層の天守があったと言われています.

Ueno1 (写真2) 現在の伊賀上野城は築城の名手藤堂高虎によって築かれました

 秀吉の死後の関ヶ原の戦いで定次は東軍に属したため所領を安堵されましたが,慶長十三年(1608年)に失政を理由に改易となってしまいます.その後この地に入ったのが藤堂高虎でした.家康としては,来る豊臣氏との最終決戦に備えて,この地に要害の城を建設すべく,築城の名手と名高かった高虎を招いたものと思われます.高虎はただちに築城に着手,今に残る高さ30メートルの高石垣をはじめ,10棟の櫓や五層の天守閣など壮麗な城を築きました.天守閣は慶長十七年(1612年)大風で倒壊し,以後再建されることはありませんでしたが,上野城そのものは藤堂藩32万石の城として江戸時代を通じて存続していきます(ただし藤堂藩の本拠は津城).

Ueno2 (写真3) 見事な高石垣です

 明治維新後は廃城となり場内の建築物もあらかた取り壊されてしまい,城跡も荒れるがままにされていました.しかし,地元の有志による整備が行われ,さらに昭和十年に地元の衆議院議員川崎克の尽力により今に残る天守が作られたのです.ただ,この天守は昔の天守を再現したものではありません.

Ueno4 (写真4) 上野公園の構内図

 現在の伊賀上野城は上野公園(東京にある同名の公園とは関係ありません)として整備され,城跡のみならず,忍者屋敷などのスポットを有する観光施設として賑わっています.

伊賀上野城へのアクセス: 伊賀鉄道上野市駅から徒歩5分,JR伊賀上野駅からだとタクシーで10分程度

 スタンプの設置場所 天守内にあります

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園なので楽に散策できると思います.危険ですので石垣の端には近寄らないで下さい.

47igauenojo 登城日 2009年1月4日

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2009年6月 1日 (月)

日本100名城スタンプラリー51

日本100名城 松阪城(48番)

 ひのパレ関連でしばらくお休みとなっていました日本100名城ネタ,ぼちぼち再開していきます.

 後半戦のスタートは三重県の松阪城です.

Matsusaka1 (写真1) 松阪城表門

 松阪というと今では松坂牛で有名ですが,江戸時代には越後屋呉服店(今の三越)を興した三井高利に代表される松阪商人の出身地として知られていました.

 この地に城を築いたのは蒲生氏郷です.後に会津の鶴ヶ城を築いたことで知られる氏郷は天正12年(1584年)に秀吉から伊勢松ヶ島12万石を与えられ,当初は信長時代の松ヶ島城に入城しました.しかし,将来を見据えてより大きな城下町を作るべく天正16年(1588年)に松阪城を完成させています.さらに彼は前任地だった近江日野から近江商人を多数呼び寄せるなど,商業の発展に力を注ぎ,後に商都として栄える松阪の発展に大いに寄与しました.

Matsusaka2 (写真2) 見事な高石垣です

 しかし氏郷は城完成のわずか2年後の天正18年に会津若松に加増転封となりこの地を離れることになりました.以後は服部一忠,次いで古田重勝が城主となり関ヶ原の戦いを迎えます.この戦いで重勝は東軍に味方したため戦後加増されましたが,2代目重治の時に浜田に転封となりました.以後は御三家のひとつである紀州徳川家の藩領となり幕末に至ります.この間松阪城には城代が置かれていました.

Matsusaka3 (写真3) かつて三層の天守があったという天守台

 明治後廃城となり,その後の火災等で城の建築物はあらかた失われてしまっています.現在は石垣のみが残る城跡となっていますが,この石垣こそが松阪城を有名にしているものです.本丸,二の丸の高石垣はそれだけで見る者を圧倒する迫力があります.

Matsusaka4 (写真4) こちらは裏門になります

 松阪城はその東側に大手が,南に搦手となっており,周囲は深田堀・水堀で囲まれていました.郭としては本丸,二の丸,三の丸,きたい丸,隠居丸などがあり,本丸の西に天守台があります(かつては三層の天守があったそうですが,江戸時代の早い段階で天守は風で倒壊してしまたそうです).

Matsusaka5(写真5) 松阪城址の地図

 尚,松阪出身の著名人として江戸時代の国学者本居宣長がおり,松阪城址の西側に本居宣長記念館があります.

Matsusaka6 (写真6) 本居宣長旧宅

 松阪城へのアクセス: JR・近鉄松阪駅から徒歩15分です.

 スタンプの設置場所 歴史民俗資料館と本居宣長記念館の2か所にあります

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) やや広いですが楽に散策できると思います.危険ですので石垣の端には近寄らないで下さい.

48matsusakajo 登城日 2009年1月4日

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2009年5月 4日 (月)

日本100名城スタンプラリー50

日本100名城 岩村城(38番)

 日本100名城スタンプラリー,記念すべき50回目です.振り返ってみると最初に訪問した小田原城が昨年の5月6日だったのでほぼ1年ということになります.実際の登城はすでに71城になっていますが,残るは九州など遠いところばかりなので,そのうち記事の方も追い付くのではと思います.

P1030014 (写真1) 復元された太鼓門

 さてそんな50城目は岐阜県の岩村城です.名古屋から中央線で約1時間の恵那駅で明知鉄道に乗り換えて30分です.山深い土地で市街地の標高がすでに500メートルもあり,城の本丸の標高が721メートルと山城では日本一であることから日本三大山城のひとつに数えられています.

P1030025 (写真2) 登山道は整備されています

 岩村城の歴史は遠く鎌倉時代にさかのぼります.源頼朝の家臣加藤景廉によって12世紀末に築かれたと言われます.景廉の子景朝の代になってこの地に定着し,姓を遠山に改め以来戦国時代まで領主となりました.

P1030027 (写真3) 登っていくと徐々に石垣が登場します

 遠山氏最後の城主となったのは遠山景任で,妻に織田信長の叔母(おつやの方)を迎えて姻戚関係を結んでいました.さらに信長の子を養子に迎えて,景任の死後はおつやの方自身がが女城主として城を采配するなど織田方の出城としての役割を担っていました.

P1030061 (写真4) 井戸の遺構です

 ところが元亀三年(1573年)に武田信玄の軍勢に攻められ,城はついに降伏,この時おつやの方は自身が武田型の武将秋山信友の妻になることで城内の人々の命を救いました.しかし,この降伏は織田家にとっては裏切り以外の何物でもなく,激怒した信長は天正三年(1575年)に嫡男信忠に命じて岩村城を攻撃,これを陥落させ秋山信友・おつやの方夫妻を逆さ磔にしたと伝えられています.

P1030045 (写真5) 標高日本一の岩村上本丸です

 江戸時代には岩村藩2万石(後に3万石)の城となり,明治維新後に廃城となりました.この時城の建物は破却されてしまいましたが,石垣や井戸などの遺構がよく保存されています.麓の歴史資料館から登り始めます.山城ではありますが,登山道はきちんと石畳で整備されており,あまり苦労せずに登ることができます.徐々に出現する石垣群が見事で,登る際の疲れが吹っ飛んでしまうほどです.

P1030056 (写真6) 見事な6層の石垣です

岩村城へのアクセス: 明知鉄道岩村駅下車徒歩20分で歴史資料館到着,ここから本丸まで30分の登りです.

 スタンプの設置場所 歴史資料館の受付にあります

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 整備されているとはいえ山城ですのでそれなりに大変です.

38iwamurajo 登城日 2009年1月3日

 

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2009年4月29日 (水)

日本100名城スタンプラリー49

日本100名城 名古屋城(44番)

 尾張名古屋は城で持つと歌われた名古屋城は,愛知県の県庁所在地名古屋市の中心にある城です.

Pc280040 (写真1) 外観復元された大小天守

 名古屋城の元となったのは戦国時代に今川氏によって築かれた出城で,当時は那古野城と呼ばれたそうです.その後享禄五年(1532年)に織田信秀がここを占領し,以後居城としました.しかし続く信長の代に清州城に移ったため那古野城は廃城となりました.

Pc280037 (写真2) 東南隅櫓

 関ヶ原の戦い・江戸開府の後,豊臣氏との最終決戦を決意した徳川家康は東海道の防衛拠点としてこの地に注目し,尾張の中心地を清洲からここに移すことを決定,こうして慶長14年(1609年)から築城が開始されました.この工事には福島正則,加藤清正ら豊臣恩顧の西国大名が多数動員されています.

Pc280044 (写真3) 西南隅櫓と後方の天守

 名古屋は江戸時代を通じて尾張藩62万石の城下町として栄えました.藩主は徳川御三家筆頭,尾張徳川家です.徳川将軍家に次ぐ家格で諸大名の最高位にあたりますが,なぜか江戸時代を通じて将軍を輩出することはありませんでした(紀伊徳川家からは8代将軍吉宗が,水戸徳川家からは15代将軍慶喜が出ています).歴代藩主の中では経済政策をめぐって8代将軍徳川吉宗と対立した7代藩主徳川宗春が有名です.

Pc280063 (写真4) 西北隅櫓を堀の外側から

 明治維新後,城自体は廃城となりましたが,天守や本丸御殿など主要な建築物は遺され,昭和5年(1930年)にそれらは国宝に指定されました.しかし大戦末期の空襲によってその多くが焼失してしまいました.

Pc280035 (写真5) 東側の堀には水がありません

 現在名古屋城の遺構として残されているのは3つの櫓(西北隅櫓,西南隅櫓,東南隅櫓)といくつかの門,石垣,堀などです.その一方再建も行われており,昭和34年に天守が鉄筋コンクリート製で外観復元され,現在は本丸御殿の再建が行われています.

Pc280036

名古屋城へのアクセス: 地下鉄名城線市役所下車すぐ(JR・名鉄金山駅での乗換えが便利)

 スタンプの設置場所 東門と正門の受付にそれぞれあります

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 見て回るには少し広いですが,よく整備された都市公園です.

44nagoyajo 登城日 2008年12月28日

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2009年4月 5日 (日)

日本100名城スタンプラリー48

日本100名城 根室半島チャシ跡群(1番)

 家のメインPCのデータが救出され,ようやく100名城記事の再開です.

 日本100名城スタンプラリー,その第1番に位置づけられているのが,根室半島チャシ跡群です.チャシとはアイヌ語で柵や柵で囲われた砦を意味するそうです.漢字では茶志という字を当てるようで,JR北海道函館本線にある茶志内駅もこのチャシにゆかりがあるのではないかと思われます(ナイはアイヌ語で川の意なので,砦のある川という意味でしょうか).ちなみにチャシ跡という意味ではチャシコツというそうです.

Chashi1 (写真1) 温根元漁港から眺めたオンネモトチャシの全景

 砦というと戦のための施設という印象ですが,チャシには防御施設(いわゆる砦)としての機能の他に祭祀場や倉庫,見張り場としての役割があったのではないかと考えられています.

 チャシの成立時期は16世紀から18世紀ごろと言われており,本州以南では戦国時代から江戸時代にあたります.基本的に自然の地形を利用した造りとなっており,河野広道氏による分類が知られています.

 1.丘先式: 岬などの突出した土地の先端を弧状の壕で区切ったもの

 2.面崖式: 崖の上の土地を半円形もしくは四角形の壕で区切ったもの

 3.丘頂式: 山や丘の頂周囲を壕で区切ったもの

 4.孤島式: 川の中州や湖上の島など周囲から孤立した土地をそのまま利用するもの

Chashi (絵) 4種類のチャシの模式図

 現在では北海道全土に500か所以上のチャシ跡が確認されていますが,その多くは道東地区にあり,とりわけ根室半島には30か所以上のチャシ跡が見つかっており,このうち24か所が国の史跡に指定されており,この1群が100名城にもなっているわけです.

Chashi2 (写真2)  チャシにはこのような標柱が立っているところが多く,見つける際の目印になります.

 根室半島にある24のチャシ跡のなかで最もよく知られているのが,北海道最東端納沙布岬の近くにあるオンネモトチャシです.温根元小学校脇から小道に入り,海側を見るとなにやら標柱が立っています.そこを目指して藪の中を進んでいくと,そこが目指すオンネモトチャシでした.

Chashi4 Chashi5

(写真左) ノツカマフ1号・2号チャシの図,(同右) たしかに壕が掘られています.

 岬の突端に形成されたチャシですから,先の分類では面崖式ということになります.そういえばなんとなく壕が掘られている感じがしました.

 その他いくつかのチャシを訪問しましたが,当時をしのばせる遺構としては壕を思わせる窪みのみでした.

Chashi3 (写真5) ノツカマフチャシの案内板

 根室半島チャシ跡群へのアクセス: 代表的なオンネモトチャシへは,JR根室駅から納沙布岬行きのバス終点下車徒歩20分程度ですが,その他のチャシも回るならレンタカーなどが必要です.

 スタンプの設置場所 JR根室駅前の観光インフォーメーションセンターにあります

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) オンネモトチャシだけなら楽ですが,その他のチャシも見るなら,1日掛かりになります.

01chashiato 登城日 2008年11月29日

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2009年3月14日 (土)

日本100名城スタンプラリー47

 日本100名城 大阪城(54番)

 大阪城というと豊臣秀吉,という強いイメージがあります.

 天正十年(1582年)6月に織田信長が本能寺の変で倒れた後,当時備中高松城攻略に当たっていた秀吉は,直ちに軍を返して(中国大返し)明智光秀を討ち(山崎の戦い),その後の清洲会議,柴田勝家との賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者の地位に着きます.

Osaka2 (写真1) 現在の大阪城天守

 その秀吉の天下統一の城となったのが大阪城でした.ここは戦国時代には石山本願寺があったところです.寺とは言いながら石垣をめぐらすなど要塞のような趣だった石山本願寺でしたが,信長との10年に及ぶ戦に敗れて天正八年(1580年)に炎上・焼失しました.そして信長死後の天正十一年(1583年),秀吉が跡地に城を築いたのです.

Osaka1 (写真2) 大阪城の外堀

 秀吉の大阪城は本丸の増築だけでも1年半を要し,全体が完成したのがが秀吉自身の死の頃だったというほど巨大な城でした.三重の堀や運河,外観五層の天守閣には金箔が使われるなど,まさに天下人の城と呼べるものだったようです.

Aoyamon (写真3) 青屋門

 しかし,慶長十九年(1614年)の大阪冬の陣の講和の結果,三の丸,二の丸は破壊され,大阪城は本丸のみの裸城になってしまいました.そして翌慶長二十年(1615年)の大阪夏の陣で豊臣氏の滅亡と共に完全に焼失してしまったのです.

