2009年12月16日 (水)

日本100名城スタンプラリー67

日本100名城 金沢城(35番)

 久しぶりの100名城ネタです.

 北陸の城下町金沢の中心が金沢城です.江戸時代には加賀藩の藩庁がおかれました.大名家としては最大の石高を誇った加賀藩の始祖が有名な前田利家です.古くから織田信長に仕え,信長の死後は秀吉に臣従した利家は加賀・能登・越中に100万石を越える領国を与えられました.

Hokuriku2_026 (写真1) 重文の石川門

 秀吉の死後わずか8カ(月で利家も死去したため,以後時代は徳川家康の天下となり,前田家もまた幕藩体制の中に組み込まれていきます.しかし,その実力から江戸時代を通じてほぼ100万石の領地を維持していきます.

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(左写真2) 重文の三十間長屋,(右同3) 鶴丸倉庫

 そんな加賀藩の中心が金沢城です.金沢城の立っている小立野台地には戦国時代,加賀の一向一揆で有名な本願寺金沢御堂が置かれていました.信長による一向一揆の制圧後,この地は柴田勝家の勢力下になりましたが,賤ヶ岳の戦いによって勝家が滅びると,代わって利家がこの地に入り,彼によって今の金沢城が築かれました.城に隣接している有名な大名庭園である兼六園が造営されたのは彼のひ孫の4代藩主前田綱紀の時代です.

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(左写真4) 橋爪門と続櫓,(右同5) 五十間長屋

 明治維新後は城は陸軍の管轄に入り,第七連隊や第九師団司令部などが置かれました.第二次大戦後は金沢大学のキャンパスとして使われ,平成13年から金沢城公園として整備され現在に至っています.

Hokuriku_212 (写真6) こちらは大手門跡です

 遺構としては石川門や三十間長屋などがあり,公園として整備されてからは櫓や門などの復元も行われています.私が初めてこの地を訪れた昭和60年代初頭は,ちょうど金沢大学の移転準備が行われていて,構内もかなり雑然とした印象でしたが,今回約20年ぶりに訪問し,綺麗に整備されたその姿に大いに感動した次第です.いまでは隣の兼六園とともに,多くの観光客でにぎわう名所になっています.

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金沢城へのアクセス: JR金沢駅からバスで15分ほどのバス停兼六園下で下車し徒歩5分程度です

スタンプの設置場所 城二の丸案内所や石川門入口案内所にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.誰でも気軽に散策できます.

35kanazawajo 登城日 2009年4月18日

 

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2009年11月30日 (月)

日本100名城スタンプラリー66

日本100名城 一乗谷城(37番)

 今の福井県に当たる越前の国は,畿内から近いこともあって古来重要な土地とされていました.とりわけ幕府が京都にあった室町時代には,足利将軍家の一族で,三管領の一つである斯波氏が代々守護職を務めています.

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(左写真1) 城下町の北の入り口の城戸跡,(右同2) 背後の山に山城が形成されていました.

 しかし京都を焼け野が原にした応仁の乱(1467~1477)では,斯波氏内部の権力争いも激化,その中で斯波氏の重臣だった朝倉孝景が勢力を伸ばして(将軍足利義政や細川勝元の後援があったといわれる),ついには越前の支配権を奪ったのです.

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(左写真3) 発掘された朝倉屋敷跡,(右同4) 復元された街並み

 この朝倉氏の本拠となったのが一乗谷城です.今の福井市街の南東,足羽川の支流の一乗谷川流域に城下町が,周囲の山々に砦などの軍事施設が造られていました.特に城下町には武家屋敷や寺院,町屋などが立ち並び,当時荒廃の極みにあった京都から多くの公家や僧侶,学者,文人などが避難しており,西の山口とならんで,京文化が花開いた街でした.

