2025年3月 1日 (土)

3月になりました

 気が付けば3月になりました。3月は日本では年度末ですが、こちらナミビアでは3月21日に独立記念日があり今年は新大統領の就任式が控えているなど、いつもとは違った雰囲気があります。

2025shinsengumifes  一方で今年の2月は元々日数が少ないのに加えて、元大統領の逝去による喪中などもあり、いつも以上にあっという間に過ぎ去った感じがします。そんな2月といえば、ここでも話題に挙げたように第28回ひの新選組パレードの隊士募集が行われていました。この募集期間が2月いっぱいすなわち、2月1日から2月28日までのちょうど一か月間だったんですが、日野市観光協会のHPによると、締め切りの1週間前2月22日の段階で募集総数の156名にはあと少しながら、衣装貸し出し分は定員を超えていて抽選確実という状況だったようです(逆に衣装持ち込み分はまだ余裕あり)。最後の一週間でどうなったかは不明ですが、定員が増えたこともあり昨年一昨年に比べると競争率は下がっていると思われます。

 で、まったくの偶然なんですが、同じ2月1日から2月28日にかけて抽選申し込みが行われていたイベントがあります。それが…

 2026年ウィーン・フィル ニューイヤーコンサートです。

Uinhiru  毎年元旦のお昼にウィーン楽友協会黄金の間で開催され、世界中に配信される超有名コンサートです。日本でも毎年NHKEテレで生中継されるので観たことのある方も多いでしょう(私はほぼ毎年見ています)。そんな有名イベントであるウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのチケット抽選応募期間が2月1日から28日の一か月間なのです。楽友協会黄金の間の座席数は1800程度、そこに毎年数万規模の応募があるんだそうですから、単純倍率で10倍以上です。しかも噂では1800のうち中央付近の良い席数百席は関係者やVIP用のため、我々庶民に割り当てられるのはかなり少なく、そうなるとその倍率は数十倍から下手をすると数百倍になると囁かれています。実際ネット上では「このウィーンフィルの正規抽選で当たったという人の話を聞いたことがない」という声もあり、実は当選者なんてそもそも存在しないのではという陰謀論まで現れています。

 ひの新選組まつりには参加できない私ですが、話のネタにこのニューイヤーコンサートのチケット抽選に応募してみました。発表は3月になってからということですが、まあ宝くじを買った気持ちで待っていたいと思います(というか、万一当たった場合は来年の元旦は何としてもウィーンまでいかなくてはならないため、その根回しを始める必要があります 笑)。

 そんなことを考えた3月1日でした。

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2025年2月27日 (木)

ヌヨマ元大統領の葬列

 今月9日未明に逝去したナミビア共和国初代大統領 サム・ヌヨマ博士、その国葬が今週末に行われるのに先立ち、この日は彼の棺が市内各地を回るイベントが行われました。昨年のガインゴブ第3代大統領の時と同じく、今回も学校は休みとなったようです。その棺が通過する瞬間を目撃できました。

 明日3月1日はインデペンデンス・スタジアムにて追悼のセレモニーが、明後日3月2日は郊外の英雄の丘で埋葬が行われます。

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2025年2月23日 (日)

ヘンデルの誕生日

Img_0  今日2月23日は今上陛下の誕生日で日本では祝日になります。一方この日はバロック時代を代表する作曲家,G. F. ヘンデルの誕生日でもあります(平成年間まではもっぱらこちらで注目していました)。ヘンデルは1685年の2月23日今のドイツの東部にあるハレという町で生まれました。同年生まれのJ. S. バッハは音楽一家でしたが、ヘンデルの家はそうではなく、彼の父はわが子に法律を学ばせようとしたようです。大学にまで入学しましたが、ヘンデル自身は法律よりも音楽に興味があったようで、父の反対を押し切って音楽の道に進むことになります。

 まずは1703年に北ドイツのハンブルグにあるオペラ劇場の奏者となりました。ここでオペラの作曲も始めています。1706年から1710年にかけて音楽修業のためにイタリアに行き、ローマ、ナポリなどを遊学しています。この時当時イタリアで著名だったA.スカルラッティの薫陶を受けたといわれています。

 1710年に帰国したヘンデルは北ドイツにあるハノーヴァー選帝侯の宮廷楽長に招聘されました。ちなみに選帝侯とは、神聖ローマ皇帝位の選挙権を持つ有力な諸侯のことです。25歳でこんな重要な宮廷の楽長になったのですから大出世といえます。しかし彼は就任して間もなくロンドンに渡りました。そしてこの地で新作のオペラを発表したのですが、これがウケて大いに気を良くしたようです。当時のロンドンは産業革命前夜で人口が増えていて、新作音楽に対する需要が旺盛だったのです。

 1711年にいったんハノーヴァーに戻りましたが、ロンドンでの成功体験が忘れられなかったのか、なんと宮廷楽長に在職のまま再びロンドンに渡り、以後二度とドイツに戻ることはなかったのです。言ってみれば仕事を放り投げて外国に逃げてしまったようなものです。雇い主のハノーヴァー選帝侯はどんな気分だったのでしょう.