6banyagura (写真4) 六番櫓

 その後,江戸幕府2代将軍の徳川秀忠によって再建されたのが今に残る大阪城です.秀吉時代の大阪城は完全に破壊されてしまったため,今の大阪城の全く新しい城ということができます.縄張りは秀吉時代の4分の1に縮小されてしまいましたが,石垣や天守閣はより高く,堀はより深いものとなったそうです.

Tamonyagura (写真5) 多聞櫓

 江戸時代を通じて大阪城は幕府直轄とされてきましたが,3代将軍家光が滞在した後歴代将軍が訪れることはありませんでした.そんな大阪城が再び脚光を浴びたのは幕末の慶応三年のことです.大政奉還・王政復古のクーデターの後,15代将軍徳川慶喜はこの城に入り新政府軍と対峙したのです(新選組の近藤勇,土方歳三らもこの時大阪城に入っています).

 しかしその後の戊辰戦争の混乱の中,大阪城は再び炎上してしまいました.

Senganyagura (写真6) 千貫櫓

 明治維新後は陸軍省の管理下に置かれましたが,第二次大戦後に大阪城公園として整備され現在に至っています.それ以前,昭和6年(1931年)には当時の大阪市長の呼びかけで今に残る天守閣が造られ大阪のシンボルとして親しまれています.

 2008年の晩秋に訪問しましたが,紅葉の中に聳える天守の壮大さに圧倒されました.まさに天下のお城にふさわしいと思います(ただ,私の世代の人間にとっての大阪城はウルトラマンとゴモラの戦いの舞台というイメージが強いのですが 笑).

Osaka3

 大阪城へのアクセス: JR大阪環状線大阪城公園駅・森ノ宮駅から徒歩15分程度です.

 スタンプの設置場所 天守閣内の売店にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ちょっと広いですが気軽に散策できます.

54osakajo 登城日 2008年11月24日

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2009年3月 3日 (火)

日本100名城スタンプラリー46

 日本100名城 二条城(53番)

 平安遷都から1200年あまり,長い間京都は日本の中心地でした.平安京は唐の長安をモデルとしたとされています.当時の大陸では都市=城であり,都市の周囲を城壁で囲って外敵からの侵入に備えていましたが,日本では外敵に攻められるという事態が想定されにくいためか平安京には城壁がありません.

Nijo4 (写真1) 二条城を代表する国宝の二ノ丸御殿

 鎌倉時代や江戸時代にはそれぞれ鎌倉江戸に行政府が置かれましたが,京都が重要な街であったことには変わりがなく,鎌倉時代には六波羅探題,江戸時代には京都所司代といった出先機関が置かれていました.

Nijo2 (写真2) 東南隅櫓

 そんな京都の街で重要な役割を果たしたのが二条城です.その名の通り二条大路付近にある城です.歴史的には室町将軍家時代から城はあったようですが,現在の城が造られたのは江戸時代のことです.

Nijo5 (写真3) こちらは本丸御殿です

 慶長六年(1601年),関ヶ原の戦いの翌年に工事が始まり,慶長八年(1603年)に一応の完成をみました(その後五層五階の壮麗な天守閣も築かれました).天皇のいる御所の警護の他,将軍が上洛した際の宿舎として利用されました.ただ3代将軍家光以後将軍の上洛は途絶え,それが復活したのは幕末の文久三年(1863年)に14代将軍家茂の時です.ちなみにこの将軍上洛に先立って派遣されたのが近藤勇,芹澤鴨といった後の新選組の面々も参加した浪士組です.

Nijo6 (写真4) 天守台から本丸御殿をのぞみます

 慶長十六年(1611年)にはここで家康と豊臣秀頼の会見が行われています.寛永三年(1626年)には後水尾天皇の行幸を迎えていますが,この城で特筆すべき事件はなんといっても慶応三年(1867年)10月の大政奉還でしょう.これは今も残る二ノ丸御殿の大広間でのことです.

Nijo7 (写真5) 内堀に架かる西橋

 現在の二条城は国宝の二ノ丸御殿をはじめ,数多くの重要文化財などを持ち,城郭全体が世界遺産にも指定されています.

二条城へのアクセス: 地下鉄東西線二条城前駅下車すぐ

 スタンプの設置場所 二ノ丸御殿の東側,休憩所の隣にある管理事務所に置いてあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 気軽に散策できます.

53nijojo 登城日 2008年11月22日

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2009年2月24日 (火)

日本100名城スタンプラリー45

 日本100名城 月山富田城(65番)

 戦国時代に守護の京極氏から下剋上によって出雲の支配権を奪ったのが守護代の尼子氏です.その尼子氏の本拠として知られているのが月山富田城です.

Gassan1 (写真1) 花ノ壇から見た月山の全容

 富田城は島根と鳥取の県境の島根側に位置する安来市(安来節で有名)の内陸部にある月山(私のような東北人には山形県の同名の山のイメージが強いのだが)に築かれた山城です.難攻不落の城と言われており,天文十一年(1542年)から翌年にかけての大内・毛利連合軍の攻撃を撃退し,また最終的に尼子氏が滅亡に至った毛利氏との最後の戦いでも3年間包囲戦に耐えたことからもその堅固さがしのばれます.

Gassan3 (写真2) 城の山麓部の中心となる山中御殿跡

 尼子氏滅亡後は毛利氏,その後堀尾氏のものとなりましたが,堀尾氏によって松江城が築かれ居城がそちらに移るとともに廃城になりました.現在は国の史跡に指定されていますが,当時の建物は全くなく,遺構として石垣や郭などが当時をしのばせます.

Gassan5 (写真3) 山中御殿からはこのように急激なつづら折れの登山道になります.ここは井戸跡です.

 スタンプのある歴史資料館の先にある細い道を登って行くと太鼓櫓,奥書院平などを経て山中御殿があった広い平地に至ります.ここから七曲りと呼ばれるつづら折れの急な登りになり,そこを15分ほど登ると三の丸,二の丸,本丸の見事な石垣が登場します.

Gassan4(写真4) 本丸の石垣

 私が訪問した日,城跡近くでちょうど戦国尼子フェスティバルが開催されており,模擬店や甲冑姿の武者らが多数歩いていました.模擬店では出雲そばも売られており,見たらちゃんと割子に入っていました.

Gassan2(写真5) 月山富田城の復元模型です.

月山富田城へのアクセス: JR安来駅からイエローバス広瀬-米子線,広瀬バスターミナル行きで20分市立病院下車(200円),そこから徒歩10分川の反対側に歴史資料館があります.またイエローバスは米子駅からも出ているので,米子から直接バスで行くことも可能です(イエローバス運行ダイヤ表).

 スタンプの設置場所 歴史資料館の受付にあります(声をかけると出してくれます).

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 山中御殿までの道は大したことがありませんが,その後の七曲りは結構きついです.

65gassantodajo 登城日 2008年10月26日

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2009年2月18日 (水)

日本100名城スタンプラリー44

 日本100名城 松江城(64番)

 鳥取城登城後,列車に乗って松江に移動しました.

 松江は島根県の県庁所在地で同県のほぼ東端に位置し,鳥取県西部の主要都市米子市とは電車で30分ほどの距離にあります.宍道湖と中海に挟まれた地形であり,水の都としても知られています.

Matsue2 (写真1) 現存12天守のひとつ松江城天守

 松江を含む出雲の国はそれこそ古事記・日本書紀の時代から登場する伝統ある土地柄です.室町時代には守護京極氏の支配する土地でしたが,戦国時代になると守護代であった尼子氏が台頭し,経久の代にこの地域の実権を京極氏から奪います.その後は安芸に興った毛利氏の勢力圏に入り豊臣政権時代を送りました.

Matsue3 (写真2) 堀と再建された櫓(左が南櫓,右が中櫓)

 関ヶ原の戦いで毛利氏の勢力が大きく後退すると,代わって堀尾忠氏が入り松江藩が成立しました.当初の藩庁は尼子氏以来の月山富田城でしたが,戦国の要塞である富田城は政治を行うには不便であり,まもなく今の松江の地に城と城下町を建設したのです.

Matsue4 (写真3) 三ノ門跡と石垣

 その後藩主は堀尾氏から京極氏を経て松平氏へと代わり幕末に至るのです.

 明治維新後廃城となり多くの建物が破壊されましたが,天守は奇跡的に破壊を免れ保存されました(現存天守は国の重要文化財に指定されています).現在は櫓や門などが復元され,周辺にある武家屋敷などとともに街を代表する観光名所となっています.

 私が訪ねた2008年10月25日は午後から晴れ上がり,秋の涼しい気候の中快適に探索できました(特に鳥取城の後に行ったためか,余計楽に感じました).特に城の西側は観光客も少なくより快適でした(笑).

Matsue1_2 松江城案内図

 松江城へのアクセス: JR松江駅前7番バス停からレイクラインで松江城下車すぐ(1時間に3本程度),または1番バス停市営バス北循環外回りで10分県庁前下車徒歩5分です.

 スタンプの設置場所 天守の受付にあります(声をかけると出してくれます).

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.

64matsuejo 登城日 2008年10月25日

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2009年2月10日 (火)

日本100名城スタンプラリー43

 日本100名城 鳥取城(63番)

 いよいよ山陰シリーズです.2008年秋に境港妖怪検定に行った際に登城しました.

 鳥取というと鳥取砂丘のイメージが強烈すぎて鳥取の街自体はなんとなく地味な印象があります.そんな鳥取の街の中心だったのが鳥取城です.

Tori5 (写真1) 鳥取城の堀

 鳥取城の歴史は戦国時代にさかのぼります.因幡の守護山名誠通が天文年間(1540年頃)に築いたのが始まりとされています.

 今の鳥取市街地の北東に位置する久松山を利用して築かれた典型的な山城です.因幡山名氏の支城として武田氏が城番として入っていましたが,永禄年間(1560年代)に武田高信が毛利氏と組んで独立,以後は毛利・武田と山名・尼子の両勢力による激しい争奪戦の地となります.天正三年(1575年)にこの戦いは毛利氏の勝利に終わりますが,その後織田信長の勢力がこの地に及び,今度は毛利・織田両勢力の最前線となります.取ったり取られたりの攻防の末,決着を付けたのは豊臣秀吉でした.天正九年(1581年)夏2万の大軍でこの城を包囲します.このとき城兵は4千人程度だったといわれます.

Tori3 (写真2) 復元された城門です.

 しかし秀吉は力攻めはせず,城を完全包囲しての兵糧攻めを行いました.4ヶ月の包囲戦で兵糧がなくなった城内では餓死者が続出,その惨状に耐えかねた城主吉川経家は開城を決意,自らは切腹したのでした.

Tori4 (写真3) 山麓部の二の丸の石垣です.

 関が原の戦い後は豊臣系大名で武断派の池田輝政の家系が入り,一族内での多少の異動はあるものの(池田氏はここ鳥取以外に岡山にも立藩していたため)幕末まで続いていくことになります.江戸時代には要害としての城は不要になったため,山麓に新たに城郭が作られました.

Tori2 (写真4) 山上の丸の天守櫓台です.

 明治維新後廃城となり当時の建築物はすべて破却されてしまい,現在は石垣や堀などの遺構があるだけですが,鳥取城は中世城郭としての山頂部と近世城郭としての山麓部という異なる時代の遺構が同時に見られる城となっています.

 尚,鳥取城については古写真や古絵図が遺されており,将来的に江戸時代の姿を復元しようという計画があるようです(現在は城門のみ復元されています).

Tori1_2 (写真5) 鳥取城の全体図

 鳥取城へのアクセス: JR鳥取駅からバスで約10分西町バス停下車(バスはたくさんあります)徒歩5分,あるいはループ麒麟獅子Aコースで8分鳥取城跡バス停下車(1日6便)すぐです.

 スタンプの設置場所 鳥取城そばに建つ仁風閣の受付にあります(声をかけると出してくれます).

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 山上の丸まで登ると結構な運動になります(約20分)

63tottorijo 登城日 2008年10月25日

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2009年2月 1日 (日)

日本100名城スタンプラリー42

 日本100名城 広島城(73番)

 戦国時代末期中国地方に120万石という大勢力を誇った毛利氏の居城は先祖伝来の吉田郡山城でした.しかし秀吉政権下で戦が少なくなり,交易などが盛んになると,元来要塞としての側面が強かった郡山城ではなにかと不便になってきました.このため毛利輝元は天正十七年(1589年)に太田川の河口に形成された三角州に新しい城の建設を始めましました.これが広島城です.

Hiroshima2 (写真1) 広島城の天守

 三角州の軟弱な地盤の上に築城するため難工事となりましたが,豊臣秀吉の援助もあり工事は進捗し,天正十九年(1591年)に輝元が入城,この時から毛利家の居城となったようです(同時に郡山城は廃城となりました).

 典型的な中世城郭だった郡山城と異なり広島城は秀吉の大阪城や聚楽第を参考にして築いたといわれるように豪華な城でした.

Hiroshima1 (写真2) 内堀です

 しかし秀吉の死後,慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の総大将の地位にあったことから,戦後周防・長門2カ国36万石に大減封されてしまいました.結果毛利氏は山陰の萩に移り,代わって福島正則が50万石で入封することになります.正則は豊臣秀吉の親戚筋でしたが,石田三成とは仲が悪く,関ヶ原では東軍に属した功績によるものです.彼の代に城下町が整備され,広島の町が発展していきましたが,元和五年(1619年)に城を無許可で修繕した罪(元和元年に発布された武家諸法度によって城の修繕には幕府の許可が必要になった)に問われ,改易とされてしまいました.

Hiroshima4 (写真3) 復元された太鼓櫓

 その後広島城に入ったのが浅野長晟です.長晟の父,浅野長政は秀吉の正室北政所(ねね)の義弟にあたるように豊臣系の大名です.しかし福島正則と同様石田三成と関が原当時の当主浅野幸長の折り合いが悪く,東軍に属して武功をあげたものです.

 この浅野氏が以来広島城の城主となり幕末まで続いていくことになります.ちなみに忠臣蔵で有名な赤穂藩主浅野内匠頭長矩は分家筋にあたります.

Hiroshima3(写真4) 復元された表御門と平櫓

 浅野氏時代の広島は基本的に福島氏時代と大きく変わらなかったといわれています.

 明治後は廃城となり徐々に城の建物も失われていきましたが,天守や一部の櫓などは現存したまま明治時代を送ります.広島城跡には第5師団司令部置かれ,さらには日清戦争時に大本営が設置されるなど軍の拠点としても発展していきました.

 この間に広島城の歴史的価値も見直されるようになり,昭和6年(1931年)には天守が国宝に指定されました.

 しかし,昭和20年8月6日に町を一瞬で廃墟に変えた原子爆弾によって天守も倒壊,他の櫓等もすべて焼失してしまいました.