Hokuriku_135Hokuriku_134_2(左写真5) 後に再建された唐門,(右同6) 城下町を流れる一乗谷川 

 このように戦国時代に5代100年の栄華を誇った一乗谷城でしたが,織田信長が台頭するとその圧迫を受けるようになり,元亀元年(1570年)6月に姉川の合戦で敗北,3年後の天正元年(1573年)8月についに織田信長によって滅ぼされたのです.この時信長は一乗谷に火をかけ,朝倉氏の栄華の跡は灰燼と帰したのでした.

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(左写真7) 本丸にあたる千畳敷,(右同8) 大きな堀切が残っています

 朝倉氏滅亡後,この地に入った柴田勝家は北の庄を本拠としたため,一乗谷は歴史の闇の中に眠ることになりました.しかしそれが幸いしてそのまま保存されることとなり,昭和42年から進められた発掘で昔のままの城下町の遺跡が発見されるにいたったのです.

Hokuriku_106 (写真9) 山城から見た下界の様子

 現在は一乗谷朝倉氏遺跡として,かつての城下町等が再現されています.

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 一乗谷城へのアクセス: JR一乗谷駅から徒歩25分で城下町です(レンタサイクルもあるようです).山城へはさらに30分以上の登りになります(自動車利用なら,遺跡の反対側にある駐車スペースに車を置いて歩くと比較的楽です.詳細は朝倉氏遺跡資料館で確認して下さい).

スタンプの設置場所 城下町の北にある一乗谷朝倉氏遺跡資料館にあります

登城のハード指数(★★★ かなりハードです) 城下町だけなら★ひとつですが,山城を見学するにはかなりの気合が必要です.

37ichijodanijo 登城日 2009年4月18日

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2009年11月17日 (火)

日本100名城スタンプラリー65

日本100名城 丸岡城(36番)

 100名城シリーズ,今回から北陸シリーズに入ります.まずは福井県にある丸岡城です.福井平野に位置する坂井市丸岡町の中心,やや小高い丘に建つ城郭です.ここはまた全国に12か所しかない現存天守がある城郭のひとつとしても知られています.

Hokuriku_028 (写真1) 丸岡城の現存天守

 丸岡城の建築は安土桃山時代にさかのぼります.織田政権下,越前の経営にあたっていた柴田勝家の甥,柴田勝豊により築かれたと言われています.その後しばらくは柴田勝家傘下の城でしたが,本能寺の変後の後継争いで勝家が滅ぼされると,青山宗勝が入りました.

Hokuriku_038 (写真2) 石垣は野面積と呼ばれる古いスタイルです.

 しかし関ヶ原の戦いで青山氏は西軍に与したため戦後改易となり,代わって今村盛次,次いで本多成重が入りました.日本一短い手紙

 「一筆啓上、火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

で知られる本多重次は成重の父です.

Hokuriku_039 (写真3) 有名な一筆啓上の石碑

 しかし元禄八年(1695年)に起こったお家騒動により本多氏も改易となり,代わって有馬清順が入り以後有馬氏の治世のまま明治維新を迎えました.明治四年に廃城となりました.以後は城郭の主だった建物は解体され,堀も埋め立てられてしまいましたが,天守のみ破壊を免れ保存されました.

Hokuriku_024 (写真4) 現在の丸岡城は桜の名所として知られています.訪問時には散り始めていました.

 現在は霞ヶ城公園として整備され,春には桜の名所となっています.また丸岡城の天守は,現存十二天守の中で最古のものといわれています.

 丸岡城へのアクセス: JR福井駅から京福バス本丸岡行きで約40分です.

スタンプの設置場所 公園のふもとの一筆啓上茶屋にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 天守以外の部分はほとんど解体されてしまっているので,簡単に見て歩けます.

36maruoka 登城日 2009年4月18日

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2009年11月 8日 (日)

怒涛の週末

 さっき帰宅しました.

 例年秋はムチャクチャ活動的になる私ですが,今年はとりわけ激しいような気がします.この週末も全く家にいませんでした.

