2017年5月 8日 (月)

岩国観光

 5月3日は徳山に宿泊,夕食は駅前の小料理屋さんでした(そういえば自分の人生で徳山に宿泊したのは初めてだ!).

 翌4日は朝から一日岩国市の観光となります.岩国といえば錦帯橋と岩国城ですが,それだけではありません.自分的に極めて重要なスポットがあるのです.それが寂地峡五竜の滝,山口県唯一の100選滝です.錦帯橋の架かっている錦川の支流、宇佐川のさらに上流の寂地川に架かる滝です.

 徳山の中心部から国道315号線を北東方面に進み,須々万から国道434号に入って中国山地の奥深くへ,途中には対向車とのすれ違いも困難な個所もありました(いわゆる酷道というやつ).約1時間40分ほどで寂地峡に到着,駐車場に車を停めて散策開始です.寂地峡五竜の滝は連続した5つの滝を一匹の竜に見立てた滝群です.本来寂地峡は大きな峡谷で,滝以外にも見どころはあり,その気になって散策するとそれこそ丸一日かかるんですが,五竜の滝だけを見るならそれほど苦労はありません.駐車場から最奥の滝である竜頭の滝まで遊歩道で15分ほどでした(滝散策の難易度は低い).滝のある寂地川は清流でここは日本の名水100選にもなっています.この日は朝から良いお天気で,春の峡谷散策は非常に気持ちが良かったです.

P5041136_2 P5041146 (左写真1) 中国山地の奥地寂地峡,(右同2) 五竜の滝の最初竜尾の滝です

P5041160 P5041188 (左写真3)登竜の滝,(右同4) 竜頭の滝

 観瀑の後,今度は岩国市内を目指します.これまた約1時間半ほどの距離でした(それにしても岩国市は広い 笑).先ほどの滝の駐車場も結構混んでいたんですが,岩国市内の混みっぷりは半端ではありません(さすがGW).錦川河川敷の大駐車場はすごい数の車でごった返していました.

P5041218 9f9b9_0003025810_3 (左写真5) 岩国寿司と蓮根麺のセット,(右同6) 岩国寿司は本来ビッグサイズです

 さっそく観光と行きたいところですが,ちょうどお昼時ということで錦帯橋目の前にある食堂しらため別館さんへ.地元名物の岩国寿司と蓮根麺のセットを注文しました(どうでもいいが,自分たちが入った直後からわらわらと客がやってきてすごい行列に,相変わらず運がいいな自分 笑).岩国寿司はご飯と具材(錦糸卵や蓮根,魚介など)を何層にも重ねて大量に作り切り分けるスタイルです.一種の押し寿司なんですが,食感はちらし寿司に近いと思いました(元は山城での戦に備えた保存食だったとか).

P5040339 (写真7) 錦帯橋パノラマ写真

 食事の後はいよいよ錦帯橋へ.自分は過去何度か来たことがありますが,ウチのKは初めての訪問だそうです.江戸時代の前期,延宝元年(1673年)に架けられた錦帯橋は世界的にも珍しい木造による5連のアーチ橋です.架橋から270年もの長期にわたって多くの人々の往来を見守ってきましたが,昭和25年の台風によって流失してしまい,現在のものはその翌年に復元されたものです.以前来たときは通行人も少なくゆったりでしたが,この日はGWということでものすごい人でごった返していました(笑).

P5041315 P5041232 (左写真8) 記念写真,(右同9) 大勢の観光客で賑わっています

(写真10) これまた岩国名物シロヘビ

 橋を渡ってそのまま岩国城方面へ,ただし城に登るロープウェイが混雑で40分待ちという情報が入ったため,先に麓のシロヘビ館に行きました.岩国は名物がたくさんある土地ですがシロヘビもまたその一つです.本来はアオダイショウのアルビノなんですが,なぜかこの土地に多く生息しているということで,古くから神聖視され保護されてきた歴史があります.このシロヘビの館は以前来たときは小さな小屋という感じだったんですが,昨年新しい建物に新装されたようでした.