 しかし事実は小説よりも奇なりと申しますか、その後すごいことになるのです ( ゚Д゚)。

 1714年イギリス国王アンが急死し、17世紀以来のスチュアート朝が断絶してしまいます。イギリス議会では各地にいるスチュアート家の親戚筋から新国王を探すことになったのですが(18世紀当時のイギリスではすでに国の主権は議会に移っており、国王は君臨すれども統治せずの存在になっていた)、そこで白羽の矢がたったのが、なんとかつてヘンデルが捨て去った(笑)ハノーヴァー選帝侯その人でした。実は選帝侯ゲオルグはスチュアート家の血を引く人物だったのです。こうして選帝侯ゲオルグが新イギリス国王ジョージ1世としてイギリスにやってくることになりました(ドイツ語のゲオルグが英語ではジョージになります)。この時に過去のいきさつから新国王と非常に気まずい雰囲気になったヘンデルが、国王と和解するために作ったのが有名な水上の音楽と言われていますが、これは事実ではないようです。

 いずれにせよヘンデルはその生涯の大部分をイギリスで過ごし、1727年には正式にイギリスに帰化しました(名前もドイツ式のゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデルからイギリス式のジョージ・フレデリック・ハンデルになります)。1759年4月14日に当地で亡くなり、その遺体はウエストミンスター寺院に埋葬されています。

 生前のヘンデルはオペラ作曲家として知られていましたが、その後彼のオペラは忘れ去られてしまい,メサイアなどのオラトリオ作品や協奏曲などが代表作とされるようになりました。しかし近年になり再び彼のオペラにも光が当てられるようになり、実際に上演される機会も増えています(2022年秋に新国立劇場で歌劇「ジュリオ・チェーザレ」(ジュリアス・シーザーのイタリア語読み)が上演されたのが記憶に新しい)。

 そんなヘンデルのオペラ作品でよく知られているのが、歌劇「クセルクセス」でしょう。クセルクセスとは古代のペルシャ戦争期のペルシャ王の名前です。この作品の冒頭に登場するクセルクセスによるアリアが非常に有名な「Ombra mai fù(オンブラマイフ)」です.この曲は一般にソプラノによって歌われる機会が多いのですが、実は役柄であるクセルクセスは男性です。男性のアリアをどうしてソプラノが?と思いますが、これは「アリアは華やかでなければならない」という当時の風潮に原因があります。より高音の方が華やかだということで、当時は少年期に去勢することによって、成人してからも変声期前の声質で歌える男性歌手がたくさんいたのです。こういった歌手をカストラートといい、彼らは女性の音域の声を持ちながら、男性並みのスタミナとパワーで歌うことができました。人権云々が叫ばれる現代では再現できない歌手といえます。このアリアを歌うクセルクセスもカストラートの役柄だったわけです。

 日本でこの曲が有名になったのは,なんといっても1980年代に放送されたキャスリーン・バトルが歌ったニッカウィスキーのCMでしょう。故・実相寺昭雄の映像とともに歴史に残るCMじゃないかと思います(この時代、酒のCMにクラシックというのがたくさんあったと思います)。

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2025年2月20日 (木)

職場の車椅子

 本日ウチの職場に新しい車椅子が入りました。

 当地のショップで購入したものですが、2500ナミビアドル(約2万円)と結構お安く購入できました。店にはもっと高い商品もあったのですが、それらとの違いはというとズバリ!タイヤです。値段の高い車椅子のタイヤはいわゆる自転車のタイヤのような空気入りなんですが、今回購入したものはそうではない只の車輪なのでした。

Img_4587 Img_4623(左)当地で買った車いす、(右)空気のないタイヤ

 両者を比較すると空気タイヤの方が乗り心地は良く、特に屋外の道路で使用する場合にはその差は歴然です。ただ今回は職場内でのみ運用する目的であるのと、空気タイヤと違ってパンクの心配が無いという2点からこちらを選択した次第です。

 あまり活躍する機会がない方がいいわけですが、必要時には使われることになるでしょう。

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2025年2月18日 (火)

もんじゃ焼き

 こちらに来てからの食生活ですが、食材は基本的にこちらのものを使いながらなるべく和風に寄せているのが現状です。当地は海があってお寿司の人気が高いのと、それなりの大型スーパーが存在すること等から、キッコーマンの醤油やキューピーマヨネーズ、焼き海苔などが売られていて、アフリカの中では比較的恵まれた環境にあります(生牡蠣や生サーモンもある)。さすがに納豆や明太子などはありませんが(笑)、なんとか飽きないよう工夫して生活しています。

