2026年3月16日 (月)
2026年3月15日 (日)
週末の外食
3月になってやや雨の日が減ってきた感のあるウィントフックですが、この週末も恒例の外食に繰り出しています。
この日やってきたのは市内の高台にあるステーキ屋さん Butcher Block Namibia、ここも定期的に繰り出しているお店です。この日の前菜はエビフライとガーリック・スネイル、ここに来ると大体いつも同じものを頼んでしまいます(まあ美味しいから仕方ないな 笑)。
その後のメインはもちろんステーキ、フィレ肉もいいんですがこの日はサーロインをチョイス、ソースはガーリックバターです。酒は基本的にワインで、この日はスパークリングワインをいただきました。そして、食後はデザート代わりのカクテルを頼んでみました。凍ったものを急に食べたので頭がキーンと痛くなりました(昔の医学用語ではアイスクリーム頭痛と呼ばれたものです)。
2026年3月13日 (金)
告別式
今日は市内の教会で当地のドイツ系住民の方のお葬式があり、聖歌隊で歌うために参加してきました。会場の教会はウィントフックのランドマークとして知られた教会(当地ではChristusKircheと呼ばれ、日本のガイドブックではドイツ教会という表記が一般的)で、その歴史は19世紀に遡り、ドイツ帝国最後の皇帝となったヴィルヘルム2世の支援で建てられたともいわれます。
ここのイベントに参加するのは通算3回目になりますが、今回初めて2回の聖歌隊席ではなく1回の祭壇脇で歌うスタイルでした。曲の音取り自体は易しいのですが、すべてドイツ語なのと最近は老眼が入ってきているため、なかなか大変なのでした。
式は牧師のお話や友人の方のスピーチ、故人が趣味だったトランペットの演奏など厳かな雰囲気の中進みました。興味深かったのは、会場で故人の一生の歩みをまとめたカラーのパンフレットが配られていたこと。日本では結婚式などでこういうものを作ることが多いですが、確かに人生の締めくくりである葬儀の際の配布というのも、友人等の思い出に残るものとして有意義ではないかと思いました(生前から準備しているのか、死後家族や友人が作るのかは不明)。
2026年3月11日 (水)
3月11日
今日3月11日は15年前に東日本大震災が起こった日です。あの日から15年になります。
15年前の2011年3月11日は金曜日でした.朝から良いお天気で,当時の勤務地ではあの日院長も副院長も出張で不在、自分も外来がない日だったので、午前中からお昼にかけては、なんとなくのんびりとした気だるい週末の雰囲気が漂っていた記憶があります.
そんなのんびりムードの昼下がり,2時46分に突然大きな揺れを自覚しました。日本に住んでいれば地震は日常茶飯事です。ちょっと揺れが大きいなとは感じましたが、すぐに収まるだろうと思いじっとしていました。しかし揺れは収まらずむしろ強くなってきたために、これはただ事ではないと感じ、他のドクターと手分けをして病棟に異常がないか確認しに走りました。問題がないことを確認してから医局に戻りテレビを着けたところ、東北の太平洋側を中心とした大きな地震が発生したことを知りました(テロップで仙台市が震度6強と表示されていて青ざめたのを覚えている)。
その後の展開は当時関東地方在住だった人なら理解できると思いますが、津波被害に加えて原子力発電所の事故も重なったことから、人々の不安感が高まり、スーパーから即席めんなどの保存食やミネラルウォーターが次々と消えました。ネット上ではデマ情報が拡散し振り回される人も大勢現れました(この震災は情報通信革命が起こってから初めての広域震災のため、ネット上では玉石混交のたくさんの情報が飛び交い、混乱に拍車をかけた)。不安感が社会を包んだためか、過度な自粛ムードが広がり、様々なイベントが自粛の名のもとに中止されました(ちょうど花見シーズンを向かえるところでしたが、そうしたイベントを行うことが許されない雰囲気があった)。
今振り返ると、あそこまで自粛しなければならない理由はなかったのではないかと感じるのですが、やっぱり日本人は空気に支配されやすい国民性なんだなと痛感しました。それにしても,当時買い占められた即席めんや水はちゃんと消費されたのか心配になります。
大震災はいつやってくるかわからない。それに備えるために普段から準備することは重要です。一方で15年前のように震災の直接的な被災者にならなかった者がどのような行動をとるべきなのかも浮き彫りになりました。そのあたりをしっかりと啓蒙していくことが、いつかやってくるだろう次の大震災での被害を最小限に食い止めることにつながる、そんなことを考えた2026年3月11日でした。
2026年3月 8日 (日)
2026年3月 7日 (土)
ホーリー祭り
今日は市内の某所でインドのホーリー祭が行われ、縁あって参加する機会を得ました。
ホーリー祭はインドやネパールで行われているヒンズー教のお祭りで、豊作祈願のためあるいは悪魔払いのためとのいわれています。赤、黄色、緑の粉を誰彼構わず塗り付ける、かなりにぎやかな祭りです。インド歴のファルグナ月(グレゴリオ暦では2~3月)の満月に行われ、2026年は3月4日がその日にあたるようですが、当地では人々が集まりやすいようにその前後の週末に企画されたとのことです。
インド本国では2日間にわたって行われ、その激しさ(乱痴気ぶり)から逮捕者も出るそうですが、当地では特にそうした事件はなく(笑)、にぎやかに楽しむことができました(大人は当然お酒が入るし)。
ちなみに私ですが、眉がすっかり赤くなり古代中国の「赤眉の乱」みたいになったのでした。
2026年3月 1日 (日)
2026年2月26日 (木)
2・26事件
今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.