P5041246 P5041272 (左写真11) 新装なったシロヘビ館,(右同12) シロヘビです

 シロヘビの後,少しは空いたかと思いロープウェイへ,さすがに40分待ちという状況は改善されたようでしたがそれでも30分近く待たされました(笑).

P5041299 P5041297 (左写真13) 岩国城模擬天守,(右同14) 山上からの岩国市内と錦帯橋

 ロープウェイに乗ること数分で横山山上に到着,ここから徒歩数分に岩国城の模擬天守が立っています.岩国城は慶長十三年(1608年)に完成しましたが,元和元年(1615年)の一国一城令によって破却されたため,城としてはわずか8年という短命に終わっています.しかも当時の天守があった場所は今とは違って,より錦帯橋よりも遠い場所(今でも天守台がある)にあったことがわかっています.今の場所に天守が建てられたのは純粋に下界から見た時に錦帯橋とのコラボがカッコいいからにすぎません(多分).天守内部には各種刀剣や昔の資料等が展示されています.

P5041302 P5040351 (左写真15) かつて政庁があったとされる場所に建つ錦雲閣,(右同16) 岩国名物蓮根を使ったコロッケ(美味です)

 岩国城見学の後は再びロープウェイで下山,周辺を散策して家路につくことになります.来るときは新幹線だったんですが帰りは飛行機です.車で岩国空港に向かったんですが,市内中心部からは2キロほどで歩いても行ける距離でした.さばを読んで行ったら時間が余りすぎたので売店でお酒を買って飲んでしまいました(もちろんレンタカー返却後です 笑).こうしてGW山口旅行は無事に終了したのでした.

18195122_1308476985916330_211272516 (写真17) 山口の美味い酒大集合\(^o^)/

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2014年8月20日 (水)

日本100名城スタンプラリーの運用

 みなさんこんにちは.当ブログには日本100名城スタンプラリー関連の記事がたくさんあります.実はこれ,本来は自分のホームページに記事を書くべきところ,当時は時間が取れなかったこともあって,備忘録的にブログ内に記事を書いていたのが,いつのまにか常態化したというのが実際でした.そのためホームページの100名城ページからブログにリンクを張る形での運用を行ってきました.
 しかし今回夏前あたりから少しずつホームページへの引っ越し作業を開始し,このたびすべての作業が完了しました.

 日本100名城スタンプラリー

もちろんブログの方の記事も削除はせずこのまま残していきます.今後は滝100選,道100選の方も引っ越し作業を開始する予定です.

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2014年3月21日 (金)

日本城郭検定

Mejogado 以前日本100名城スタンプラリーにハマっていて,機会を見つけては全国を飛び回り,結局2008年5月から2011年1月にかけてすべての城郭の登城を完了しました(日本100名城スタンプラリー).その後は日本の滝100選,さらには日本の道100選の方に興味が移ったこともあり,お城の方はご無沙汰なんですが,アクセス解析によると今でも当ブログを訪問する方のキーワードでは100名城関連が多くみられます.そんな関連で検索していたら非常に興味深い話題にたどり着きました.

 日本城郭検定

 これは日本100名城を選定した日本城郭協会が主催している検定です.境港妖怪検定の存在を知った時もビビビッとなった私,当然のように今回も琴線が大いに触れました(笑).

 サイトによると現在,日本100名城をテーマにした城郭検定が行われていること,次回は6月1日日曜日に第4回が各地で行われること,受験種目は簡単なものから4級(入門・シロップ級),3級(初級),2級(中級),準1級(武者返し級)の4段階で,併願もできるとのことでした(併願割引もあり).6月1日といえば,自分がらみの主要な学会が一段落した時期です.参加するための障害は軽度,こりゃぜひ挑戦したいものだと思いました.受験に際しては各種併願割引もあるようで,せっかくだから下から順に受けてみようかなと思ったのでした.で日程を見ると4級,3級,2級を併願することが可能です(さすがに準1級を入れるガッツはまだない).3つの級占めて受験料は11,100円,うーん,払えない金額ではないのだが…

 と悩んでいるのでした(悩む暇があるのならさっさと申し込めというウワサはあるのだが…).早めに申し込むと割引特典もあるそうです.また各級ごとに公認テキストも用意されているらしく,そちらを眺めるのも楽しそうだなと思いました.