 今回は土日に加えて,いっぱい余っている年休をもらって金曜日から出かけてきました.3日間の予定はこんな感じです.

 11月6日(金) 第2回日光江戸村扮装ツアー(思いっきり私的イベント)

 11月7日(土) 盛岡で仕事関係の重要な会議(思いっきり公的イベント)

 11月8日(日) 仙台で来年1月のコンサートに向けた強化練習(やや私的イベント)

 さらに今回はJR東日本の土日きっぷを使ったため,山形城・多賀城・白河城の訪問もやってしまおうという欲張った日程となりました.

 6日の江戸村イベントは今年の7月に決行して楽しかったので,ぜひまたやろうと計画していたものでした.11月に入ってから急に冷えてきたので,日光は寒いだろうと厚着していったんですが,日頃の行いがいいのか天気は快晴(私を含め晴男・晴女が4人もいたからというウワサ),汗ばむほどの陽気でした.前回の参加者が中心でしたが,新手の人や無理やり扮装させられた人なんかもいて楽しかったです.もちろん写真を撮ったりして遊びました.夜は新選組関係の我が盟友コシゾウさんの屯所で宴会です.いろんな話題で盛り上がりました.私以外の非地元の参加者はそのまま夜の新幹線で帰宅,私のみ宇都宮に宿泊しました.

 で,翌朝11月7日は6時起床,7時の新幹線で一路北へ向かいます.前日は酔っ払ってブログの方,全く手付かずだったので車内でモバイルノートを広げ,さあ昨日の写真の一枚でもアップするかと思ったら… デ,デジカメがない!! とムンクの叫び状態になった私でした.さてはホテルかと前夜の宿泊先に連絡し見てもらうもそれらしいものは無しとの返事,では宴会の席かとコシゾウさんにメールして探してもらいました.結局無事に発見されたとの連絡がありホッと胸をなでおろしたのでした.

 さて7時に宇都宮を出たからといってそのまま素直に盛岡入りするはずもありません(笑い).乗った新幹線は実はつばさ号,そう山形行きです.山形に行って山形城近くの最上義光記念館で100名城スタンプをゲットしました(城郭そのものは以前じっくり見たことあり).

 その後は再びつばさ号で福島へ,そこでやまびこ号に乗り換え仙台,さらに仙石線で多賀城に向かいます.もちろん目的は多賀城のスタンプ,多賀城自体は昨年じっくり見学しているのでパスしました.

 そして再び仙台に戻り駅の立ち食いそばを食べて,新幹線でいよいよ盛岡入りです.駅で会議用の立派なスーツに着替えてタクシーで会場入りしました.緊張するイベントでしたが,なんとか無事に終了しました.その後は宴会(ワインがメインのお店でした)に参加して盛岡駅前のホテルに宿泊しました(寝る前に盛楼閣に冷麺を食いに行ったのはいうまでもありません 笑).

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(写真左) 白河小峰城,(同右) 盛楼閣の冷麺

 でもって,翌11月8日は朝6時に起床,6時40分の新幹線で一路南に向かいます.この日は仙台での練習なんですが,まっすぐ仙台に行くはずがありません(笑).仙台を通り過ぎてそのまま白河へ.ここで白河小峰城のスタンプをゲットして,その後仙台に戻り,練習そして帰宅となったわけです.

 またまた激しい週末でした.

200911081041000  白河駅はSuicaの首都圏エリアと仙台エリアのちょうど切れ目にあたるらしいです.まさに国境と感心したのでした.

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2009年11月 4日 (水)

日本100名城スタンプラリー64

日本100名城 安土城(51番)

 滋賀県安土町には100名城に選定された城が2つもあります.そのうち1つが前回紹介した観音寺城でもう一つが安土城です.

P2080172 (写真1) 安土城には石垣がたくさん使われています.