 そんな日々の中で、たまには日本のジャンクフードが食べたい時に作るのが表題のもんじゃ焼きです。関西のお好み焼きに対して関東のもんじゃ焼きなどとも言われますが、出汁とキャベツがあれば作れるのが魅力です。

Img_4511 Img_4513  幸い赴任時にホットプレートを持ってきたため、時々焼いて食べています。もんじゃといえば、ひの新選組まつりでお世話になったコシゾウさんがやっていたお店、竹とんぼを思い出します。竹とんぼのもんじゃには到底及びませんが、もんじゃを食べると当時が懐かしく思い出されます。

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2025年2月13日 (木)

音名

 音楽用語に階名音名があります。階名は日本で言えばドレミファソラシドで表される一連の音階で、どこか適当な音をドに指定すると、そこから全音ー全音ー半音ー全音ー全音ー全音ー半音と上がりながら自動的に決まるものです。これは音階は一定ですが音そのものは何を主音にするかによって決まるため絶対なものではありません。

 一方で音名は音そのものに与えられた名前で、例えばピアノの鍵盤でいえば黒鍵が2つ並んだ左側の白鍵を日本語ではハ音、英語やドイツ語ではC音とし、そこから右に向かって白鍵に日本語ならニホヘトイロ… と名付けられるものです。この音は前述の階名と違って絶対的な音を表します。

 そんな音名、日本では和名が使われるのは稀で、一般的にポピュラー音楽の世界では英語名が、クラシック音楽の世界ではドイツ語名が使われます。英語とドイツ語なんて発音が違うだけで使う文字は一緒だろうと思われますが、さにあらず、和名でいうロ音を英語ではB、ドイツ語ではHと表します。英名ならばCDEFGABCですが、ドイツ名ではCDEFGAHCとなるわけです。じゃあドイツ語のBはどこに行ったんだと思われる向きもありそうですが、ドイツ語のBはHの半音下、すなわちB♭を意味します。英語とドイツの違いはピアノの黒鍵の表現にもあって、英語だと白鍵音の半音上を♯、半音下を♭で表記し、例えばF♯、D♭のように表しますが、ドイツ語では半音上には-is、半音下には-esを付け、Fis、Desのように表すという違いがあります(ちなみに日本語では半音上を嬰、半音下を変と表記し先の例だと嬰へ、変二などと表します)。

Img_4583  当地の合唱練習はドイツ人学校の音楽室を使用しているんですが、そこにこの音名についての英語とドイツ語の説明があって面白かったです。

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2025年2月11日 (火)

郊外の休日

 ヌヨマ元大統領の訃報が流れた週末、実は郊外のホテルでのんびりしていました。

Img_4521 Img_4526  場所はウィントフックの北東、国道1号線沿いのオカハンジャの町から60キロ東に行ったところにあるMidgardというホテルです。ナミビアの宿泊施設は比較的こじんまりしたロッジ(独立した客室が10室程度、ただ敷地はむちゃくちゃ広い)が多いのですが、ここは50室ほどの部屋に加えて会議室などの施設もある大型のホテルです。聞くところによると、首都からさほど遠くないこともあり、学会など各種イベントの会場に利用されることも多いのだそうです(小規模校の修学旅行にも対応可能)。アクティビティはプールやサンセットドライブなど定番のものに加えて、巨大チェスやボーリング場なども完備されています。

Img_4525 Img_4522  普段とは一風変わった休日、夜にはヨーロッパ系の家族連れとともにボーリングに興じた我々でした。

Img_4530 Img_4543  翌朝は周辺のトレッキングに参加、途中の岩場ではリクガメに遭遇するなど意外な生き物を見ることができました。そして丘の上に登ってみると、周囲には青々とした草原と水を湛えた川が見えます。東アフリカなどでは定番すぎる光景ですが、ここナミビアでは雨季のこの時期にしか見られない貴重な景色なのでした。

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2025年2月 9日 (日)

ナミビア初代大統領の逝去

Nujoma  2月9日未明、かねてより病気療養中だったナミビアの初代大統領サム・ヌヨマ博士が95歳で亡くなりました。

 ナミビアはアフリカ諸国の中でも独立が遅く、それが実現したのは1990年のことでした。19世紀後半にドイツ領南西アフリカとしてドイツの植民地となった当地でしたが、第一次世界大戦でドイツが敗れたことから、戦後成立した国際連盟によって南アフリカの委任統治領となり、同国の影響下に置かれることになりました。そして第二次世界大戦後に国際連盟が解散したことを受けて、南アフリカはナミビアの併合を宣言し同国の一部であると主張します。ただ国際的には受け入れられず、さらには当時南アフリカが推進していたアパルトヘイト政策への批判と併せて、南アフリカの国際的な孤立へと繋がっていきます。