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2011年12月23日 (金)

日本100名城スタンプラリー100

日本100名城 備中松山城(68番)

 2008年5月から始めた日本100名城スタンプラリー,ついに完結です(とはいっても,実際の登城は今年の1月に完結してるんですが 笑).有終の美を飾る100城目は岡山県の備中松山城です.松山城というと愛媛県にある伊予松山城もあってこちらも有名ですが,県庁所在地にあるという点が有利に働いたのか,普通松山城というと伊予松山城を指すので,岡山のそれは備中松山城と呼ばれています(神奈川の横浜に対する青森の陸奥横浜のようなものでしょう 笑).

Okayamaensei2_135(写真1) 本丸の現存天守 

 とはいえ,この備中松山城,決して伊予松山城の後塵を拝しているわけではありません.ここもまた現存12天守の城だからです(伊予の松山城も現存天守です).備中松山城は岡山県の高梁市にある標高430メートルの臥牛山の山頂に天守をいただく典型的な山城です.岩村城・高取城とならんで日本三大山城とも呼ばれています.

Okayamaensei2_090(写真2) 大手門付近から見上げる石垣と土塀

 この地に城が築かれたのは結構古く,鎌倉時代の仁治元年(1240年)にこの地の地頭だった秋葉重信が築いたのが最初といわれています.その後歴代の城主によって拡張が行われ,戦国時代の三村元親の頃には複数の山の頂にまたがる大城塞となっていました.しかし当時この地は織田・毛利両軍のせめぎ合う土地であり,元親はその間で翻弄されて最終的に毛利氏によって滅ぼされました.その後は毛利方の城として安土桃山時代は過ぎていきます.

Okayamaensei2_100(写真3) 三の丸から見える石垣群,壮観です

 関ヶ原の戦いの後毛利氏の勢力が大きく後退すると,当初この城は天領となりましたが大坂の陣の後,元和三年(1617年)に池田輝政の甥の池田長幸が6万5千石で入封し備中松山藩が立藩されました.池田氏は2代藩主が無嗣改易となり,その後寛永十九年(1642年)に水谷勝隆が5万石で入封,その子水谷勝宗が城の整備を行い今に残る城郭が完成しました(江戸時代になると山城は現実的には政務を行うには不便であるため,山麓に御根小屋と呼ばれる御殿が造られました).

Okayamaensei2_149(写真4) 二の丸から本丸を望みます

 しかし水谷氏もまた元禄六年(1693年)4代勝晴の死後無嗣改易となってしまいました.ちなみにこの時,城明け渡しから城番を務めたのが後に元禄赤穂事件で有名になる大石内蔵助でした.その後紆余曲折を経て,延享元年(1744年)に板倉勝澄が入り幕末に至ります.

Okayamaensei2_143(写真5) これも現存の二重櫓

 明治維新後廃城となり山麓の施設は破壊されましたが,天守など山上の建物は破壊をまぬかれました.城郭保存の機運が高まった昭和に入ってから当時の国宝に指定されて修復が進み,戦後は文化財保護法に基づき天守などが重要文化財に指定され現在に至っています.現在でも天守をはじめ櫓や土塀,石垣などが現存し当時の姿をしのぶことが出来ます.

Okayamaensei2_084(写真6) 城内にはこのような立札がたくさん立っています

 城郭は山城らしく,駐車場のある鞴峠から参道をひたすら登っていきます.しばらく進むと大手門跡に到着,ここから順に三の丸,二の丸,本丸と登っていきます.本丸からはさらに大松山の城跡に行ける道があるんですが,私が訪問した時は残念ながら崩落で通行止めになっていました.