 観音寺城が戦国時代までの中世の城とすれば,この安土城は近世城郭の始まりともいえるでしょう.中世の城が実用本位の軍事要塞・砦といった趣だったのに対して,近世のそれは軍事的側面に加えて為政者の居住空間や権威の象徴といった意味合いも付加されています.特に近世城郭の象徴ともいえる立派な天守はこの安土城から始まったと言われています.

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(左写真2) 大手道,(右同3) 二の丸跡

 安土城を築いたのは織田信長ですが,信長の居城は当初は尾張の清州城でした.その後永禄十年(1567年)に美濃の斎藤龍興を追放して,斎藤氏の本拠岐阜城(稲葉山城)に入りましたが,畿内の平定をほぼ終えた天正四年(1576年)に安土城を築きここに移ってきたのです.

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(左写真4) 大手道の敷石に使われた石仏.信長の宗教観が現れているんでしょうか,(右同5) 信長の側近森蘭丸の屋敷跡 

 以後は信長による天下布武の本拠地となりましたが,天正十年(1582年)の本能寺の変後の豊臣秀吉らと明智光秀とのいわゆる山崎の戦の後のドサクサの中で天守は焼失したとされています.その後もしばらくは織田氏の居城として使われていたようですが,天正年間中には廃城となったようです.

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(左写真6) 天主台です,(右同7) 信長の本廟です

 安土城は安土山全体を利用して築かれた山城です.同じ町内にあり徒歩圏内の観音寺城の影響を強く受け,石垣がふんだんに使われています.そしてなんといってもこの城の象徴と言えるのが天守(天主)です.当時日本で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師も「これほど壮麗な城はヨーロッパにもない」と伝えているそうです.それがどのようなものであったか,正確な絵図面等が発見されていないことから不明な点が多いですが,七重であったとか屋根が金色であったなど様々な伝聞があります.

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(左写真8) 城郭内にある摠見寺三重塔,(右同9) 復元された天主の一部

 近代になってから発掘,保存が行われるようになり,現在城郭は国の特別史跡に指定されています.当時の建築物はもちろん遺されてはいませんが,石垣や堀,天守台などの遺構に加え,大手道などが復元整備され,当時の威容を偲ぶことができます.また町内には資料から復元した天守の一部が保管されている安土城天主信長の館もあります.

安土城へのアクセス: JR安土駅からレンタサイクルで15分程度です.

スタンプの設置場所 安土城天主信長の受付にあります

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 良く整備されているため歩きやすいですが,山城なのでそれなりに大変です(観音寺城の後で来ると楽に感じます).

51aduchijo 登城日 2009年2月8日

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2009年10月22日 (木)

日本100名城スタンプラリー63

日本100名城 観音寺城(52番)

 久しぶりの100名城ネタです.滋賀県安土町は町内に2か所の100名城を有するキャッスルタウンなんですが,そのひとつが今回紹介する観音寺城です.

 観音寺城は標高430メートルの繖山(きぬがさやま)の山頂に築かれた山城です.この地は中世には東山道や八風街道の筋にあたる交通の要衝でした.

Kannonjijo1 (写真1) 南から見た繖山の全景

 城の歴史は南北朝時代にさかのぼると言われています.太平記によると建武二年(1335年)に六角氏頼が後醍醐天皇の側近北畠顕家の軍勢に備えるためにこの地に入ったとなっています.ただこの時期は臨時の簡易砦といった趣であり,本格的な城郭と呼べるものではなかったようです.

 ここが本格的な城郭になったのは応仁の乱(1467~1477)の頃でした.当時の当主六角高頼は西軍に属していたため,東軍側の京極氏との間で三回にわたって観音寺城の攻防戦が行われています.

Kannonjijo2 (写真2) このような石段をひたすら上ります.

 戦国時代に入るとこの城の整備はさらに進み,天文年間には今に残る各郭の石垣が築かれたと言われています.中世の城郭でこれほど石垣が作られた城は例がなく,このことからも観音寺城が特異的な城郭であったことがわかります.