 戦後町が復興するとともに,天守等を再建しようという機運が盛り上がり,昭和33年に天守が完成(鉄筋コンクリート製の外観復元),その他の櫓も順次完成していきました.ちなみに広島城の別名を鯉城といいますが,これにちなんで当地に司令部があった陸軍第5師団の通称が鯉兵団,プロ野球チームの愛称がカープ(鯉の意味)となっています.

 広島城は現在広島城址公園として市民や観光客の憩いの場所となっています.

 広島城へのアクセス: 広島バスセンターから徒歩10分ほどです.

 スタンプの設置場所 天守内の売店にあります(声をかけると出してくれます).

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です

73hiroshimajo 登城日 2008年10月5日

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2009年1月21日 (水)

日本100名城スタンプラリー41

 日本100名城 郡山城(72番)

 私のような東北の人間にとって,郡山といえば福島県なんですが(福島県郡山市),今回のテーマは福島ではありません.広島県の内陸部,中国山地に入ったところにある吉田郡山城です(郡山城という名前の城は奈良県に大和郡山城もありこちらも有名です).

Kooriyama5 (写真1) この山全体が郡山城です

 ここは歴史的には戦国大名毛利氏の居城として知られています.毛利氏は鎌倉幕府の重臣だった大江弘元の流れをくむ一族で,室町時代になってから安芸に入り,以後この地の国人領主となっていました.16世紀の半ば毛利元就の時代に大きく発展し,元就の死後輝元の時代に広島に移りましたが,それまでの200年以上にわたってこの郡山城を本拠にしていました.

Kooriyama3 (写真2) 毛利元就の墓所もここにあります

 中国山地の山間,吉田盆地に位置するこの城は,郡山という標高約400メートルの山全体が城郭という典型的な中世城郭です.その堅固ぶりは,天文九年(1540年)に尼子晴久の大軍に包囲されながらも半年間の籠城戦に耐え抜いたことでも知られています.山頂に本丸が置かれ,一段下がって二の丸,さらに下がって三の丸という構造になっています.

Kooriyama4_2 Kooriyama1

(写真左) 二の丸から本丸方面を見上げた構図,(同右) 郡山城本丸

 毛利氏が広島に移ると廃城となり,さらに江戸時代に再び破却されたため,現在では当時の様子をしのぶことは難しいですが,訪れてみると山全体が城郭という大きなスケールを感じることができます.

 私が訪問した10月5日はあいにくの秋雨で,ぬかるんだ山道を歩くのは結構骨が折れました.

Kooriyama2  郡山城案内図

 郡山城へのアクセス: 広島バスセンターから広島電鉄バス上根・吉田線で1時間30分,安芸高田市役所前下車(960円 時刻表),そこから徒歩10分ほどで城の昇り口です.

 スタンプの設置場所 歴史民俗資料館受付にあります.

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 山全体が城郭であるため,かなり歩かなければ様子がわかりません.

72kooriyamajo 登城日 2008年10月5日

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2009年1月14日 (水)

日本100名城スタンプラリー40

 日本100名城 岩国城(74番)

 山口県岩国市は瀬戸内の工業都市であり,また基地の街としても知られています.室町時代には大内氏,戦国時代には毛利氏の勢力圏となっていました.関ヶ原の戦いの後,中国地方を治める大大名だった毛利氏は周防・長門2カ国に減封され,岩国の地は毛利氏一族の吉川広家の治める土地となりました.ただ毛利本家は吉川家を支藩とは認めなかったため,江戸時代を通じてこの地は長州藩の一部と扱われました(岩国領と呼ばれた).

Iwakuni1 (写真1) 岩国を代表する景色,錦帯橋と岩国城です.

 そんな岩国の地にある岩国城は関が原の戦いの後,築城が始まり慶長十三年(1608年)に完成しています.錦川の南,横山の山頂に天守が,山麓に政庁となる館が作られました.しかし元和元年(1615年)に幕府から出された一国一城令によって破却されてしまいました(長州藩は周防・長門の二カ国だから岩国城を破却する必要はなかったとも言われる).結局岩国城が存在したのはわずか8年間ということになります.

Iwakuni2 (写真2) 横山にそびえる復興天守

 江戸時代から各種産業が盛んで,毛利本家より豊かだったともいわれる岩国でしたが,明治維新の廃藩置県後は山口県に編入され今日に至っています.かつての岩国城跡には現在天守閣が再建され,麓の錦帯橋とともに当地を代表する観光名所として多くの観光客を集めています.

Iwakuni4(写真3) かつての政庁があった場所に立つ錦雲閣

 岩国といえば錦川から眺めた錦帯橋と天守のイメージが強烈ですが,錦帯橋ができたのは17世紀後半でこのときすでに岩国城は廃城となっていましたから,当時はこのような光景は見られなかったはずです.また岩国城の天守自体も本来は今よりも後方(錦帯橋の反対側)に位置していたことがわかっています(現在の場所に再建されたのは,純粋に景観を優先したためらしい).

Iwakuni3 Iwakuni5 (写真左) 本来天守が建っていた天守台,(同右) 岩国のもう一つの名物(?)白蛇です.

岩国城へのアクセス: JR岩国駅からバスで15分程度(15分おきくらいで運行),新幹線の新岩国駅からは約10分です.広島市のバスセンターから高速バスで直接来ることもできます(約1時間). 

 スタンプの設置場所 天守閣1階にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ロープウェイを使って楽に城郭へ登ることができます.

74iwakunijo 登城日 2008年10月5日

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2009年1月 5日 (月)

日本100名城スタンプラリー39

 日本100名城 津和野城(66番)

 島根県の西の端,中国山地の盆地に位置する津和野は,全国各地にある”小京都”と呼ばれる街の代表的存在です.この地が観光地として有名になったのは,1970年代のいわゆる”アンノン族”と呼ばれた,当時20代だった女性の個人旅行客が大挙して訪れた頃からです.

Tsuwano7 (写真1) 津和野は鯉がよく似合う街です

 とはいえ津和野自体はそれ以前から存在していて,その歴史は鎌倉時代に遡ります.二度目の元寇(弘安の役)の直後,日本海の沿岸警備の目的で派遣された吉見氏によってこの地に城が築かれました.

Tsuwano6 (写真2) しっとりとした津和野の街並み

 以来津和野の地は吉見氏の支配するところとなりました.戦国時代になると吉見氏は当初は中国地方で大きな勢力を誇った大内氏の,ついでそれに取って代わった毛利氏の支配下に入りました.しかし関が原の戦いの結果,毛利氏が萩に移るとともにこの地を去り,以後は徳川幕府によって坂崎氏,元和年間には亀井氏が封じられ津和野藩として江戸時代を送ることになります.

Tsuwano3 (写真3) 本丸の石垣です 

 津和野城は津和野盆地の南西部の山に築かれた山城です.江戸時代はじめ坂崎氏の時代に出丸や天守が作られましたが,貞享三年(1686年)落雷で消失,以後再建されることはありませんでした.藩庁も太平の時代には山上ではなく山麓に置かれていたようです.

Tsuwano5 (写真4) 山の中に多くの石垣が遺されており,まさに荒城といった趣です

 明治維新後廃城となりましたが,その間には長崎から送られてきた153人の隠れキリシタンの悲劇などのエピソードでも知られています.

 現在は先述のように山陰の小京都として,多くの観光客でにぎわっています.津和野城へは津和野駅前からレンタサイクル,ロープウェイを利用しての登城が便利です.

 津和野城下を走るSL山口号です(手振れがひどくて申し訳ございません).

 津和野城へのアクセス: JR津和野駅からレンタサイクルがお勧めです(荷物も預けられます).レンタサイクルで10分ほどでロープウェイ乗り場へ,そこから5分で城郭です.

 スタンプの設置場所 ロープウェイの券売所にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ロープウェイを使って楽に城郭へ登ることができます.

66tsuwanojo 登城日 2008年10月4日

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2008年12月29日 (月)

日本100名城スタンプラリー38

 日本100名城 萩城(75番)

 おそらくは今年最後になると思われる100名城シリーズ,最後を飾るのは,なんと敵国(?)長州藩の本拠萩城です.

Hagi1 (写真1) 萩城跡,左端に見えるのが天守台です.

 長州藩毛利家は戦国時代には安芸の国人領主に過ぎませんでしたが,毛利元就一代で勢力を大きく伸ばします.弘治元年(1555年)には主家筋の山口大内氏を乗っ取った陶晴賢を討ち,さらに永禄九年(1566年)には山陰地方に大きな勢力を誇っていた尼子氏を滅ぼしてその領土を編入しました.その結果戦国時代末期には中国地方に120万石を領有する大大名になったのです.

Hagi2 (写真2) 在りし日の萩城天守(古写真より)

 しかし元就の死後,信長→秀吉→家康と動く中央政界への対応を誤り,関が原の戦いでは当主の輝元が名目上とはいえ西軍の総大将だったことから,戦後周防長門36万石に減封されてしまいました.このとき以降毛利家の居城となったのが山陰の萩で,阿武川が松本川と橋本川に分かれて形成された三角州の上にできた街です.

Hagi4 (写真3) 城の対岸には白砂の菊ヶ浜が広がります.

 この三角州の北西端にそびえる指月山に萩城があります.山の麓に本丸・二ノ丸・三ノ丸が広がる他に,指月山の山頂に詰ノ丸が築かれているのが特徴的です.この城郭は平山城に分類されていますが,麓部分と山頂部分とのギャップが激しいため2つの城が同居していると考えている人もいるようです.

Hagi3 (写真4) 詰ノ丸に残る石垣

 江戸時代を通じて長州藩の本拠地でしたが,幕末の文久三年(1863年)に山口に山口政事堂が造られ藩庁がそこに移されたため,以来藩の中心としての萩の役目は終了しました.

 明治維新後の明治7年に廃城となり天守や櫓などの構造物は破壊されてしまいました.現在は古風な街並みが残る萩の町の一画にひっそりと公園として佇んでいます.

 萩城へのアクセス: 町の中心部にある萩バスセンターから市内循環まぁーるバス(晋作くん)にて15分程度(時刻表).またはJR東萩駅からレンタサイクルで15~20分程度.

 スタンプの設置場所 入口の券売所にあります.

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 詰ノ丸まで行くならそれなりに山歩きになります(麓だけなら楽に散策できます).

75hagijo 登城日 2008年10月4日

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2008年12月25日 (木)

日本100名城スタンプラリー37

日本100名城 彦根城(50番)

 江戸時代の幕藩体制において全国の大名は ①親藩,②譜代,③外様 に分類されました.このうち親藩は徳川家康一門の大名で,特に徳川宗家の血統が絶えた際,代わって将軍を出す格式をもった家が御三家と呼ばれました.それ以外の親藩は基本的に松平姓です.譜代大名は三河以来といわれる徳川家の古くからの家臣筋,外様は関ヶ原の戦い前後から臣従した旧豊臣系の大名です.

Hikone2_2 (写真1) 国宝に指定されている彦根城の天守

 家康の作った幕藩体制の優れた点はその大名統制にあるといえます.その原則は権力と軍事力の分離です.すなわち裏切る可能性がある外様大名には大きな領土を与えて恩を売る代わりに江戸から離れた場所に配置し,一切政治にはタッチさせませんでした.鹿児島の島津(77万石),金沢の前田(100万石),仙台の伊達(62万石)などです.その一方幕府の政治中枢には信頼できる譜代大名を当てるかわりに,彼らには大きな領地は与えませんでした.譜代大名はほとんどが10万石未満の小藩ばかりです.

Hikone1 (写真2) 天秤櫓です

 そんな譜代大名の中で唯一の例外といえるのが,近江彦根藩の井伊家35万石です.井伊家はもとは遠江の井伊谷を治めていた土豪と言われていますが,井伊直政の代に徳川家康の家臣となりその下で活躍,後には徳川四天王などと呼ばれた家柄です.この井伊家の居城となったのが彦根城というわけです.

Hikone3

(写真3) 城郭には石垣などがよく保存されています

 彦根の地は中山道と北国街道が分岐する交通の要衝です.特に江戸に幕府を開いた徳川家にとって西国の抑えとしてこの地は極めて重要です.そんな土地に封じられたという事実から井伊家がいかに幕府から信頼されていたかがわかります.

Hikone4 (写真4) 幕末の大老井伊直弼が青年期を過ごした埋木舎

 現存する彦根城は関が原の戦い後に建築が始まりました.完成したのは元和八年(1622年)とされていますから,約20年の歳月を費やしたわけです.

Hikone5 (写真5) そして彦根城と言えば忘れてはいけないキャラ,ひこにゃんです.

 以来彦根藩の居城として存在し,幕末には有名な大老井伊直弼を輩出しています.明治維新後廃城となりましたが他の城郭と異なり破却を免れ,国宝に指定されている天守以下数多くの建造物が現在に至るまで遺されています.2007年には築城400年の記念イベントが行われました.

 彦根城へのアクセス: JR彦根駅から徒歩10分ほどです.駅から天守が見えるので方向を間違えることはないと思います.

 スタンプの設置場所 表門の券売所にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 気軽に散策できます.

50hikonejo 登城日2008年8月24日

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2008年12月15日 (月)

日本100名城スタンプラリー36

 日本100名城 犬山城(43番)

 岐阜県と愛知県の境ともなっている木曾川,この川の愛知県側に今回のテーマ,犬山城が建っています.

Inuyama1 (写真1) 遠くから見える天守が素晴らしいです

 日本には数多くの城郭がありますが,それらのうち国宝に指定されているのは4城で犬山城もその一つです(後は東から松本城,彦根城,姫路城).

 ここの城の最大の魅力はやはり国宝に指定されている天守で,現存12天守中最古のものと言われています.すなわち三層四階の天守の基礎部分が作られたのはなんと戦国時代だそうですから驚きです.このお城は別名白帝城とも呼ばれますが,これはもちろん三国志の英雄劉備玄徳の臨終の地である白帝城にちなんだものです(白帝城と長江の関係を犬山城と木曽川の関係に見立てたもの).

Inuyama2 (写真2) 近くから見た天守

 犬山城を築いたのは織田信長の叔父にあたる織田信康で天文六年(1537年)のことです.後に天下の覇者となる織田家もこのころはまだ一族内の争いもあって,尾張の一豪族に過ぎませんでした.天文十三年に斉藤道三との戦いで信康が戦死し,子の信清が後を継ぎますが,永禄七年(1564年)に織田信長に攻められて,以後は信長傘下の城となります.尾張と美濃の国境にある重要地点であり,織田豊臣政権下では城主が目まぐるしく代わりました(池田恒興,武田清利,土方雄久など).