 尚,この備中松山城は現存12天守のひとつという非常に有名なお城なんですが,構内に売店や食堂といった施設はありません(駐車場の自販機のみ).なので昼食等は済ませてから来ないと大変なことになります(登城に必要なエネルギーが確保できません).

Okayamaensei2_110備中松山城へのアクセス: JR高梁駅からバスで10分松山城登山口下車徒歩20~30分(時刻表)です.マイカーまたはタクシーなら鞴峠の駐車場まで行くことが出来ます(ただし土日はふもとの鶴見橋駐車場までで,そこからはシャトルバス利用になります).

スタンプの設置場所 本丸入口の料金所にあります.

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 山城なのでかなり歩くことになります.

68bicchumatsuyamajo登城日 2011年1月25日

 

 

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2011年12月17日 (土)

日本100名城スタンプラリー99

日本100名城 鬼ノ城(69番)

 日本10名城スタンプラリーもいよいよ99城目,ラス前は古代城として知られる鬼ノ城です.古代城というのは主に古墳時代から平安時代にかけて築かれた城郭です.日本100名城としては東北地方の多賀城,九州にある大野城,そして本日のテーマである鬼ノ城があります.

Okayamaensei1_530(写真1) 鬼ノ城のジオラマ

 このうち多賀城は大和政権の律令国家が東北地方に勢力を伸ばす過程で築かれた出先の城ですが,大野城とこの鬼ノ城は古墳時代の7世紀,663年に白村江の戦いで敗北した天智天皇が大陸からの侵攻に備えて造らせたといわれています.ただ,九州の大野城は日本書紀にそのような記述があるので確実ですが,この鬼ノ城については文献的に裏付ける資料がないとされています.

Okayamaensei1_534(写真2) 復元された西門付近

 鬼ノ城は現在の岡山県総社市にある鬼城山の山頂の周辺を一周3キロ近くにわたって石垣や土塁で取り囲んだ構造となっています.城壁の所々には人や物資が出入りする門や城内の水を管理するための排水口である水門が造られていました.また城壁の内部には居住空間や倉庫などの建物の跡も残されています.

Okayamaensei2_026(写真3) 屏風折れの高石垣

 鬼ノ城という名称ですが,当時朝鮮半島において新羅に滅ぼされた百済国の王子(その名を温羅という)がこの地にすみつき,往来の物資を略奪するなどの狼藉を働いたため,恐れおののいた地元民がここを「鬼が住む城」という意味でそう呼んだという伝説があるそうです(これが桃太郎伝説の原型といわれます).

Okayamaensei1_555Okayamaensei2_057(左写真4) 北門跡,(右同5) 南門跡

 7世紀当時国内では大陸からの侵攻が真剣に心配されていましたが,唐や新羅は当時朝鮮半島北部にあった高句麗への攻撃を優先させたこと,さらには肝心の唐王朝の宮廷内部に,いわゆる武韋の禍と呼ばれる政変が起こったために現実となることはなく,この鬼ノ城も実戦で使われることはありませんでした.

 その後大陸の脅威が薄れるにつれて忘れ去られた城となり,歴史の中に埋もれていきました.

 しかし,1970年代から調査が始まり1986年には国の史跡に指定され,西門を中心とした復元も行われています.

Okayamaensei1_554鬼ノ城へのアクセス: JR総社駅から車で20分.公共交通機関がないのでタクシーまたはレンタカー利用となります.最寄駅はJR吉備線の服部駅ですが,歩くとどれだけかかるかは不明です.

スタンプの設置場所 鬼ノ城入口にある鬼城山ビジターセンターにあります.

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 城内は広く,各史跡が点在しているため結構歩くことになります.