Kannonjijo3 (写真3) 観音正寺の境内

 永禄十一年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛,この時六角氏は信長に対抗しましたが,支城である箕作城が落とされるとそのまま観音寺城から撤退し,城は無血開城となりました.そして安土桃山時代になり,信長によって近くに安土城が築かれると観音寺城の方はそのまま廃城となったのです.

Kannonjijo4 (写真4) 本丸の石垣

 現在観音寺城は往年の石垣が残る城跡となっています.その範囲は広大でその全貌を見るのはなかなか大変です.散策としては繖山の南方の石寺楽座会館から登っていくコースが一般的です.石段を登っていくと30分ちょっとで観音正寺に到着します.ここは聖徳太子ゆかりのお寺と言われ,室町時代には観音寺城の六角氏の庇護で栄えたそうです.この観音正寺からさらに歩いて10分ほどで本丸です.当時の石垣などがよく残っていました.

Kannonjijo5 (写真5) 平井丸の虎口

観音寺城へのアクセス: JR安土駅からレンタサイクルで15分で石寺,そこから徒歩40分で観音正寺です.

スタンプの設置場所 観音正寺の受付にあります

登城のハード指数(★★★ かなりハードです) 石寺から観音正寺まで40分ひたすら石段を登ることになり,かなり大変です.しかも観音正寺が終点ではなく,実際の城郭はそこからさらに歩くことになります.

52kannonjijo 登城日 2009年2月8日

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2009年10月 4日 (日)

日本100名城スタンプラリー62

日本100名城 小谷城(49番)

 戦国時代末期,天下布武を掲げて戦った織田信長最大の危機が,元亀元年(1570年)の越前金ヶ崎の戦いです.

 京都を拠点に周辺の大名を勢力下に収めつつあった信長は,敵対していた越前の朝倉義景を攻めるために出陣しました.当初織田軍が優勢でしたが,彼の義弟で同盟関係にあった北近江の浅井長政が裏切り一気に前後から挟み撃ちにされる態勢になったからです(とはいっても,元々浅井と朝倉は盟友であり,この時の信長の朝倉攻めも,事前に浅井方には知らされていなかったといいますから,こうなるのは予想できたという見方もあります).この時信長は木下秀吉(豊臣秀吉),池田勝正らの奮戦によって九死に一生を得ることができました.この時信長を裏切った浅井長政の居城が小谷城です.

P2070033 (写真1) この小谷山全体が城でした.

 小谷城は琵琶湖の東岸,標高約500メートルの小谷山と,そこから南に伸びる尾根筋に築かれた典型的な山城です.築城時期は長政の祖父亮政の代,16世紀初めといわれています.以来長政まで3代にわたって浅井氏の居城でした.この城がいかに堅固だったかは,元亀元年6月の姉川の合戦で大敗を喫して城に逃げ帰った浅井氏を信長はすぐに攻撃できず,結局小谷城を落城させるために4年の年月を要したことでも判ります.

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(左 写真2) 大手道入り口.ここからひたすら登山です.(右 同3) 本丸

 浅井氏滅亡後ここには羽柴秀吉が入りましたが,秀吉は琵琶湖岸の長浜城を居城としたため小谷城は廃城となりました.戦国時代の城跡であり当時の建造物はもちろん残ってはいませんが,尾根線に沿って築かれた曲輪の様子はよく保たれており,堀切や当時はまだ珍しかった石垣なども見ることができます.

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(左 写真4) 大石垣,(右 同5) 山王丸

 散策ルートはありますが,遊歩道などが整備されているわけではないので登城にはかなりの気力と体力を必要とします.本丸から少し離れたところに浅井長政自刃の地といわれる赤尾屋敷跡がありますが,ここに向かう途中でカモシカに遭遇しました.体力的にキツイ城跡なので,登城に適した季節は晩秋から冬にかけてと思われます(雪の日は除く).