Inuyama4 (写真3) 天守から見た木曽川と市街地です

 江戸時代になり大阪の陣が終わった元和三年(1617年)以後は尾張藩家老の成瀬氏が城主となり,そのまま幕末に至りました.明治維新で廃城となりましたが,天守を含む城郭はそのまま存続しました.明治以後も成瀬氏の所有する城郭となっていましたが,平成十六年(2004年)4月に財団法人犬山城白帝文庫に移管され現在に至っています.

Inuyama3 (写真4) 登郭道

 現在は犬山市を代表する観光地として賑わいを見せています.遺構としては現存天守の他,野面積みの石垣などが良い状態で保存されています.

Inuyama5(写真5) 天守に向かう櫓門,ここの上部分にスタンプがあります.

 犬山城へのアクセス: 名鉄犬山線犬山遊園駅から徒歩12分ほど.JRの場合は高山本線鵜沼駅から徒歩30分程度になります(タクシーなら1000円くらい).

 スタンプの設置場所 天守に向かう櫓門の上にある管理センターにあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 気軽に散策できます.

43inuyamajo 登城日2008年8月24日

 

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2008年12月 7日 (日)

日本100名城スタンプラリー35

 日本100名城 岐阜城(39番)

 岐阜城のある岐阜市は岐阜県の県庁所在地ですが,近くに名古屋市という巨大都市があるせいかなんとなく地味な印象があります(京都市と大津市の関係に似ているか?).

Gifu3 (写真1) 下界からはこの天守がよく見えます.

 しかし戦国時代末期,織田信長が天下布武を掲げた頃には名古屋は存在せず(名古屋の町が作られたのは江戸時代になってからである),岐阜がこの地域の重要拠点でした.この地を岐阜と名付けたのは織田信長で,それ以前は井口と呼ばれていたようです.

Gifu1 (写真2) ロープウェイを降りて歩いて行くと天守に至る階段が見えてきます.

 この地が歴史の表舞台に登場するのは何と言っても戦国大名斉藤道三の時代からで,当時は稲葉山城と呼ばれていました.彼は自分の娘濃姫を嫁がせるなど,信長を高く評価していたようです.しかし弘治二年(1556年)に自分の息子義龍と争って敗死,以後織田・斉藤の抗争が始まります.ただ斉藤義龍は政治家・軍略家として優れた人物であり,彼の存命中は信長もうかつに手が出せませんでした.転機が訪れたのは永禄四年(1561年)で義龍が急死したのです.跡を継いだ龍興は14歳と若く,しかも父や祖父に比べるとはるかに凡庸な人物だったようです.これがためたちまち家中が分裂し,そこを信長に突かれ,有力な家臣だった竹中重治(半兵衛)や稲葉一鉄の寝返りなどによって,永禄十年(1567年)に伊勢長島に追放され,この地は信長のものになりました.これ以降稲葉山城は岐阜城と名を替え,信長の天下布武の居城となったのです.

Gifu5 (写真3) 本丸の井戸.山頂の城ですから水の確保は死活問題です.

 岐阜城は長良川沿いにそびえる金華山の山頂に築かれた典型的な山城です.元来戦いのための城といった趣で,その一方交通は不便です.これがため信長は山のふもとに御殿を建ててそこで政務をとっていたようです.

Gifu2 (写真4) 山頂からは長良川と岐阜市街が一望できます.

 天正七年(1579年)に安土城が完成すると信長はそちらに移り,以後は信長の嫡男の信忠,本能寺の変以後の池田元助,織田秀信らが入りましたが,関ヶ原の戦いの後,徳川家康によって廃城とされています.

 現在は岐阜公園として整備されています.山城ですがロープウェイがあるため楽に登城できます.麓からは壮麗な天守が見えますが,当時このような建物があったかは不明であり,いわゆる観光用の模擬天守に属します.当時の遺構としては石垣や土塁などが遺されています.

 岐阜城へのアクセス: JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バスで15分程度,岐阜公園歴史博物館前下車.運行経路・本数ともかなりあります(岐阜バス).

 スタンプの設置場所 天守から徒歩数分,ひっそりと建つ岐阜城資料館にあります(入場券は天守で購入).

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ロープウェイを使えば気軽に散策できます(使わなければ…).

39gifujo 登城日 2008年8月24日

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2008年12月 4日 (木)

100名城のスタンプ帳

 現在ハマッテいる日本100名城スタンプラリー,使っているスタンプ帳は学研から出ている日本100名城公式ガイドブックの付録についてきたものです.

Stamp2 (写真1) 公式ガイドブックの付録のスタンプ帳

 しかし100名城のスタンプ帳には別な種類があります.それが日本城郭協会が発行したスタンプ帳です.大きさは付録のものと変わりませんが,スタンプを押す欄の他に各城郭の説明や写真が入るなど内容がはるかに充実しているのです.実はこれ,スタンプラリーが始まった2007年6月に全国100城に置かれた非売品なのです.それぞれの城郭を訪問した人に配っていたもので,当然配り終えればなくなってしまいます.

Stamp1 (写真2) こちらが城郭協会版のスタンプ帳です.この他に各地方版もあります.

 私が城廻りを始めた今年の5月は,ラリーが開始されてほぼ1年が経過していたため,主だった城郭には既になく,ほとんど諦めていました.

 しかし,地方のマイナーな城郭にはまだ残っているらしいというウワサを聞き,恐らくは100名城でマイナー度ナンバー1であろう,根室半島チャシ跡群にならこのスタンプ帳が残っているんじゃないかと期待して行ってきました.

 そしたら,ありました.ついに念願のスタンプ帳ゲットです.

 スタンプ帳をゲットして思ったんですが,このスタンプ帳にスタンプを埋めるためには,付録版のスタンプ帳にせっせと押してきた40以上の城郭に再び行かなくてはなりません.めまいがします(笑).まぁしばらくは2種類のスタンプ帳を持って,まだ行っていない城郭を優先的に回ることにします(機会があればそれ以外にも).

Nakami (写真3) これがスタンプ帳の中身です.見開き3ページに6つの城郭があり,解説と写真も載っており,ちょっとしたガイドブックのようです.

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2008年11月30日 (日)

日本100名城スタンプラリー34

 日本100名城 岡崎城(45番)

 愛知県は織田信長,豊臣秀吉,徳川家康のいわゆる天下人三人の出身地です.さらに岡崎市は江戸幕府を開いた徳川家康生誕の地です.それゆえここに来るととにもかくにも家康家康家康なんですが,そんな家康ワールドの中心に位置するのが岡崎城です.

Okazaki1 (写真1) 岡崎公園入り口の大手門です(もちろん復元です).

 岡崎城は15世紀半ばに当地の守護代だった西郷氏が築城したとされています.戦国時代に入って享禄四年(1531年)に松平氏が城主となります.しかし天文十八年(1549年)に松平清康が暗殺されるとこの地は駿河の今川氏の勢力下に入ります.この時今川氏のもとに人質として出されたのが清康の孫の竹千代,後の徳川家康です.

Okazaki2 (写真2) 再建された天守です.

 その後永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで今川氏が没落すると松平氏はその支配を離れ,以後家康は織田信長の同盟者(とはいえ力関係からすれば家臣同様ではありますが)としての道を歩んでいきます.岡崎城も家康の本城となりましたが,元亀元年(1570年)に家康が本拠を浜松に移し,さらに豊臣政権下で関東に移封されると以後は豊臣系の大名の城となります.この時期に近世風の城郭になったようです.

Okazaki3 (写真3) 石垣,空堀に当時の姿が偲ばれます.

 関ヶ原の戦い,そして江戸幕府開府後の岡崎城は,家康誕生の地という意味合いもあってか譜代大名の所領となり老中など幕府の要職に就く人物が多くでたようです.

Okazaki4 (写真4) 家康が産湯をつかった井戸だそうです.

 明治維新後廃城となり天守など城の建築物はことごとく破壊されましたが,堀や石垣などの遺構は遺されており,現在は岡崎公園として整備され昭和三十四年(1959年)には天守も再建されています.

 岡崎城へのアクセス: 名鉄東岡崎駅下車徒歩10分程度です.JR岡崎駅からは愛知環状鉄道に乗り換えて2つ目中岡崎駅下車徒歩10分です.

 スタンプの設置場所 天守の受付にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 気軽に散策できます.

45okazakijo 登城日 2008年8月23日

 

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2008年11月15日 (土)

日本100名城スタンプラリー33

 日本100名城 長篠城(46番)

 戦国時代には数多くの合戦が行われていますが,武田氏没落の要因のひとつとなった「長篠の戦」は非常に有名です.通説では織田・徳川連合軍が当時新兵器だった鉄砲三千丁を三段撃ちして,武田の騎馬隊を撃破したと言われていますが(黒沢明監督の映画「影武者」が有名),最近では異論もあるようです.

Nagashino4 (写真1) 牛渕橋からの城の全景,いかに難攻不落であるかわかります.

 そんな長篠の戦ですが,戦いのきっかけとなったのが天正三年(1575年)の武田勝頼による長篠城包囲です(実際の主戦場となったのはここから3~4km西の設楽原).

 長篠城は16世紀の初めに菅原元成によって築かれ,一時武田氏の勢力下におかれましたが天正元年(1573年)に徳川家康に攻められ,以後は家康側の城となります.この時に今に残る城構えが作られたといわれます.

Nagashino2 Nagashino3

(写真左) 土塁の遺構,(同右) 石垣の遺構

 豊川と宇連川という二つの川を天然の堀とし,その合流地点の断崖上に本丸が築かれています.実際に行って見ると,川を越えて攻めるのは(近代以降のように大型の大砲が別ですが)極めて困難な難攻不落の城であることがわかります.天正三年にもわずか500人の城兵で15,000人の武田軍の攻撃をしのぎ切っているほどです.

Nagashino5 (写真4) 武田軍に捕らえられながらも,援軍がすぐそこまでやって来ていることを城兵に告げ磔にされた鳥居強右衛門の墓です.

 そんな長篠城ですが,この戦いで大きな損傷を受けたことから戦後廃城となっています.現在は土塁,空堀,石垣の一部などが遺構として残っています.特に対岸の牛渕橋からは城の全体像が確認できて圧巻です.

 長篠城へのアクセス: JR飯田線長篠城駅下車,駅前から左に向かいすぐに本丸があります.

 スタンプの設置場所 本丸跡の長篠城址史蹟保存館の受付にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の気軽に散策できます.

46nagashinojo 登城日 2008年8月23日

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2008年11月 7日 (金)

日本100名城スタンプラリー32

 日本100名城 掛川城(42番)

 現在の静岡県は旧国名では大井川を挟んで西が遠江,東が駿河になります.その遠江側にある100名城が本日のテーマ掛川城です.

Kakegawa1 (写真1) 復元された天守です

 掛川城といえば「功名が辻」で知られる山内一豊とその妻千代が有名で,豊臣政権下の天正十八年(1590年)に5万石の大名としてこの地に封じられています.彼の時代に天守の建築や城下町の整備が行われたといわれています.

Kakegawa5 (写真2) 大手門(再建)です

 関ヶ原の戦いの後,一豊は20万石に加増され土佐に移り掛川を去りました.元来掛川は東海道という極めて重要な街道筋に位置する城であるため,江戸時代になるとこの城には譜代大名が置かれるようになりました.しかし佐倉城などと同様重要地点であるがゆえか,当初は藩主の交代が激しく,江戸開府から18世紀半ばまでなんと12家が入れ替わり立ち替わりこの城に入っており,これがためなかなか藩政が安定しない状態が続いていたようです.しかし延享三年(1746年)に太田資俊が5万石で入るとようやく藩政が安定し,そのまま幕末に至ります.ただ安政年間にこの地を襲った大地震のために天守や御殿など城の建物は大きな被害を受けました.その後文久年間に御殿は再建されましたが天守が再建されることはなく,明治維新後廃城となっています.

Kakegawa4 (写真3) 重要文化財の二ノ丸御殿です

 現在掛川城は掛川市観光の中心として整備されています.最大の見どころは文久年間に再建された二の丸御殿で,国の重要文化財に指定されています.その他本丸にある太鼓櫓や石垣なども当時のもののようです.一方幕末に倒壊した天守は20世紀末の平成六年(1994年)に木造で復元され,以来こちらの方が掛川城のシンボル的存在になっています.

Kakegawa2 (写真4) こちらも現存の太鼓櫓です

 私が掛川城に登城したのは2008年8月23日でしたが,ちょうど二の丸御殿を見学していた所係員の方がやって来て,「実は城内にある二ノ丸美術館の入場者数が間もなく50万人になるので,今行くといいことがあるかもしれませんよ」と言われたのでした.これは面白そうとさっそく行ってみたんですが,なんと私は晴れて500,001人目の入場者でした(笑).500,000人目の方は東京からいらした方で,なんでも京都の友人とのウン十年ぶりの再会のためにこの掛川で落ち合ったという劇的な方でした.美術館前では市長も参加して50万人記念式典が厳かに執り行われました(掛川市のHP 左端にちらっと腕だけ写っているのが私です).

 ジャストではなく絶妙に前後賞に当たるところが自分らしくていいなと思い城を後にしました(記念品として静岡のお茶をいただきました).

 掛川城へのアクセス JR掛川駅から北に向かって徒歩10分程度です.迷うことはないと思います.

 スタンプの設置場所 二ノ丸御殿の受付にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.

42kakegawajo 登城日 2008年8月23日 

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2008年11月 4日 (火)

日本100名城スタンプラリー31

 日本100名城 駿府城(41番)

 さて青春18きっぷの使用期限が迫ってきた8月末,東海道線沿線の100名城を廻ろうと土曜日の朝一の東海道線下り普通列車に乗って出かけました.まず目指したのは静岡市にある駿府城です.

P8230014 (写真1) 駿府公園内に建つ徳川家康の像

 静岡市のある静岡県東部は駿河国と呼ばれ戦国時代には今川氏が支配する土地でした.しかし永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いを契機に今川氏が滅ぶと西から徳川家康,北から武田信玄が侵入しそれらの勢力下にはいりました.武田氏滅亡後は家康の支配になりますが,豊臣政権になると家康は北条氏の後釜として関東に移封,代わって秀吉恩顧の大名(中村一氏)が入ります.江戸開府後の慶長十二年(1607年)には将軍職を秀忠に譲った家康が大御所として再びこの地に入り,元和二年(1616年)にこの地で没しています.