1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,クーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.
表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争がありました.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争という側面です.具体的には当時皇道派と呼ばれた財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという隊付きの青年将校(彼らは徴収された兵を通じて当時の農村の荒廃を痛感していた)やそれを支持する軍高官による派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいた皇道派の将官たちは統制派の中堅エリートからは目の上のたんこぶと認識されていました.
皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドンである真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われた結果,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物である永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.
クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようと工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わりました.
将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも影響は及び,さすがに軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.
一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.
この事件によって皇道派は陸軍中枢から一掃され,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増大,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.
2026年2月22日 (日)
Okapuka Safari Lodge
この週末は郊外にあるOkapuka Safari Lodgeに滞在していました。ここは自宅から1時間程度で行けるお手軽な自然保護区です。ウィントフックから北に向かう国道A1号(ナミビア唯一の片側2車線の高速道路)でオカハンジャ方面に進むこと30分強、インターを降りてすぐにロッジのゲートがあります。ここで係員に予約名を告げるとゲートが開き中に入ることができます。ゲートからさらに15分ほど行くとレセプションがあり、そこで受付をして部屋に案内されました。
部屋に荷物を置いてまずはロッジを散策、この日はあいにくの曇り空というわけで気温は低め、プールがあったものの寒いため遊泳は断念しました。ロビーでビールを飲んで一休み、付近にはロッジに飼われていると思しきダチョウが座り込んでいました(笑)。その後こういう場所では定番のゲームドライブに参加します。
この日は我々を含めて8人ほどの参加、さっそく保護区内を走ります。国立公園と違って動物の密度が高いのが保護区の魅力です。少し行くとさっそくシマウマやレイヨウなどの群れがいます。その後もサイやダチョウ(ロビーにいた個体の親戚かは不明)、キリンなどを見ることができました。2時間ほど回った後はサンセットタイム、この日は太陽の姿は見られませんでしたが、ワインをいただきました。
ロッジに戻ったあとは夕食です。この日はチョイスメニューなので、私は前菜がイカフライサラダ、メインはパスタにしました。
翌日も晴れたらプールにでも行こうかと思ったのですが、この日も曇りでした。というわけで残念ですが早めの退散、家に戻ったのでした(一般に当地は午後に雨が降る傾向が強く、万一大雨だった場合悲惨なことになるため。
こうしてつかの間の保護区での週末でした。
2026年2月18日 (水)
当地の防蚊スプレー
今日は当地のドラッグストアで防蚊スプレーを購入しに行ってきました。
ナミビアは国土の大半が砂漠で、基本的には非常に乾燥している国です。ですから蚊や蠅などの有害昆虫が少なく、こうした虫に媒介される感染症(マラリアやデング熱など)も少ないというありがたい土地柄です。ただ、雨季にはある程度まとまった雨が降ることと、近年の異常気象の影響もあって降水量も増えており、北部を中心とした地域では蚊の発生もそれなりにみられるようになってきました。そうした地域に出かけることがあるのと、首都でも蚊が増えている現状から、防蚊スプレーを購入しようとなったものです。
日本ではKINCHOやアース製薬のものが有名ですが、残念ながら当地にはないため、南アフリカ製の同様成分のものを購入しました。人体にかけて虫よけに使うもの(主成分はDEET)、部屋にプッシュするものがあるのは日本と同じです。









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