P2070084P2070080 (左 写真6) 浅井長政自刃の地,(右 同7) 途中遭遇したカモシカ

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小谷城へのアクセス: JR河毛駅からコミュニティバスで10分程度,レンタサイクルもあるようです.

スタンプの設置場所 麓の小谷城戦国歴史資料館受付にあります

登城のハード指数(★★★ かなりハードです) 資料館から大手道を通って尾根沿いに各曲輪を見学していくと,山王丸まで1時間近く山登りになります.

49odanijo 登城日 2009年2月7日

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2009年9月23日 (水)

日本100名城スタンプラリー61

日本100名城 宇和島城(83番)

 久しぶりの100名城ネタです.9回にわたった四国シリーズの最後を飾るのは愛媛県南部にある宇和島城です.

P1120359 (写真1) 宇和島城の現存天守

 今に残る宇和島城の基礎を造ったのは築城の名手と呼ばれる藤堂高虎で,文禄四年(1595年)に豊臣秀吉からこの地を与えられ入封したことに始まります.彼はただちに築城にとりかかりましたが,その後の関ヶ原の戦いで家康に味方した功績から高虎は今治に加増移封となりました.その後紆余曲折を経て,慶長十九年(1614年)に伊達政宗の長男秀宗が10万石で入り伊達宇和島藩が立藩されました.秀宗は政宗の長男でしたが側室の子だったため伊達本家を継ぐことができず,政宗の計らいで宇和島藩主となったものです.ただし同じ伊達姓ではありますが,この宇和島藩は仙台藩の支藩ではなく,れっきとした独立の大名です.

P1120344 (写真2) 本丸に向かう道と石垣

 その後江戸時代を通じて宇和島藩は伊達家の領国となり幕末を迎えました.幕末期の藩主が俗に四賢侯の一人に数えられる伊達宗城です.

 宇和島城は宇和島市の中心部の丘陵地帯に建つ平山城で,その外郭は五角形をしています.今でこそ内陸に建つ城に見えますが,当時は海岸線が今よりずっと内陸に迫っていました.このため城郭の北側と西側は直接海に面しており,当該部分の堀には海水を引くなど海城の面もあったそうです.

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(左 写真3) 桑折氏武家長屋門,(右 同4) 上り立ち門

 明治維新後廃城となり,以後多くの建物が解体されていきましたが,寛文十一年(1671年)に改修された天守が現存しており,その他門や石垣などから往時をしのぶことができます.

P1120368(写真) 宇和島城のイメージ図

宇和島城へのアクセス: JR宇和島駅から徒歩10分で登山口に着きます.

スタンプの設置場所 天守入り口にあります

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 普通の公園感覚ではきついです.ただ他の★ふたつの城ほどではありません.★ひとつ半といったところでしょうか.

83uwajimajo 登城日 2009年1月12日

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2009年8月27日 (木)

日本100名城スタンプラリー60

日本100名城 大洲城(82番)

 この日本100名城シリーズもついに60まできました.飽きっぽい私にしては上出来です.

 さて,そんな60番目の訪問先は愛媛県中部に位置する大洲城です.ここは松山からの大洲街道と宇和島からの宇和島街道が出会う交通の要衝で,江戸時代には大洲藩が置かれていました.

Ozu1 (写真1) 肱川の対岸から見た大洲城

 そんな大洲に初めて城郭を築いたのは鎌倉時代末期の伊予国守護,宇都宮豊房と言われています.その後宇都宮氏が200年以上にわたってこの地を支配していましたが,戦国時代末期に土佐の長宗我部氏と結んだ家臣の大野直之によって乗っ取られます.しかし,天正十三年(1585年)に四国平定に乗り出した豊臣秀吉の先鋒小早川隆景に攻められ落城となります.

Ozu3 (写真2) 中央の再建天守を挟んで左が高欄櫓,右が台所櫓(櫓はいずれも重文).