P8230036 (写真2) 復元された巽櫓

 江戸時代初期には家康の十男頼宣や秀忠の次男忠長などの将軍に近い親藩がこの城に入りましたが,寛永八年(1631年)に忠長が兄である将軍家光に追放されたのちは幕府の直轄地(天領)となり幕末に至ります.明治元年には大政奉還からの一連の流れで隠居した徳川慶喜の後継として徳川家達が駿府藩主として来ています.

P8230011 (写真3) こちらも復元の櫓門です.

 しかしその後の廃藩置県によって廃城となり,明治以後は陸軍歩兵34連隊の駐屯地となったため,城の建物はことごとく失われ,本丸の堀も埋められてしまいました.

P8230013 (写真4) 本丸に復元された水路です.石垣は当時のもののようです. 

 近年は駿府公園として整備され,巽櫓や東御門などの復元も行われ往年の姿をしのばせています.また埋められた本丸の堀(?)も一部復元されているようで,水路となっています.ここの石垣は当時のもののようです.

 駿府城へのアクセス: JR静岡駅から徒歩10分程度です.

 スタンプの設置場所 駿府公園内の巽櫓・門の受付にあります.係員に言うと出してくれます(受付は9時からですが,8時50分にいっても大丈夫でした)

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.

41sunpujo 登城日 2008年8月23日

 

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2008年10月21日 (火)

日本100名城スタンプラリー30

 日本100名城 佐倉城(20番)

 千葉県北部にあたる下総の国は江戸時代はじめには江戸を守る東の拠点として重視され,老中など幕府の要職に就く人物が封じられました.このため藩主の入れ替わりが激しく,江戸開府の慶長八年(1603年)からの100年間に,この地に封じられた大名家は松平家,小笠原家,土井家など9家に上ります(ほぼ10年に1回の割合で国替えがあった計算になる).この中でも江戸時代初期に大老として2代将軍秀忠,3代将軍家光を支え,幕藩体制の基礎を確立した土井利勝は特に有名です(彼の時代に佐倉城のメインが築かれました).

Sakura1 (写真1) 佐倉城址公園の案内図

 江戸時代中期以降太平の世の中になると,当初の防衛の意味は薄れたのか,延享三年(1746年)に堀田氏が入った後は国替えは行われず幕末に至ります.幕末期に阿部正弘とともに老中として困難な政局にあたったのが堀田正睦で,5代目の藩主になります.

Sakura3 (写真2) 堀です

 関東地方の多くの譜代大名の城と同様,佐倉城にも壮麗な天守や高石垣などは築かれず,地味な造りとなっています.明治維新後廃城となり,現在は佐倉城址公園となっています.明治以後跡地は陸軍歩兵第75連隊の駐屯地となり,当時の建造物はほとんど失われてしまいましたが,園内には堀や土塁などの遺構を見ることができます.

Sakura4 (写真3) 本丸の土塁と天守台です.天守はなく三階櫓が建っていたそうです.

Sakura2 (写真4) 姥が池です.昔乳母が若君を池のそばで遊ばせていて誤って溺れさせてしまったという話がある場所だそうです.

 佐倉城へのアクセス: JR佐倉駅・京成佐倉駅から徒歩20分程度.タクシーなら10分かからないと思います.バス利用の際は歴史民俗博物館または国立博物館下車となります.時刻表は 歴史民俗博物館交通案内 に出ています.

スタンプの設置場所 園内には歴史民俗博物館という立派な建物がありますが,スタンプの場所はここではなく,公園のはずれ佐倉中学校・佐倉東高校そばにある佐倉城址公園管理センターという地味な建物に置いてあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 結構広いですが散策には苦労しないと思います.

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登城日 2008年8月16日

 これにて東北・関東・甲信越全29城制覇です.

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2008年10月14日 (火)

日本100名城スタンプラリー29

 日本100名城 水戸城(14番)

 水戸は現在は茨城県の県庁所在地であり,江戸時代には御三家のひとつ水戸徳川家の土地でした(水戸藩).水戸藩の開祖は徳川家康の十一男徳川頼房で二代目が水戸黄門で有名な光圀です.

Mito3 (写真1) 三の丸に残る藩校弘道館です.

 水戸藩は表高35万石と御三家の中でも最小でしたが,実高は30万石未満とさらに少なくその一方御三家ということで格式だけは高かったため出費の方は多く,常に財政難に苦しんだ藩でした.幕末のオピニオンリーダーとなった藤田東湖の息子の藤田小四郎も,「子供の頃大根一切れもらうのに,頭を下げなければならなかったのが一番辛かった」と言っているほどです(図説幕末・維新おもしろ事典 三笠書房より引用).

Mito4 (写真2) 弘道館内にのこる尊攘の文字

 水戸藩は学問がさかんな藩で,光圀が編纂を始めた大日本史をはじめとする水戸学は幕末の尊皇攘夷思想の理論的支柱となり,また九代藩主の徳川斉昭は藩校である弘道館を作りました.

Mito1 (写真3) 現水戸一高に残る薬医門です.現役の高校生がこの門をくぐって入って行きました(羨ましい 笑).

 そんな水戸藩の居城だったのが水戸城で今の水戸市の中心部,JR水戸駅の北側にあたります.再開発によって当時を偲ぶものは多くはありませんが,先にあげた弘道館のほか空堀や土塁などの遺構が随所に残されています.特に本丸に立つ茨城県立水戸第一高等学校の入り口にある薬医門は貴重な当時を偲ぶ建築物となっています(明治以後,三階櫓も現存していましたが昭和20年の戦災で焼失してしまいました).

Mito2 (写真4) 警察署の脇にある空堀の遺構です.

 幕末になると水戸藩は藩主斉昭や藤田東湖などの優れた思想家の登場によって,尊王攘夷運動の魁となりました.しかし天狗党と書生党による血で血を洗う内部抗争に陥り,有為の士を多数失い,結局明治新政府で活躍する人材を排出することはできませんでした.

 スタンプの設置場所 弘道館の受付にあります(言うと出してくれます).

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 遺構は散らばっていますが比較的楽に見て歩くことができます.

14mitojo 登城日 2008年8月10日

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2008年10月10日 (金)

日本100名城スタンプラリー28

 日本100名城 金山城(17番)

 今の群馬県にあたる上州の地は戦国時代,上杉・武田・北条といった強力な戦国大名の勢力が拮抗していた土地でした.このためこの地にある小勢力は生き残りのために非常に苦労したようです.

Kanayama1 (写真1) 金山城

 群馬県太田市にある金山城もそうした小勢力の城でした.金山城が位置するのは太田市中心部からちょっと外れた標高236メートルの新田金山の山頂です.新田(にった)とあるように新田義貞と関係がある土地で,文明元年(1469年)に金山城を築いた岩松家純も新田氏の流れです(金山城築城は新田義貞であるという説もあるようです).山全体が城という感じで非常に堅固な城というイメージです.

Kanayama2 (写真2) これは復元された石垣のようです(中世の石垣がこんなに整備されているとは思えません)

 金山城は戦国時代横瀬氏の支配となり,この間上杉謙信や武田信玄などの攻撃をたびたび受けましたが,侵入を許すことはなく,ことごとく撃退に成功しています.しかし天正十二年(1584年)に北条氏政の謀略によって城主の横瀬国繁が幽閉され金山城は開城となり北条氏の勢力化に入ります.その後豊臣秀吉の小田原遠征によって落城,廃城となりました.

Kanayama3 (写真3) 復元の日の池

 現在は国の史跡に指定,発掘調査も行われています.中世城郭ゆえ建物は残っていませんが,石垣や土塁,堀などの遺構があり,また日の池・月の池などが復元されています.私が登城した8月9日は当初晴天でしたが登城中曇り始め,しかも雷まで鳴り出したため慌てて下山しました.

Kanayama4 (写真4) 金山城内には新田氏を祭る新田神社もあります.

 金山城へのアクセス: 東武伊勢崎線太田駅から徒歩40分くらい(タクシーなら10分程度).バスなどの公共交通機関はありません.車なら城跡の西側に駐車場があります.私は行きはタクシー帰りは徒歩でした.

 スタンプの設置場所 日の池近くの休憩所内に置いてあります(盗まれないか心配です).

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 道は整備されていますが山城なのでそれなりに歩きます.

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登城日 2008年8月9日

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2008年10月 4日 (土)

日本100名城スタンプラリー27

 日本100名城 足利氏館(15番)

 日本100名城のなかで「~城」という名称がつかない城が5か所あります.北海道の根室半島チャシ跡群,五稜郭,九州の吉野ヶ里,以前ここで紹介した山梨の武田氏館,そして今回のテーマ足利氏館です.

Ashikaga1 (写真1) 足利氏館の正面

 足利氏は言うまでもなく武家の名族で,もとは清和源氏の流れを汲み,鎌倉時代には有力な御家人でした.ただ源家将軍滅亡後幕府を牛耳っていた北条得宗家とはやや距離を置いていたようです.

 13世紀後半の二度の元寇の後,御家人の窮乏から国内が混乱に陥ると,政権を取り戻すことを画策していた後醍醐天皇が挙兵し,これに協力して倒幕実現に大きな貢献をした足利尊氏も足利氏の一族です. 足利氏の祖は八幡太郎源義家の三男源義国で,その子義康がこの地足利庄を領有し,以後足利姓を名乗ったとされています.そんな義康時代(12世紀半ば)に造られたのが,現栃木県足利市にある足利氏館で,現在は鑁阿寺となっています.

Ashikaga2 (写真2) 重要文化財の鐘楼

 もちろんここは戦いのための砦ではなく,また大大名が自らの権勢を誇る場所でもありませんから,深い堀や堅牢な石垣,壮麗な天守などはありませんが,四方にめぐらした土塁や堀,門などから中世の武士の館の面影が覗かれます.境内には本堂や鐘楼などの重要文化財が多数並んでいます.

Ashikaga3

(写真3) 周囲を堀が囲んでいます

 今はただのお寺であるこの足利氏館がはたして城なのかという議論はありますが,近世城郭だって為政者の住居としての側面が強いことを考えればこれも立派な城といえるのではないでしょうか.

 また近くには日本最古の総合大学といわれる足利学校もあります.ここは古くは平安時代から存在するとされる学問所で,室町時代の15世紀ごろから隆盛し,戦国時代に来日したフランシスコ・ザビエルも,「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と記述しています.

Ashikaga4 (写真4) 足利氏館の近くには足利学校があります.

 いわゆるお城のイメージとはかなり異なりますが,日本史の中でもイマイチマイナーな室町時代が関連する史跡として見るべき価値はあると思います.

 アクセス: JR両毛線足利駅から徒歩10分(案内標識あり),東武伊勢崎線足利市駅徒歩15分

 スタンプの設置場所 お寺の本堂の販売所に置いてあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 現在はただの歴史あるお寺です.

15asikagayakata 登城日 2008年8月9日

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2008年9月27日 (土)

日本100名城スタンプラリー26

 日本100名城 箕輪城(16番)

 100名城スタンプラリーも8月に入り,いよいよ青春18切符が活躍する季節になりました.というわけで,ここからしばらくは関東・東海編です.

Mino1 (写真1) 箕輪城の構内図

 箕輪城は群馬県高崎市の郊外にある平山城です.この城を築いたのは長野氏で,元は関東管領上杉氏の重臣でした.戦国時代に入り上杉氏が越後に去った後もこの地に残り,永正九年(1512年)に長野業尚によって造られました(大永六年(1526年)に長野憲業によるという説も).

 戦国時代後期にこの地は上杉・武田・北條の三大勢力のせめぎあう土地となりました.特に弘治三年(1557年)以降たびたび武田信玄の攻撃を受け,城は何度も危機に陥りましたが,城主長野業正以下結束して奮闘し,ことごとく撃退に成功しています.

Mino2 (写真2) 二ノ丸に建つ碑です

 しかし永禄四年(1561年)に業正が没すると武田の攻勢が再開され,ついに永禄九年(1566年)に箕輪城は落城となりました(このとき城主だった業正の子業盛は父の遺言に従い,城を枕に討ち死にしています).

 その後武田氏の滅亡後は信長傘下の滝川一益,ついで北條氏直の支配となり,徳川家康の関東入封後の慶長三年(1598年)に廃城となりました.この時最後の城主だったのが後に彦根藩主となる井伊直政です.

 現在箕輪城には一部の石垣や土塁,堀のあとなどが残されており,結構大規模な城であったことがわかります.

Mino4 Mino3

(写真左) 草に覆われていますが土塁の形跡がわかります.(同右) 三の丸に残る石垣です.

 箕輪城へのアクセスはJR高崎駅西口2番バス乗り場から群馬バスで30分,箕郷本町下車徒歩20分位です(1時間に2本ほど,ただし日に5~6本ある伊香保温泉行きに乗れた場合は城山入り口下車徒歩10分程度).

 バスの時刻表

 スタンプの設置場所 箕郷支所内にあります.土日祝祭日は裏口から入って当直の職員に声をかけると出してくれます(夕方5時半まで).

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 城内は結構広く,見て歩くとそれなりに大変です.

16minowajo 登城日 2008年8月9日

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2008年9月15日 (月)

日本100名城スタンプラリー25

 日本100名城 新発田城(31番)

 春日山城と並んで新潟県にある100名城が新発田城です.新発田市は新潟市から北に電車で40分くらい行ったところにあります.

Shibata3 (写真1) 江戸時代の遺構である表門です.非常に良い状態で残っています.国の重要文化財に指定されています.

 越後平野の北部にあたるこの地は室町時代ごろから代々新発田氏が支配する土地でした.最盛期には今の新潟市から三条市あたりまで勢力を伸ばしていたようです.

Shibata2 (写真2) 事実上の天守といえる三階櫓です.再建ではありますがその威容は見事です.

 戦国時代に入り春日山城を拠点とする上杉謙信の勢力が強まると16世紀半ばにはこれに臣従します.しかし謙信の没後,様々な不満と当時上杉領の攻略を進めていた織田信長の誘いに乗って反乱をおこします.当時の当主は新発田重家でしたが,彼は武将としてもすぐれており,上杉景勝は討伐に失敗してしまいます.しかし信長が死ぬと,豊臣秀吉は敵対勢力であった柴田勝家を倒すため,当時勝家と戦っていた上杉景勝に接近し,これと同盟を結びます.秀吉という強力な後ろ盾を得た景勝は再び新発田城攻略に着手し,ついに天正15年(1587年)に落城とあいなりました.この時景勝の重臣で来年の大河ドラマの主役の直江兼続も城攻めに活躍しています.

Shibata1 (写真3) こちらも現存建物である二ノ丸隅櫓です.

 新発田氏滅亡後は上杉氏の領土となっていましたが,慶長3年(1598年)に上杉景勝が国替で会津に去ると,代わって溝口秀勝が6万石で入封,彼は関ヶ原の戦いで東軍に味方したため家康から所領を安堵され,以来代々幕末に至るまで溝口家がこの地を治めることになったのでした.