 1960年代からナミビアの独立運動が始まり、南西アフリカ人民機構(SWAPO)がその中心となります。1980年代に入り南アのアパルトヘイト政策の後退にあわせて独立運動も盛り上がり、19903月21日に独立が達成されました(南アのアパルトヘイトの撤廃が1991年、ネルソン・マンデラの大統領就任が1994年とナミビア独立の動きと連動しているのが分かります)。このナミビア独立運動を指導し、独立後初代大統領となったのがサム・ヌヨマ氏でした。まさにナミビアにとっては独立の英雄というわけです。彼は2005年まで大統領の座にあり、その後引退しました。

 ナミビアは独立後現在のムブンバ氏で4代目になりますが、アフリカにありがちな法を無視した政権運営やそれに反発するクーデターなどの政治動乱が一度も無く、政治的に安定しているといわれます。これは歴代大統領がすべてSWAPO出身の同年代で独立闘争時代の同志であったことが大きいのかもしれません(維新の志士が政府高官となった明治政府に似ているとも感じます)。

 ナミビアでは昨年の今頃、現役の大統領だったガインゴブ氏が亡くなり国葬が行われました。ヌヨマ氏もすでに引退した身とはいえ、独立の英雄であることを踏まえれば、ガインゴブ氏と同レベルの国葬が行われることは間違いありません。

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2025年2月 5日 (水)

豪雨

 2月4日の当地はかなり激しい雨が降りました。ウィントフックの町はけっこう坂があったりと場所によって勾配差があります。また普段ほとんど雨が降らないという事情から、雨水を処理する下水道が未整備で、ちょっとした大雨が降るとあっという間にアンダーパスなど低いところに水が集中して流れ込んでいきます。その結果、そうした場所に経つ住宅などが浸水する自体になってしまいます。

Pic01  今回の雨はかなり激しかったので、どうなっているのか心配していたのですが、報道によると車が流されるなどして亡くなった人もいるようです(私の住んでいるところは高台なので大丈夫でした)。

 地元のニュース

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2025年2月 3日 (月)

第28回ひの新選組まつりと訃報

 2月の声を聞き、毎年恒例のひの新選組まつりパレードの参加募集案内が発表されました。

 第28回「ひの新選組まつり」新選組隊士パレード参加者募集

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(写真1)昨年第27回のポスター

 このお祭りは毎年新暦で土方歳三の命日に近い5月の第2日曜日とその前日の土曜日に開催されているもので、特に日曜日に行われる隊士パレードと、土曜日にに行われるパレードの隊長役を決める隊士コンテストは例年大いに盛り上がるイベントです。幕末とくに東国諸藩びいきの私はその流れて新選組好きということもあり、200第9回第9回に初参加、その楽しさを知り以後基本的に毎年参加していました。ただコロナ禍の影響はこのお祭りにも及び、パレードは2020年から2022年まで3年連続中止となってしまいました。そしてコロナの5類移行を受けた2023年に規模を縮小して開催、この年は私も参加できました。ただ同年夏からナミビアに転居したこともあり2024年は不参加となっています。2025年2月現在ナミビアに在住しているため、今年も参加はかなわないのですが、遠方の地からお祭りの成功を祈念しています。

Sakunenno(写真2)私が初参加した第9回の出陣式

 コロナ禍以前は衣装貸し出し隊士100人+衣装持ち込み隊士無制限+新選組と同時代の人々十数名という大所帯だったんですが、2023年は感染対策もあって隊士のみ約80人とかなり規模が小さくなってしまいました(なので抽選になった)。2024年もほぼ同規模開催となったようですが、今年は募集人員156名とほぼ倍増、かつての規模に近づいた感があります。ただ一方で新選組本隊の後ろにくっついて独自の空気を醸し出していた同時代の人々(坂本龍馬や西郷隆盛、桂小五郎など倒幕派のほか、山南敬助や伊東甲子太郎など本来なら本隊にいてもおかしくない人物もいる)は枠そのものが消えたまま今年も復活しませんでした(はたして今後復活するのか、このまま消滅するのか興味はあります)。

 そんなひの新選組まつりの募集と前後して、このお祭りの常連で毎年盛り上げに尽力くださっていた方が亡くなったということを関係者から伺いました。私の過去のひのパレレポにもたくさん登場している、レジェンドと呼べる方でたくさんの思い出が残っています。私よりもずっと若かっただけにとても残念です。

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