 豊臣政権下の大洲は当初の小早川隆景から戸田勝隆,藤堂高虎と城主が交代しました.特に築城の名手といわれた藤堂高虎の時代に天守や櫓等の建造物が造られたといわれます.関ヶ原の戦いを経て,高虎が伊勢に移封されると大洲藩が立藩され,脇坂安治,次いで加藤貞泰が城主となり,以後幕末まで加藤氏の支配が続くのです.

Ozu7 Ozu4 (左 写真3) 内部の様子手前の現存部分と向こうの再建部分の違いがよくわかります.(右 写真4) 本丸の石垣です.ここも築城の名手藤堂高虎の城なのです.

 明治維新後は廃城となり,天守を含めた多くの建物が解体されましたが,櫓の一部などが保存され,さらには平成十六年に明治初期の写真等から天守が木造で再建され,現在は城郭一帯が県の史跡に指定されています.

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(左 写真5) 市街地に現存している南隅櫓.(右 写真6) 堤防の上に現存している苧綿櫓.

 規模としては決して大きいとはいえませんが,特に現存の二つの櫓(台所櫓・高欄櫓)の間に再建された天守が立つ光景は,再建の違和感が全く無く,城郭の保存整備はこうすべきというお手本のようでした.

大洲城へのアクセス: JR伊予大洲駅から徒歩20分または循環バスにて13分市民会館前下車徒歩(循環バス時刻表 本数が少ないので注意)

スタンプの設置場所 天守の隣,台所櫓の受付にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園感覚です.周辺の櫓を回ってもさほど苦労しません.

82ozujo 登城日 2009年1月12日

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2009年8月14日 (金)

日本100名城スタンプラリー59

日本100名城 湯築城(80番)

 愛媛県松山市の城といえば,なんといっても現存天守のある松山城が圧倒的に有名です.しかしこの街には,実はもう一つの100名城が存在します.

Yuzuki1_2 (写真1) 湯築城です

 それが湯築城(ゆずきじょう)です.松山市内の有名な温泉地道後温泉そばにある道後公園がそこにあたります.ここは松山城が造られる前,南北朝時代から戦国時代末期にかけての伊予国の中心地でした.城を築いたのは鎌倉幕府の御家人だった河野通盛で建武三年(1336年)といわれています.彼 は南北朝の争乱で足利将軍家に味方して最終的に伊予の守護となりました.その後近隣の諸勢力や身内との争いもありましたが,戦国時代末期まで伊予の支配を続けました.

Yuzuki2 (写真2) 湯築城の堀と土塁

 しかし,天正十三年(1585年)に全国統一に乗り出した豊臣秀吉にはかなわず,遠征軍の将小早川隆景に降伏,河野氏による伊予支配は終焉を迎えました.開城後,湯築城には小早川隆景が入りましたが,間もなく移封されました.代わって天正十五年(1587年)に福島正則が入りましたが,彼はまもなく今の今治にあった国分山城に居城を移し,湯築城は廃城となったのです.

Yuzuki3 Yuzuki5 (左 写真3) 丘に登る道,(右 同4) 丘の上からは松山城が見えます

  かつて湯築城があったところは現在道後公園となっています.湯築城は小高い丘に三段の曲輪を置いた丘城でしたが,戦国時代になって丘の周囲に二重の堀と土塁が造営され平山城となりました.当時の建物は一切残っていませんが,堀や土塁から往時の姿をしのぶことができます.

 松山城の方は圧倒的に観光客が集まる城でしたが,こちらの湯築城(道後公園)は逆に地元の人たちの憩いの場になっているようでした.

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湯築城へのアクセス: JR松山駅から伊予鉄道道後温泉行きで18分,道後公園下車すぐ

スタンプの設置場所 公園内の湯築城資料館にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園です.丘に登るのもさほどの労力を要しません.

80yuzukijo 登城日 2009年1月12日

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