 ちなみに現在に残る新発田城の遺構は溝口氏時代のものです.明治以後城の多くの建物が破却されましたが,本丸の表門と二の丸隅櫓は江戸時代の遺構であり,さらに辰巳櫓や三階櫓が再建されています.城跡の大部分は陸上自衛隊の駐屯地になっており,表門を中心とした一部が公園となっています.

Shibata4 (写真4) 城の向かいには「安兵衛茶屋」が,実は赤穂浪士で有名な堀部安兵衛はここ新発田の出身です.

 ちなみに三階櫓は実質天守といえる威容を誇っていますが,陸上自衛隊の敷地内に建っているため残念ながら内部の見学はできません.

 スタンプの設置場所 新発田城址公園の受付にあります(新発田駅から城跡まで徒歩20分くらいです).

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 城の外を回って歩いてもそれほど時間がかかりません.

31shibatajo 登城日 2008年7月21日

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2008年9月 8日 (月)

日本100名城スタンプラリー24

 日本100名城 春日山城(32番)

 戦国時代を代表する武将である上杉謙信,彼の居城だったのが春日山城です.

 上杉謙信といえば戦上手として知られています.生涯に数多くの合戦を戦い,そのほとんどに勝利したといわれています.居城である春日山城も難攻不落の城といわれますが,実は彼の生前外敵に攻められたことは一度もなく,生涯にわたって常に攻勢をとり続けていたことになります.

Kasugayama1 (写真1) 春日山城に建つ上杉謙信の像

 そんな謙信ですが,また義に厚い武将としても知られています.彼の戦は自分の領土を広げる戦というのはあまりなく,もっぱら他国の侵略に脅かされる小国の援助という面が強いからです.有名な川中島の合戦にしても,武田信玄の侵略に悩む信濃の土豪への援軍という感じです.

Kasugayama2 (写真2) 本丸です

 謙信の元の名は長尾景虎ですが,長尾氏は越後の守護代でした.主家の上杉氏は代々関東管領の家柄です.管領とは将軍の補佐役で,鎌倉幕府の執権,江戸幕府の老中にあたります.関東管領は京都にいる室町将軍の代わりに東国の御家人を統率する鎌倉公方の補佐役ということになります.しかし戦国時代に入ると関東は北条氏の勢力が強くなり,関東管領の上杉氏は没落していきます.こんな1561年に長尾景虎は請われて上杉氏の家督と関東管領の職を引き継ぎ,上杉輝虎(謙信)となりました.

Kasugayama3 Kasugayama4

(写真左) 大手道入り口 (同右) ふもとの林泉寺に残されている門です.春日山城の門だったといわれています.

 関東管領の職務とは東国の秩序を守ることですから,謙信が関東での北条氏,信濃での武田氏の勢力拡大に干渉戦争をしかけたのも職務に従っただけともいえるかもしれません.

 上杉謙信の生涯はまさに戦の連続でしたが,その一方内政にも手腕を発揮し,日本海交易や地場産業の振興などで領国の経済を大いに高めたといわれます.武田信玄亡き後,台頭する織田信長に対抗しうる唯一の存在でしたが,1578年の春に突然死去します.死因は脳卒中といわれています.

 春日山城は現在の新潟県上越市の大きな2つの中心である直江津と高田の中間にあります.

 スタンプの設置場所 春日山城ふもとのものがたり館にあります(春日山神社から徒歩で20分くらいです).

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 道は整備されていますが,ちょっとした山歩きの様相です.

32kasugayamajo 登城日 2008年7月21日

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2008年9月 3日 (水)

日本100名城スタンプラリー23

 日本100名城 小諸城(28番)

 長野県は100名城に選定された城が5つもあるんですが,その最後を飾るのがこの小諸城です.

Komoro5 (写真1) 三の丸門(懐古門)

 小諸は信濃の東に位置し中山道の信濃追分から分岐した北国街道の最初の宿場があるところです.小諸城を築いたのは武田信玄で,その縄張りは山本勘助によるといわれます.

 江戸時代には当初仙石氏,その後松平氏,酒井氏,青山氏など頻繁に領主が交代しましたが,元禄15年(1702年)に牧野氏が1万5000石で入封し以来幕末まで続きます.

Komoro4 (写真2) こちらが大手門です

 小諸城の特徴は城下町よりも城の方が低地にあるということです(穴城といいます).実際に大手門と三の丸門を比較すると,大手門の方が高い場所にあります.

 城跡は現在懐古園という公園として整備されており,気軽に探索できるようになっています.遺構は建造物としては大手門(懐古園から線路を挟んで反対側になります),三の丸門が,その他天守台などの石垣も良く残っています.夏の暑い日に登城しましたが,ちょうど雨が降り出し,しかも雷鳴が聞こえてきたため天守台に登るのはあきらめました.

Komoro1 Komoro2

(写真左) 黒門橋,(同右) 天守台の石垣

 スタンプの設置場所 三の丸門近くの懐古館内の事務所にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園です.

28komorojo

登城日 2008年7月13日

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2008年8月28日 (木)

日本100名城スタンプラリー22

 日本100名城 上田城(27番)

 上田城は戦国時代から江戸時代にかけての城郭です.戦国時代には真田昌幸・信繁(幸村)親子で有名な真田氏の居城でした.

 真田氏は元々信濃の豪族でしたが,信濃を統一した武田氏の家臣となります.武田氏滅亡後は一時徳川家康や北条氏直に付きましたが,後に決別して上杉景勝に臣従しています. 

Ueda5 (写真1) 上田城の再建された門と南櫓

 そんな真田昌幸が築いたのが上田城です.南に千曲川を望む要害の地に建つこの城は,徳川軍の2度の攻撃を跳ね返した堅城ぶりで知られ,特に慶長5年(1600年)には徳川秀忠率いる3万余りの大軍を迎えて一歩も引かず,結果秀忠軍を関ヶ原の合戦に遅参させたことで有名です.

Ueda4 (写真2) 西櫓は江戸時代からの遺構です.

 関ヶ原の戦い後は一時破壊されますが,後に入封した仙石氏によって再建され,そのまま明治維新を迎えています.

 現在は上田城址公園として整備され,櫓や堀,石垣などが遺されているほか,門が再建されています.7月13日の暑い日に登城しましたが,門の前にかき氷屋さんが出ていました.

Ueda2 Ueda1

(写真左) 真田真幸が築城の際,柱石として埋め込んだといわれる巨石(真田石),(同右) 観光地の定番スポットです(笑).

 スタンプの設置場所 お城と駐車場を挟んで反対側にある上田市立博物館の受付にあります(冷房がきいていて気持ちよかったです).

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園です.

27uedajo登城日 2008年7月13日

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2008年8月22日 (金)

日本100名城スタンプラリー21

 日本100名城 松代城(26番)

 信濃は山が多く各地域の交通が困難であることから,古来統一勢力が存在せず,戦国時代には各地に小勢力が林立した状態でした.そこに目を付けたのが甲斐を統一した武田氏で,信玄の代になって天文11年(1542年)以降信濃の小勢力に対して次々と攻勢をかけていきます.これに対して信濃の諸将が援軍として頼ったのが越後の上杉謙信で,ここに武田上杉の戦いが始まることになります.そんな両雄の決戦の舞台として有名な川中島の近くにあるのが松代城です.

Matsushiro1 (写真) 川中島古戦場に建つ両雄一騎打ちの像

 松代城は永禄3年(1560年)に武田信玄が山本勘助に命じて築かせたといわれています.有名な川中島の戦いの際には信玄の重要な拠点になりました.武田氏滅亡後は信長配下の森長可(森蘭丸の兄),その後上杉氏の所領となりますが,江戸時代に入ってからは真田信之が入って松代藩となりそのまま幕末まで続きました(真田氏は関ヶ原の戦いにおいて信之は東軍につきましたが,父昌幸と弟の幸村は西軍に与しています).幕末にはあの佐久間象山がこの松代藩から出ています.

Matsushiro4

 明治維新後廃城となり,現在は石垣や堀などが遺構として残っています.

 追伸: 松代には太平洋戦争末期に本土決戦を決意していた軍部によって,密かに皇居や大本営,政府機関の疎開先として計画され,実際に8割方完成した地下壕跡も遺されています(松代大本営跡).また映画「硫黄島からの手紙」で有名になった栗林忠道中将(戦死の直前大将に昇進)の出身地もまた,ここ松代です.

Matsushiro2 Matsushiro3

(写真左) 天守台の石垣,(同右) 復元された太鼓門と前橋

 スタンプの設置場所 太鼓門に向かって左側にある管理棟にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 散歩にちょうど良い規模です. 

26matsushirojo 登城日 2008年7月13日

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2008年8月13日 (水)

日本100名城スタンプラリー20

 日本100名城 松本城(29番)

 松本市にある松本城は国宝四城のひとつでもあり,その漆黒の天守から烏城などとも呼ばれる松本のシンボルです.

Matsumoto1 (写真1)あまりにも有名な黒色の天守

 松本城は戦国時代に小笠原氏によってその基礎が築かれ,後に石川数正・康長親子によて現在の形に建設されました.江戸時代に入って大久保長安事件によって石川氏が改易されると,以後は戸田氏,水野氏など譜代大名の居城となっています.

Matsumoto4 (写真2) 再建された黒門

 明治維新後は全国の他の城と同じく,解体の危機を迎えましたが,地元の人々の支援で解体は免れます.その後老朽化に伴う改修工事なども地元の人々が資金集めに奔走しています.1930年に国の史跡に指定され,その後国宝となっています.

 松本城は松本市内の中心にある典型的な平城です.現在の遺構としては国宝に指定されている天守,石垣,堀,再建された門などがあります.また二ノ丸の御殿跡もわかるようになっています.

Matsumoto2 Matsumoto3

(写真左) 埋の橋,(同右) 二ノ丸の御殿跡

 2008年7月13日,快晴の早朝に登城しましたが,二ノ丸から見る黒色の天守に圧倒されました.

 スタンプの設置場所 本丸内の事務所にあります(有料区域内なので入場料を払わないとスタンプが押せません).

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 基本的に都市公園です.

29matsumotojo 登城日 2008年7月13日

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2008年8月11日 (月)

日本100名城スタンプラリー19

 日本100名城 高遠城(30番)

 日本100名城シリーズ甲信越編,いよいよ長野県に入りました.まずは長野県南部にある高遠城です.

Takato1 (写真) 問屋門と桜雲橋.高遠城で最も有名な場面です.

 中央アルプスの麓に位置する高遠城は元は諏訪氏の一族高遠氏の居城でしたが,甲斐を統一した武田信玄に攻められ,天文十四年(1545年)に武田氏の支配下に入ります.以来信玄の伊那進出の拠点とされますが,天正十年(1582年)の武田氏の滅亡の際に織田信長の大軍に攻められますが,当時離反が相次いだ武田の支城の中で,もっとも激しく抵抗しています.

Takato3 (写真) 再建された太鼓櫓です

 本能寺の変後は徳川家康の支配下に入り,江戸時代には高遠藩の居城として保科・鳥居・内藤といった譜代大名が入りました.特に2代将軍徳川秀忠の庶子である保科正之(後の会津松平家初代)は有名です.

 現在は高遠城跡公園として,また桜の名所として春は大勢の観光客が訪れています.遺構としては石垣や堀の他,移築された門や再建された太鼓櫓などがあります.

Takato5 Takato4

(写真右) 往年の大手門の一部といわれています.(同左) 本丸と二ノ丸の間の空堀.

 スタンプの設置場所 城跡公園北ゲートにある高遠閣の入り口においてあります

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ちょっと広めでアップダウンがある公園です.

30takatojo 登城日 2008年7月12日

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2008年8月 4日 (月)

日本100名城スタンプラリー18

 日本100名城 甲府城(25番)

 山梨県甲府市は100名城に選定された城が2つもあるお得な街です.ひとつは武田信玄ゆかりの武田氏館ですが,もう一つが今回のテーマ甲府城です.

Kofu1 (写真1) 稲荷櫓です.内部の見学もできます.

 戦国末期の1582年に武田氏が滅ぶと,甲斐は徳川家康の領国となります.その後豊臣秀吉によって家康が関東に移された後,家康に対する備えとして秀吉の命によって築城されました.江戸時代になると今度は江戸の西の守りの拠点とされ,親藩大名が配置されるようになり,18世紀初めに例外的に柳沢家(五代将軍綱吉の側近柳沢吉保)が城主になりましたが,以後は一貫して幕府の直轄地(天領)となり幕末を迎えています.

Kofu2 (写真2) このように立派な天守台がありますが,実際に天守があったかどうかは不明なそうです.

 慶応4年鳥羽伏見の戦いで敗れ,江戸にもどった新撰組が甲陽鎮撫隊として目指したのはこの甲府城です.明治の廃城後は周辺の開発が進み,かつての城郭は大幅に縮小してしまいました.

 現在は舞鶴城公園として整備され,櫓や門などが再建されています.ただ,前述の武田氏館が風林火山人気もあって大勢の観光客を集めているのに対して,こちらは,駅前という好立地にも関わらず,人影もまばらでひっそりとしていました.

Kofu3 Kofu4

(写真左) 発掘によって現在の石垣の中から昔の石垣が出てきました.(同右) 再建された内松陰門です.

 スタンプの設置場所 甲府城内稲荷櫓の受付にあります.声をかけると出してくれます.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 駅前の公園です)

25kofujo 登城日 2008年7月12日

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2008年7月30日 (水)

日本100名城スタンプラリー17

 日本100名城 武田氏館(24番)

 私の100名城シリーズ,6月15日の会津若松城で東北10城を全て制覇しました.次は関東10城ですが,こちらはすでに半分の5城は終わっています.ただ残りは8月に青春18切符を使って回る予定になっており,とりあえずは置いておきます.というわけで7月は甲信越9城にチャレンジしていました.

 さて,山梨県甲府市は日本100名城に選定された城郭が2つもあるお得な町です.そのひとつが今回のテーマ武田氏館です.

Takeda1 (写真) 武田神社の正面です.

 言うまでもなく,山梨県=甲斐といえば武田信玄です.中井貴一主演の昭和63年の大河ドラマ武田信玄(この作品は歴代大河最高視聴率を記録した作品である)や,昨年の風林火山など多くのドラマ,映画で取り上げられ非常に人気が高いアイテムです.

Takeda2 Takeda3

(写真左) 堀です.(同右)境内にも石垣が残っています.