69kinojo登城日 2011年1月25日

 

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2011年12月 6日 (火)

日本100名城スタンプラリー98

日本100名城 津山城(67番)

 日本100名城,岡山県の2城目は内陸部,中国山地の山間にある津山城です.岡山県の中国山地の山間というと,日本を代表するミステリー作家,故・横溝正史氏がしばしば舞台として取り上げていた地域です(八ツ墓村,悪魔の手毬唄等).氏の作品が好きだった私も訪れてみたかった土地です.岡山県北部地方は旧名でいうと美作国になりますが,江戸時代に美作国にあったのが津山藩でその藩庁だったのが津山城です.

Okayamaensei1_516(写真1) 再建された備中櫓

 美作国は古来その地域を中心とする強い勢力がなかったこともあり,常に周辺諸勢力がせめぎ合う最前線でした.そんな美作を初めて安定的に支配したのは関ヶ原の戦いで東軍勝利に大きな貢献をした小早川秀秋でした.彼は戦の功績によって備前・美作55万石の大大名となったからです.しかし彼の本拠は岡山城だったので,この段階ではまだ津山城は存在しません.慶長七年(1602年)に秀秋が急死,小早川家は無嗣改易となると彼の領地は分割され,その美作部分が織田信長の小姓として有名な森蘭丸の弟,森忠政に与えられました.そしてこの美作を中心とする新しい藩の藩庁として築かれたのが津山城です.慶長八年(1603年)から元和二年(1616年)まで足かけ14年かけて建設されました.

Okayamaensei1_456Okayamaensei1_467(左写真2) 三の丸から二の丸へ,(右同3) 表鉄門跡

 津山城は津山盆地の中心にある鶴山に築いた平山城です.山頂部分に本丸を置き,その周辺を二の丸,さらにその外側を三の丸とした構造になっています.各々の外郭は高い石垣で囲まれ,遠方からは三段に構えられた壮麗な石垣が望まれます.本丸の天守台には五層の壮大な天守閣が置かれ,各所には合計60棟の櫓があったそうです(この櫓の数は広島城の76棟,姫路城の61棟についで全国3位なのだそうです).

Okayamaensei1_526(写真4) 濠から本丸を眺める

 森氏が治めた津山藩は元禄十年(1697年)に改易となり,その後は徳川家康の子で豊臣秀吉の養子にもなっていた結城秀康を祖とする越前松平家出身の松平宣富が入り,以後幕末に至りました.

Okayamaensei1_480Okayamaensei1_485(左写真5) 天守台,(右同6) 天守台からの眺め

 明治以後廃城となり,天守をはじめとするすべての建物は解体されましたが,三段にわたる壮大な石垣はほぼそのままに遺されました.昭和38年に国の史跡となり,平成14年(2002年)に築城400年を記念して,備中櫓が木造で復元され,往時の姿を偲ばせています.

Okayamaensei1_444
津山城へのアクセス: JR津山駅から徒歩15分程度です.

スタンプの設置場所 備中櫓の受付にあります.

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 多少の登りはありますが普通の都市公園です.

67tsuyamajo登城日 2011年1月24日

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2011年11月23日 (水)

日本100名城スタンプラリー97

日本100名城 岡山城(70番)

 日本100名城シリーズも残すところ岡山県の4城のみとなりました.今日のテーマは県庁所在地である岡山市にある岡山城です.

Okayamaensei1_394(写真1) 月見橋から見た岡山城天守

 この岡山城を造ったのは戦国時代末期から安土桃山時代の大名である宇喜多秀家です.秀家は豊臣秀吉の養女豪姫(実両親は前田利家とまつ夫妻)を妻にしていたことから豊臣一門として厚遇され,備前・美作を中心に57万石の大大名となりました.この時に居城として築いたのが岡山城です.彼の父直家が居城としていた石山城を拡大,発展させる形で天正十八年(1590年)から8年の歳月をかけて造られました.

Okayamaensei1_336(写真2) 現存する建物である月見櫓

従来の石山城本丸部分を二ノ丸内郭に,同じく二ノ丸を西ノ丸とし,旧本丸の東側に新しい本丸を,堀を挟んで南西側に新しい二ノ丸を置きました.本丸の一番北には黒壁の四重六階の天守が置かれ,その威容から烏城の異名をとることもあります.ただこの城郭,本丸天守が縄張りの北東端に位置し,その方面の防備が手薄です.そのため近隣を流れる旭川の流路を変更して天然の堀としています.