 そんな武田氏の居城があったのが現在の甲府市北部で,躑躅ヶ崎館(髑髏(ドクロ)ヶ崎ではありません)と呼ばれていました.武田氏は清和源氏の流れをくみ,室町時代の初めから甲斐の守護となっています.戦国時代に入ると国内の守護代や国人の反乱などに悩まされますが,信虎の時代に甲斐を統一し,次の晴信(信玄)の時代には信濃,駿河,遠江などに領土を広げています.続く勝頼の時代1575年(天正3年)の長篠の戦で一敗地にまみれ,以後急速に衰退し1582年(天正10年)3月11日に織田信長によって滅ぼされたのでした.

Takeda6 (写真) 有名な風林火山の孫子の旗.実物は撮影禁止だったため,ポスターでどうぞ.

 躑躅ヶ崎館跡は現在武田神社となっており,多くの観光客が訪れています.当時の建物などは残っているはずもありませんが,堀や石垣などから当時の様子を垣間見ることができます.境内にある宝物殿には武田氏ゆかりの品々が展示されており,訪問したときちょうど,あの風林火山の孫子の旗が展示されていました(どうでもいいですが,どさくさにまぎれての旗も飾ってました 笑)

 スタンプの設置場所 武田神社宝物殿の受付にあります.声をかけると出してくれます.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 武田氏の館跡ということを除けばただの神社です. ) 

24takedashiyakata 登城日 2008年7月12日

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2008年7月26日 (土)

日本100名城スタンプラリー16

 日本100名城 八王子城(22番)

 八王子城は戦国時代に関東一円を支配していた北条氏の支城の一つです.1580年代に北条氏康の三男氏照が築いたといわれています.標高466メートルの山に築かれた典型的な山城で,山の上に軍事施設が,麓に居住施設が置かれています.

Hachio4 (写真1) 八王子城跡管理棟です.スタンプとトイレはここにあります.

 山城という形態は中世的ですが,造られたのが戦国末期だったことから石垣が使用されるなど近世的な点も見られます.

 1590年の豊臣秀吉による小田原攻撃の前哨戦で攻撃を受け,同年6月23日に落城しました.そして北条氏滅亡後関東に入った徳川家康によって廃城とされています.

Hachio2 Hachio1

(写真左) 御主殿に向かう曳き橋.(同右) 御主殿の石垣と石段

 現在は八王子城跡として国の史跡になっています.最寄の駅はJR中央線高尾駅で,北口1番のバス停からバス(1番のバス停発のバスならどれでも)に乗り「霊園前」下車,徒歩20分ほどで管理棟到着です.ここから川の対岸を沿っていくと5分ほどで曳き橋を渡って御主殿跡に到着です.ここには石垣や石段などが残っています.

Hachio3 Hachi5 (写真左) 本丸,(同右) 八王子神社

 一方本丸へは管理等から御主殿とは反対側に進み,登山道を30~40分ほど登って行く必要があります(途中にはマムシが出没するらしく,マムシ注意の看板もあります).本丸へのルートは新道と旧道があるそうですが,旧道はかなり劣悪な環境らしく,私は新道から行きました.途中に○合目という案内が建っていて励みになります.山頂付近にある八王子神社まで来ると,本丸は目の前です.

 スタンプの設置場所 八王子城管理棟の窓口に置いてあります.シャチハタではなくインクを付けるタイプです.

 登城のハード指数(★★★ かなりハードです) 本丸まで行く場合は登山道を30分以上歩くことになり,体力が必要です.) 

22hachiojijo 登城日 2008年7月5日

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2008年7月23日 (水)

日本100名城スタンプラリー15

 日本100名城 会津若松城(12番)

 私の日本100名城スタンプラリー,東北地方の最後を飾るのは会津若松城(鶴ヶ城)です(まさに真打登場という感じ).

Tenshu (写真1) 外観復元された天守,内部は博物館になっています

 会津若松というと江戸時代の会津松平家とその流れからくる幕末の京都守護職松平容保白虎隊,さらには新選組などが思い浮かびますが,城としての歴史はそれよりずっと遡ります.14世紀に葦名氏(この一族はその後戦国時代までこの地を支配する)によって築かれたのが始まりです(この頃は黒川城と呼ばれている).戦国時代の1589年に葦名氏は伊達政宗に滅ぼされ,この地も伊達領となりますが,豊臣秀吉によって没収され,以後は蒲生氏郷,ついで豊臣政権五大老の一人上杉景勝の所領となります.この上杉景勝の家臣が2009年大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続です.

Roukabashi (写真2) 二ノ丸と本丸の間にかかる廊下橋

 しかし上杉氏は関が原の戦いで西軍に与したため,戦後米沢に移封となり,その後再び蒲生氏ついで加藤氏が入ります.この加藤氏の時代に現在の城となりました.その後1643年に3代将軍徳川家光の弟保科正之が入り,以後幕末まで続いていくことになります.

Hoshiiyagura Kuroganemon

(写真左) 干飯櫓,(同右) 鉄門

 戊辰戦争では会津城下は戦場となり,天守は官軍の激しい砲撃にさらされましたが,結局最後まで崩れ落ちることはありませんでした(明治初期に撮影された天守の写真が残っていますが,砲火の凄まじさを物語っています).戦後天守は明治7年に解体されています(現在見られる天守は昭和40年に外観復元されたもの).

 現在は会津観光の中心として大勢の観光客が訪れています.

 スタンプの設置場所 天守閣博物館出口の売店にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.

12aiduwakamatsujo

登城日 2008年6月15日

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2008年7月22日 (火)

日本100名城スタンプラリー14

 日本100名城 盛岡城(6番)

 日本100名城,今回は地元盛岡城です.本来は第1回に来なきゃいけないんですが,ラリーを始めたのが転勤後というわけで14回目にして登場と相成りました.

P6140265 (写真1) 盛岡城跡公園の入り口

 盛岡は盛岡藩10万石(江戸後期に20万石に変更)の城下町です.治めていたのは南部氏で,その歴史は鎌倉時代に遡ります(鎌倉時代から明治維新期まで同じ家が支配していた土地は陸奥=南部氏と薩摩=島津氏だけなんだそうです.どちらも日本の外れです).

 南部氏は元は今の青森県南部町,ついで三戸町に居城がありましたが関が原の戦いで徳川家康に味方したため所領を安堵され,江戸時代初めに居城を盛岡に移しています.

P6140246 (写真2) 盛岡城に面する中津川

 盛岡の城下町は北上川,中津川,雫石川という3つの川の合流地点に形成されていますが,この川が3つもあるというのが曲者で,これがため盛岡の中心部を移動するためには川を渡らなくてはならず,川を渡る橋でいつも交通が渋滞しているのでした.

P6140263(写真3) 地元で産出された花崗岩を利用して造られた石垣です

 盛岡城は盛岡の中心部にあって川を天然の堀として建っています.城跡は現在盛岡城跡公園(旧岩手公園)として整備されています.城の建物は遺されていませんが,地元産の花崗岩で築かれた高石垣が見事で,これだけでも100名城に選定される価値があると思います.

 スタンプの設置場所 城跡から徒歩10分くらい,中津川の対岸にあるプラザおでっての2階にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.

06moriokajo

登城日 2008年6月14日

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2008年7月17日 (木)

日本100名城スタンプラリー13

 日本100名城 根城(5番)

 青森県の城と言えば,圧倒的に弘前城が有名で,特に桜の季節ともなると全国から大勢の観光客がやってくる.しかし青森県にはもう一つの100名城がある.それが八戸市の根城である.

Nejo3 (写真1) 根城は公園として整備されています

 八戸市は青森県南部地方の中心で水産と工業の町である.江戸時代に盛岡藩と呼ばれた地域は今の岩手県北部から青森県東部および秋田県鹿角地方と広範囲にわたっている.そこを治めていたのが南部氏で,居城は盛岡にあった.しかし南部氏の北東北統治の歴史は古く,平安末から鎌倉初期に南部光行が源頼朝に北東北を所領として賜ったことにはじまるとされている.その南部氏の分家筋の南部師行が南北朝時代(鎌倉末~室町初期)に八戸に築いたのが根城である.以来この城は八戸地方の中心となり,江戸時代に入り宗家の盛岡南部氏から遠野への移転を命じられて廃城になるまで300年にわたって栄えた.

Nejo2 (写真2) 堀や土塁の形が分かります.

 根城は現在「根城の広場」として整備されている.江戸初期に廃城となったため当時の建造物は全く残っていないが,堀や土塁などがあり,建物も主殿や納屋などが再建されている.

Nejo4 Nejo1

 (写真左) 再建された主殿,(同右) こちらは納屋

スタンプの設置場所 根城の広場入口にあるボランティアガイド詰所(声をかけると出してくれます)

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 平地かつ街中にあり,誰でも楽しむことができます.

 05nejo

登城日 2008年6月14日

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2008年7月15日 (火)

日本100名城スタンプラリー12

 日本100名城 弘前城(4番)

 弘前は津軽十万石の城下町である(そういう名前の回転すし屋もある).本州の最北端部を占める青森県だが,歴史的には西部の旧津軽藩の領域と東部に位置する旧南部藩の領域からなりたっている.県庁所在地で県最大の都市は青森市であるが,西の弘前市と東の八戸市も多くの人口を抱えている.実は青森市は47都道府県の中で唯一県庁所在地に国立大学がない都市である(青森県の国立大学は弘前大学でありすべての学部が弘前市にある).

Hirosaki3 (写真) 弘前城天守

 それはともかく,弘前城は弘前市の中心部にある.津軽藩は戊辰戦争で早い段階から官軍方に味方したことと,第二次大戦での戦災を受けていないことから城が比較的良い状態で保存されている.現存する建物も天守をはじめ,櫓や門,堀,石垣など数多い.

Hirosaki1 Hirosaki4

(写真左) 北門(亀甲門),(同右) 大手門

 天守は元々五層であったが落雷のため焼失し,江戸時代後期に本丸の辰巳櫓を三層の天守に改装したものである.小規模ではあるが,現存する天守が全国で12しかないことを考えるとかなり貴重なものである(JR東日本管内の現存天守はここ弘前のほかは松本しかない).

Hirosaki2 (写真) 弘前市の市章は卍(まんじ)ですが,外国特に欧米からやってきた人はこの市章を見てドキッとするそうです

 城跡は現在弘前城公園として整備されており,特に春は桜の見ごろがゴールデンウィークに重なるため,全国からの観光客で大賑わいとなる(暖冬などで開花が早まると観光収入に響くため,桜の木の根元に雪をかけて開花を遅らせるという涙ぐましい努力も行われている).

 スタンプの設置場所 本丸天守内にあります(有料区域内なので入場料が必要)

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 平地かつ町中にあり,誰でも楽しむことができます.

04hirosakijo  私が弘前城を訪問中の2008年6月14日8時43分に岩手・宮城内陸地震が発生しました.あっ揺れたと思いましたが,まさかあれほどの地震とは想像もできませんでした.

登城日 2008年6月14日

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2008年7月 9日 (水)

日本100名城スタンプラリー11

 日本100名城 久保田城(9番)

 日本100名城,2008年7月9日現在16城制覇していますが,記事のほうは大分遅れてしまいました.

 6月10日に能代に行く途中,貧食訪問を兼ねて仙台に途中下車した後,今度はこまち号に乗って秋田まで行きました.ここから電車を乗り換えて能代に向かうのですが,せっかくだからと1本列車を遅らせて市内の久保田城に繰り出しました.

Kuota1 (写真1) 千秋公園入り口

 秋田市は秋田県の県庁所在地ですが,江戸時代には佐竹氏による久保田藩(秋田藩)の城下町でした.そのお城が久保田城です.久保田藩は幕末の戊辰戦争で官軍側に付いたため,他の東北地方の藩のように城が破壊されることはありませんでしたが,明治期の火災によって当時の建物の多くが失われてしまいました.

 城跡は現在千秋公園となっており,県民会館や図書館などが入っているほか,春には桜の名所としても知られています.久保田城には盛岡城や仙台城のような石垣はありませんが,大きな水堀や土塁が残っています.建物としては本丸の表門や隅櫓が再建されている他,当時からのものとして御物頭御番所が遺されています.

Kubota3 Kubota4

(写真左) 本丸表門,(同右) 御隅櫓

 公園は南のお堀の方から入っていくと,北端の隅櫓まで登りとなります.途中には秋田名物(?)のババヘラアイスなどを見かけます.

Kubota22 (写真) 秋田名物(?)ババヘラアイスです(地方発送もありだそうです).

 スタンプの設置場所 本丸御隅櫓の受付にあります(係員に声をかけると出してくれます)

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 南の入り口から本丸まで歩いても10分程度です.都市の公園の趣です.

09kubotajo

登城日 2008年6月10日

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2008年6月29日 (日)

日本100名城スタンプラリー10

 日本100名城 仙台城(8番)

 6月10日に能代に行く途中,貧食に寄るため仙台で途中下車.ついでだからと仙台城址に行ってきました.天気は快晴,絶好の城めぐり日和です.

 仙台は奥州伊達62万石の城下町,大名としては加賀の前田家(100万石),薩摩の島津家(72万石)に次ぐ全国三番目の規模を誇ります.江戸時代から穀倉地帯として有名で,江戸から比較的近かったこともあり,江戸で流通する米の半分が仙台産といわれた時期もあったようです.

Sendai4 (写真) 仙台城といえばこの人,伊達政宗です.

 城下町仙台の礎を築いたのはもちろん伊達政宗ですが,彼が仙台に拠点を移したのは意外に新しく,関が原の戦い後の事です.戦国時代の伊達家の居城は梁川,米沢のちに岩出山(一時会津若松にいたことも)でしたが,関が原後の1601年に仙台城の建設が始まっています.

Sendai5 (写真) 本丸の高石垣

 仙台城は市内西部の青葉山にありました.明治以降城跡は陸軍第2師団の拠点となり,江戸時代の建物はあらかた失われてしまいました(大手門などは遺されましたが,第二次大戦で完全に焼失しています).

 現在は石垣を中心とした史跡となっており,建造物としては大手門脇にあった隅櫓が再建されています.

Sendai1 (写真) 仙台城で唯一の再建建築物である隅櫓です.このすぐ脇に大手門がありました(再建計画があるそうです).

 スタンプの設置場所 仙台城見聞館の受付にあります(係員に声をかけると出してくれます)

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 大手門跡から10分ほど登っていくと本丸に到着しますが,車で直接乗り付けることも可能です.

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登城日 2008年6月10日

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2008年6月22日 (日)

日本100名城スタンプラリー9

 日本100名城 鉢形城(18番)

 関東地方は戦国時代後北条氏の勢力範囲だったことから,北条氏関係の城跡が多く見られます(もちろんそれらは戦国時代のものであり,遺構という形でしか残ってはいませんが).埼玉県寄居町にある鉢形城もまた,これら後北条氏の支城の一つです.

Hachi3 (写真1) 城跡は深い木々に覆われています.

 鉢形城は荒川と深沢川に挟まれた高台に位置しており,特に荒川に面した部分は断崖絶壁と天然の要害をなしています.城の歴史は15世紀に当時関東管領だった上杉氏の家臣長尾景春が築城したことに始まるといわれています.後にこの地方の豪族藤田氏に婿入りした北条氏康の四男氏邦が拡張,天正18年の秀吉による小田原攻めに際しては,籠城して戦ったものの,約一ヶ月の攻防の末落城,以後は廃城となりました.

Hachi7 (写真2) 二の曲輪に残る土塁

Hachi6 (写真3) 深沢川からは急峻な上りになっています.

 鉢形城の建物類は全く残っていませんが,堀や土塁などの遺構が保存されています.

 スタンプの設置場所 鉢形城歴史館の受付にあります(係員に声をかけると出してくれます)

 登城のハード指数(★☆☆ ハードでは ありません) 歴史館から1時間程度で周囲を散策できます.最初に歴史館によってパンフレットを貰ってから回ると良いと思います.寄居駅から歴史館へは徒歩30分程度ですが,バスも出ています鉢形城へのアクセス

18hachigatajo

登城日 2008年6月8日

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2008年6月12日 (木)

日本100名城スタンプラリー8

 日本100名城 川越城(19番)

 埼玉県川越市は小江戸とも呼ばれる風情のある町です.江戸時代には江戸の北の守りの拠点として,松平信綱や柳沢吉保などの幕府の大物が藩主として入ったところです.重要拠点であることからも藩主の交代が激しく,その石高も初代酒井重忠の1万石から松平斉典時代の17万石まで変動が見られます.

Kawagoe1 (写真) 川越城本丸御殿

Kawagoe2

 そんな川越藩の藩庁だった川越城ですが,現在はそのほとんどが市街地になっているため,城跡といってもピンと来ません.大手門が現在の市役所の位置にあったようですが,石碑がなければ全くわかりません.

Kawagoe4 (写真) 川越市役所前の場所に大手門があったようです.

 それでもここが100名城に名を連ねているのは,一にも二にも本丸御殿の一部が現存しているからです.この御殿は嘉永元年(1848年)に建てられたもので,玄関部分を含めた一部が残されています.現在は博物館として一般にも公開されています(ただし平成20年10月21日から平成23年3月まで修理のため休館になるようですのでお早めに).

Kawagoe5 (写真) 富士見櫓跡はちょっとした高台になっていますが,木が茂っているため展望はあまり良くありません.

 そのほかに,御殿の南方に富士見櫓の跡が残っています(櫓自身はありません).

 スタンプの設置場所 本丸御殿の受付にあります(係員に声をかけると出してくれます)

 登城のハード指数(★☆☆ ハードでは19kawagoejo ありません) 観光用の巡回バスも充実しており誰でも気軽に見て歩けます.

 登城日 2008年6月8日

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2008年6月 7日 (土)

日本100名城スタンプラリー7

 日本100名城 多賀城(7番)

 山形城を後にした私はバスでそのまま仙台に向かいました.山形-仙台間の路線バスは私の学生時代から存在しましたが,当時は国道48号線の作並温泉,関山峠経由で1日数往復だったと思います.しかし今は高速道路経由で所要1時間,1日70往復(ほぼ10~20分間隔で運行)と,競合するJR仙山線を完全に喰ってしまっているようです.

 宮城県の中心地というとおそらく,100人中99人は仙台と答えるでしょう.しかし仙台が栄えるようになったのは戦国末期に伊達政宗が本拠を仙台に構えるようになって以降の話です.「では昔の中心はどこだったの?」 というと,これが本日の表題多賀城です.

Tagajo1 (写真) 政庁跡の石段です

 多賀城の始まりは奈良時代(養老8年 724年),ここに陸奥国府が置かれたことによりますから,約1300年,なんと京都よりも古いことになります.

Tagajo4 (写真) ここが政庁跡の土台です.多賀城跡は小高い丘の上にあり,ここから市内が見渡せます.

 当時東北地方は奈良の律令政府の支配下には入っていませんでした.このためこの地域への進出をねらう律令政府によって,出先機関兼最前線基地として築かれたのです.その後中央政府の支配地域が北に広がるにしたがって,前線基地は今の岩手県南部に移りますが,政治の中心,国府として栄えたのです.しかし武士の時代に入ると徐々にその役割を失い,戦国時代以降はまったく忘れ去られてしまったのです.

Tagajo3 (写真) 政庁の復元模型です

 現在多賀城跡は発掘が進められ,かつての政庁跡や土塀などが復元されています.

Tagajo2 (写真) 政庁跡近くにある多賀城碑.

 スタンプの設置場所 多賀城市埋蔵文化財調査センター2階受付(政庁跡やJR東北本線国府多賀城駅からはかなり離れています.JR仙石線多賀城駅の近くです)

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) JR国府多賀城駅から10~15分程度です.ただスタンプのある埋蔵文化財調査センターからはかなり離れているので,モデルコースとしては仙台駅からJR仙石線で多賀城駅下車,徒歩10分の埋蔵文化財調査センター2階で見学およびスタンプを押し,そこでタクシーを呼んで政庁跡に移動(約1000円),政庁跡や多賀城碑を見学して,徒歩でJR東北本線国府多賀城駅に移動,駅前の東北歴史博物館を見学して仙台に帰るのがいいと思います.

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 登城日 2008年6月1日

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2008年6月 6日 (金)

日本100名城スタンプラリー6

 日本100名城 山形城(10番)

 二本松城を後にしてさらに北上し一泊,6月1日になりました.この日は15時から盛岡でのコンサートを聴きに行くのですがまだ半日もある,というわけで早朝から活動を開始した私です.やってきたのは山形城です.

Yamaga3 (写真1) 近世山形城を築いた最上義光公

 山形県の県庁所在地である山形市は戦国時代に最上氏の居城だったところで,江戸時代のはじめには村山・最上・庄内57万石という大藩の城下町となりました(伊達政宗のライバル最上義光の時代).このため城郭も非常に大きく,三の丸で250万㎡以上もの規模を誇っていました.しかし義光の死後に起こった家督争いのために最上氏は改易となってしまい、以後は鳥居氏,堀田氏などの普代・親藩大名の所領として歴史を歩んでいきます.度重なる藩主の交代とともに山形藩自体の所領も縮小し,幕末の水野忠精(天保の改革で有名な水野忠邦の子)の時代にはわずか5万石の小藩になってしまいました.

Yamaga5 (写真2) 南門から二の丸内に入ります.

 これだけ藩の規模が小さくなると城の維持もままならず,幕末にはかなり荒れ果てた状態になっていたようです.また明治以後,山形城跡は陸軍歩兵32連隊の駐屯地ともなりました.

Yamaga2 (写真3) 二の丸東大手門

Yamaga1 (写真4) 復元された本丸一文字門の石垣

 現在城跡は山形城址霞城公園として整備されています.近代以前の建物は残っておらず,二の丸東大手門や本丸一文字門の石垣などが復元されています.山形市では現在本丸の御殿を再建する計画を立てているようですが,平面図のみで絵図面や写真などが残っていないため,資料を探しているとのことでした(山形城には天守はなく,本丸には御殿があった).

 スタンプの設置場所 山形市郷土館(旧済生館本館)受付(霞城公園南門から入って右側)

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) JR山形駅から程近く,内部もアップダウンは全くない公園です).

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 登城日 2008年6月1日

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2008年6月 3日 (火)

日本100名城スタンプラリー5

 日本100名城 二本松城(11番)

 先日の盛岡遠征,白河のあと二本松に移動しました.二本松は福島県中通りの福島市と郡山市の中間に位置するところです.

 二本松城は室町時代に畠山氏によって基礎が作られました.標高345mの白旗ヶ峰に位置する山城です.戦国時代には伊達政宗,豊臣政権下では蒲生氏郷の支配下に入っています.

Nihonmatsu3 (写真) 再建された二重櫓です.

Nihonmatsu4 (写真) 同じく箕輪門です.

 江戸時代になると加藤氏,ついで丹羽氏が入り,この時に大改修が行われ,近世城郭の姿に変わりました.

 幕末期に二本松藩は奥羽越列藩同盟に入り,戊辰戦争では藩の主力が白河口に出ている隙に新政府軍の攻撃を受け,激戦の末落城しました.この時に守備兵として参加し多くの戦死者を出した二本松少年隊の悲劇は特に有名です.

Nihonmatsu2 (写真) 千人溜りに建つ二本松少年隊の像

 この戊辰戦争において城の建物はほとんど破壊されてしまいましたが,箕輪門や本丸の石垣などが再建され,現在は霞ヶ城公園となっています.

Nihonmatsu5(写真) 本丸の高石垣です.

 JR二本松駅から北に向かって20分ほど歩くと公園の入り口に着きます.そこから本丸まではひたすらの登り道で,結構ハードな行程ですが,本丸から見える二本松市外の眺めは見事です.

 スタンプの設置場所 二本松市歴史資料館受付(JR二本松駅から徒歩5分程度)

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 駅から距離があり,公園内も本丸までは結構な上り坂です.

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登城日 2008年5月31日

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2008年6月 2日 (月)

日本100名城スタンプラリー4

 日本100名城 白河小峰城(13番)

 6月1日に盛岡に行ってきたんですが,その途中に白河に寄りました.

 白河は奥羽と関東との境に位置していて,古くから白河の関で知られています.江戸時代には寛政の改革で知られる老中松平定信が治めた地としても有名です.また新選組一番組長沖田総司は白河藩士の子であり,ゆかりの地といえます.

 そんな白河にあるのが白河小峰城,JR白河駅の北に位置し,駅のホームからも見えます.

Shirakawa1 (写真) 白河小峰城の代表的なスポット,三重櫓と前御門

 戊辰戦争で激戦の地であったことから,城の建物はほとんど失われてしまい,現存するのは石垣と一部の堀のみです.ただ本丸に会った三重櫓は平成に入ってから当時の資料を基に復元され,その威容を誇っています.この櫓は地元の材木を作って再建されたもので,耐久性の観点から一度の入場者が制限されています.内部には実際に戊辰戦争の際に着いた銃弾の跡もあります.

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 またこのお城の見どころとしては高石垣があります.特に本丸跡にある同心半円形の石垣は貴重なものだそうです.

Shirakawa2 (写真) 白河小峰城の高石垣

Shirakawa4 (写真) 黄色い円の中に注目(同心半円形に石が詰まれています)

スタンプの設置場所 三重櫓に入ってすぐの受付

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 駅から程近く,ちょっとした散歩気分で見学ができます.

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登城日 2008年5月31日

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2008年5月21日 (水)

日本100名城スタンプラリー3

 日本100名城 山中城(40番)

 この週末実家から親がやってきたため箱根に行ったのだが,ついでにと100名城にも行ってきた.場所は静岡県三島市にある山中城跡.静岡というとなんだか遠いようなイメージだが,実は箱根方面からアプローチすると意外に近い(小田急の箱根フリーパスも使える).

 山中城は戦国時代小田原北条氏の出城であり,西方の敵に対する前線基地といった趣である.城自体は1590年(天正18年)に豊臣秀吉軍の攻撃を受け,一日で落城した.しかし,その後廃城となったことから,かえって昔の遺構が残る結果になった.

P5180045 (写真) 山中城跡にて(お祭りにぶつかったのは本当に偶然です).

 現在は三島市によって公園として整備され,年に1回5月の第3日曜日に山中城祭りも行われている(今年は5月18日,なんと私の訪問日が偶然お祭りの日でした.運のよさ255の皇帝です).会場ではのど自慢大会などのイベントの他,北条氏のよしみからか,小田原の甲冑隊も駆けつけていた.

P5180026 P5180037  

(写真 左) 畝堀,(写真 右) 障子堀

山中城は戦闘を目的とした山城のため,都市の城のような立派な石垣や櫓などはない.この城跡は畝堀・障子堀など戦国末期の北条氏の城の特徴を良く示すものといわれている.

スタンプ設置場所 公園の向かいにある売店内

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 少し上りはありますが全部回っても30分程度です

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登城日 2008年5月18日

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2008年5月17日 (土)

日本100名城スタンプラリー2

 日本100名城 江戸城(21番)

 昨日学会で横浜に行ってきたんですが,昼食時間を利用して東京に繰り出しました.理由は先日始めた日本100名城スタンプラリー「江戸城編」のためです.

 江戸城は言うまでもなく徳川将軍家の居城で,幕府の所在地です.現在は皇居になっていますが,都心にある自然が残る貴重な空間になっています.

P5160015 (写真) 二重橋と伏見櫓

P5160019 (写真) 桜田門

スタンプの設置場所 和田倉休憩所内(他にもあるようです)

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 完璧に散歩気分で大丈夫です 

21edojo (写真) そしてこれがスタンプ(21番です).

登城日 2008年5月16日

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2008年5月 8日 (木)

日本100名城スタンプラリー1

 日本100名城 小田原城(23番)

 ビザンチン皇帝の100名城,記念すべき第1回は小田原城です.語るまでもなく,小田原城は戦国時代に関東一円を支配した北条氏の拠点です.小田原城は日本の城にしては珍しく,城下町をも含んだ総延長10キロにも及ぶ総構えを誇っていたそうです.その堅城ぶりは,あの上杉謙信(1561年),武田信玄(1569年)という両巨頭に相次いで攻められながらも,ともに撃退していることからもわかります.

Odawara2 (写真) 小田原城のお堀です

 しかし1590年に豊臣秀吉の30万もの大軍に包囲され,ついに落城となってしまいました.その後江戸時代には江戸を守る西の拠点として,小田原藩が立てられ,譜代大名の大久保氏が入りました.

Odawara3 (写真) 外観復元された天守です

 明治後廃城となり,関東大震災によってほとんどの建物や石垣が崩壊してしまいました.現在は天守や銅門などが復元され,小田原城址公園として整備されています.ただ現在の小田原城は江戸時代のものであり,戦国時代の北条氏時代のものではありません(規模的には今の城跡とは比べられないほど大規模だったはずです).

Odawara1 Odawara4_2

(写真左) 復元された銅門です.(同右) 本丸には動物園もありますが,象と猿しかいません.

 スタンプの設置場所 天守閣の受付にあります.係員に頼むと出してくれます.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 小田原駅から徒歩10程の距離です.

23odawarajo 登城日 2008年5月6日