Okayamaensei1_328(写真3) 復元された廊下門

 しかし,城の工事が一段落して間もない慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで,敗れた西軍の主力部隊だった秀家は戦後改易,遠島処分とされてしまいました.代わって東軍で戦で功のあった小早川秀秋がほぼ同じ領地に入ることになりました.しかし秀秋は入場後1年半で急死,跡継ぎのいなかった小早川家は断絶してしまいます.その後旧領のうち岡山城を含む備前の地には池田輝政の次男忠継が28万石で入りました.そして彼の後弟の忠雄によって再び城と城下町の整備が行われ,今に至る岡山城の縄張りが完成しました.

Okayamaensei1_374(写真4) 高石垣,不明門が一部映っています

 その後寛永九年(1632年)忠雄が没したが,跡を継いだ子の光仲は幼少だっただめ,山陽道の重要地点を守る任は重すぎると判断され,同じ池田氏で光仲の従兄弟にあたる鳥取藩主池田光政が岡山藩主となり,光仲自身は鳥取藩主に移るという藩主トレードが行われました.この事情はちょっと複雑で,池田輝政自身の本拠は姫路で,その功績から次男筋を岡山に出していたわけです(すなわち本家が姫路,分家が岡山).しかし元和二年(1616年)に光政が7歳で藩主になると,同じように幼少を理由に鳥取へ移封されてしまったのです(しかも42万石から32万石への減封で).この結果,本家筋が鳥取に,分家筋が岡山という形になっていたのです.

Okayamaensei1_371(写真5) 天守からは堀を挟んで対岸に後楽園が見えます.

 池田光政入封後はそのままその家系が続き幕末に至ります.今も残り日本三名園にも数えられる後楽園が造られたのは光政の子綱政の時です.

 明治以後廃城となり,多くの建物は解体され堀も埋め立てられましたが,天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門のみは存続しました.しかし昭和20年6月の岡山空襲によって天守と石山門は焼失してしまいました.

 現在城跡は烏城公園として整備され,天守や門などの一部施設の復元が行われています.

Okayamaensei1_326岡山城へのアクセス: JR岡山駅前にある岡山電気軌道,岡山駅前から乗車し城下で下車,そこから徒歩10分弱です.

スタンプの設置場所 天守受付に置いてあります.

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.

70okayamajo登城日 2011年1月24日

 

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2011年11月 7日 (月)

日本100名城スタンプラリー96

日本100名城 福山城(71番)

 日本100名城,いよいよラスト5つとなりました.ここからは岡山&広島の5城です.2008年に小田原城から始まったこのシリーズ,なぜ最後に中国地方が残ったのか,私にもよく解りません(笑).ともかく,今回のテーマは福山城です.

Okayamaensei1_314_2(写真1) 福山城の再建された天守

 福山城のある福山市は広島県の最東部に位置し,岡山県の笠岡市に隣接しています(福山からは広島市よりも岡山市の方がずっと近いです).岡山・広島両県は山陽地方といわれますが,この地域を東西に結んでいる道路が山陽道です.現在ならば山陽自動車道や国道2号線がその役割を担っていますが,古来の山陽道は現在のそれよりも若干内陸部を通っていました.そのため,中世における山陽道を要するこの地の中心はかつての深安郡神辺町,現在の福山市神辺にあり,そこには神辺城という城も置かれていました.江戸時代初期にこの地方を治めていた福島正則も神辺城を支城として活用しています.

Okayamaensei1_301(写真2) 現存する門である筋鉄御門 

 しかし元和五年(1619年)に正則が改易され(居城であった広島城を幕府の無許可で修繕した咎によるとされています),彼の領地が分割されると,この地には新たに藩が建てられることになり徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成が10万石で入りました.この新しい藩の居城として新規に造られたのが福山城です(神辺城が使われなかったのは山城であることに加え,海から遠く海運に不便だった点もあるのでしょう).

Okayamaensei1_323(写真3) 新幹線ホームから見た伏見櫓

 城の完成は元和八年とされ,天守に加えて三重櫓が7基もあるという,とても10万石規模の大名の城とは思えない壮大な城郭だったようです.その理由は,この城が毛利氏など西国の外様大名に対する抑えの城と位置付けられていたためと思われます(実際,福山藩ができるまで中国地方には譜代大名家がいなかった).

Okayamaensei1_287Okayamaensei1_277(左写真4) 再建された伏見城湯殿,(右同5) 同じく再建の月見櫓

 その後17世紀末の元禄年間に水野氏は無嗣改易となり,かわって松平氏が,次いで阿部氏が入って以後幕末に至ります.ちなみに幕末のペリー来航時の老中首座阿部正弘はこの福山藩主です.

Okayamaensei1_270(写真6) 幕末の老中首座阿部正弘の像

 明治維新後,全国他の城郭と同様廃城になり,天守や一部の櫓を除くほとんどの建物が解体されました.そして第二次大戦末期の空襲によって天守も焼失してしまいました.戦後は本丸・二ノ丸部分が公園として整備され,昭和40年代には天守や一部の櫓の再建が行われ現在に至っています.

Okayamaensei1_268(写真7) 石垣と鐘櫓

 今に残る遺構としては石垣のほか,福山城建設とほぼ同時期に廃城となった伏見城から移築されたといわれる伏見櫓や筋鉄御門などがあります.福山城はJR福山駅の目の前にあるため,駅のホーム(特に新幹線のホーム)からその雄姿を拝むことができます.

Okayamaensei1_266福山城へのアクセス: JR福山駅の目の前です.

スタンプの設置場所 天守に置いてあります.毎週月曜日の定休日には隣の管理事務所にあります.

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.

71fukuyamajo登城日 2011年1月24日

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2011年10月22日 (土)

日本100名城スタンプラリー95

日本100名城 大分府内城(94番)

 日本100名城,九州最後の城郭は大分の府内城です.府内というのは現在で言う大分市中心部のことで,古来ここに豊後国の国府がおかれていたことに由来します.国府があったことからこの地域でも重要な土地だったことは明らかで,戦国時代には戦国大名の大友氏の領域でした.その後安土桃山時代になると,豊臣秀吉の家臣だった福原直高が入り,彼によってこの地に築城が開始されました.しかし,秀吉の死およびその後の関ヶ原の戦いによって大名の改易・転封があり,結局慶長六年(1601年)に入った竹中重利(秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛の従兄弟)によって一応の完成を見たといわれています.

Okayamaensei1_210(写真1) 府内城の現存する建物である人質櫓

 府内城は大分川と大野川によって形成された三角州(大分平野)上に築かれた城です.現在は内陸にありますが,築城時は河口の船着き場に面して建っていたそうです(400年の間に海岸線がかなり後退したわけですね).

Okayamaensei1_189Okayamaensei1_203_2(左写真2) もう一つの現存構造物の宗門櫓,(右同3) 帯曲輪の跡

 構造は天守のある本丸を中心に,濠を挟んで主として西と南側に西の丸・東の丸がそれを取り囲み,さらに濠を挟んで三の丸や北丸や山里曲輪が配置されるという構造になっていました.一方で北東方面は帯曲輪を隔てて直接海と接していて天然の要害となっていたようです(現在の姿からは海と接していたことは想像できませんが,この帯曲輪の遺跡が残っており,その面影をしのぶことはできます).

Okayamaensei1_187Okayamaensei1_215(左写真4) 再建された隅櫓,(右同5) 廊下橋

Okayamaensei1_192Okayamaensei1_236(左写真6) 再建された大手門,(右同7) 天守台

 府内城は江戸時代を通じて府内藩の藩庁となりました.藩主は当初の竹中氏(2代)から日根野氏(1代),松平氏(10代)と代わり明治維新を迎えています.明治後廃城となりましたが,一部の櫓などは破壊を免れて現存しています.現在は大分城址公園として整備され,現存する宗門櫓・人質櫓(人質を収容していたことからその名がある)に加えて,いくつかの櫓やさらには大手門などが復元されています.また,かつての西の丸には大分文化会館が置かれており,私が訪問した時には歌謡ショーが行われていました.

Okayamaensei1_242大分府内城へのアクセス: JR大分駅から徒歩15分です.

スタンプの設置場所 文化会館の2階にさりげなく置いてあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.

94ooitafunaijo登城日 2011年1月23日

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2011年10月 6日 (木)

日本100名城スタンプラリー94

日本100名城 岡城(95番)

 日本100名城,九州シリーズもいよいよ大分県の2城を残すのみとなりました.本日のテーマは大分県南部の内陸,阿蘇山にも近い竹田市にある岡城です.

Okayamaensei1_034(写真1) 岡城の入り口

 竹田盆地を流れる大野川の支流,稲葉川と白滝川の間に形成された舌状台地を利用して築かれた典型的な山城です.その歴史は源平争乱の時代,12世紀末にさかのぼり,文治元年(1185年)に源頼朝と対立し追われていた弟の義経を迎えるために,当地の武将緒方惟栄が築城したのが始まりといわれています.その後鎌倉幕府が倒れた後の建武期に,後醍醐天皇方の武将志賀貞朝によって拡張され,この頃から岡城と呼ばれるようになったようです.

Okayamaensei1_039(写真2) 大手門跡,石垣上部の雰囲気が西洋風です.キリシタン大名大友氏の配下の城郭だったためでしょうか.

 以後戦国時代にいたるまで志賀氏の城郭でした(志賀氏は戦国時代まで豊後の地を支配した大友氏の家来筋です).標高300メートルを超える天神山を中心とした城郭は要害を誇り,天正年間の島津氏による豊後侵攻の際もこの岡城のみは島津氏の攻撃をはねかえしているほどです.しかし文禄二年(1593年)に主家の大友氏が秀吉によって改易になると志賀氏も連座して岡城を離れ,その後は当時播磨にいた中川秀成が代わって入封しました.秀成は関ヶ原の戦いで最終的に東軍に属して戦ったことから戦後も所領を安堵され,江戸時代にはこの地に置かれた岡藩の初代藩主となりました.その後は江戸時代を通じて中川氏の支配するところとなり明治に至ったのです.

Okayamaensei1_145(写真3) 有名な本丸石垣の情景です.

 江戸時代の岡城は岡藩の藩庁として整備されました.舌状大地の中心に壮麗な石垣を持つ本丸・二の丸・三の丸の軍事施設が設置される一方,その東西両側に御殿や重臣の屋敷などの居住・行政施設が造られました.本丸には天守的な性格を持つ御三階櫓も置かれていました(18世紀半ばに倒壊したものの後に再建されました).

Okayamaensei1_117Okayamaensei1_062(左写真4) 中川覚左衛門屋敷跡,(右同5) 城内の滝廉太郎の像

 明治後廃城となり,城内の建物はすべて失われてしまいましたが,石垣や郭などの遺構がよく保存されていて,現在は国の史跡として整備されています.明治期の作曲家滝廉太郎が幼少期を過ごしたのがこの地であり,彼の代表作である荒城の月のモデルとなったのがこの岡城と言われており,いまでもJR豊後竹田駅構内ではこの荒城の月が流れています(ただ作詞者土井晩翠は仙台の出身であり,その点からは城のモデルは同じく山城である仙台城ともとれるような気もします).

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岡城へのアクセス: JR豊後竹田駅から徒歩25分程度です.タクシーなら10分かかりません.

スタンプの設置場所 総役所にある料金所に置いてあります

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) ここもとにかく広いので歩く距離が膨大となります.

95okajo登城日 2011年1月23日

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