2019年3月22日 (金)

ココログの仕様が…

 自分がメインで(というか今では唯一)使っているブログがこのココログです.

 先日の記事でも紹介したんですが,今回管理ページが大幅に改訂されました(3月19日からだったもよう).で,その新バージョンで初めて投稿したのが前記事,歌劇「ウェルテル」だったわけですが,従来と比べてだいぶ使いづらくなり,正直これは改正ではなく改悪ではないかというのが正直な印象です.

 その第一は従来ココログは,改行をすると自動的にスペースが半行くらい空く仕様になっていて,これがために段落がわかりやすく見やすいブログになっていました.ところが改定後はそれがルーチンではなくなったのです(文章を入力後,通常エディタで<div>を<p>に変更することで従来パターンへの変更は可能なんですが,いちいちそんなことをしなければならないのは正直不具合です.

 次に画像の入力について.従来は画像入力時に場所やサムネイルの大きさが自由に決められていたんですが,改定後はサムネイルの大きさは基本的に決まっていて,変更が非常に面倒になったという点です.また入力した画像と文章との間に隙間がなく,はっきり言って美しく見やすいとはとても思えない出来栄えになります.先の「ウェルテル」の記事でもプログラム画像と文章との隙間がありません.これでも縦方向はまだ我慢できるんですが,従来のように文章を画像の右側に回り込む形式で書こうとしたら

Img008 こんな感じになってしまいます.画像と文章がくっついてしまっていて,お世辞にも見やすいとは言えないですよね.

 そんな感じになってしまったココログ,スマホ時代に対応したという触れ込みなんですが,いったい運営は何を考えているのかわかりません.とりあえずは自分でなんとかする方法を考えていきたいとは思うんですが,そんなストレスを感じてまでココログを使い続ける意味があるのかどうか… 13年間使ってきた愛着のあるものだけに悲しくなっているビザンチン皇帝でした.

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2019年3月21日 (木)

歌劇「ウェルテル」

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 オペラ鑑賞が大好きな我が家です.新国立劇場のシーズンチケットを購入していることもあって,秋から春のシーズン中は,ほぼ毎月鑑賞している計算になります.今週火曜日の3月19日は表題の歌劇「ウェルテル」を鑑賞してきました.

 このオペラはゲーテの有名な小説である「若きウェルテルの悩み」をマスネがオペラ化したものです.初演は1892年ですから,イタリアのプッチーニが最初の大成功を収めた作品である「マノン・レスコー」の前年にあたります.奇しくもマノン・レスコーの物語はマスネ自身も1884年に先行してオペラ化しています(「マノン」).

 19世紀のフランスのオペラというとグランドオペラと呼ばれるスタイルが一般的です.これは途中にバレエや大合唱が参加するエンターテイメント性の高い幕が挿入されるのが特徴で,非常に舞台が華やかになりますが,一方で物語の進行には全く関係ない部分なので,オペラを劇としてみた場合は,この部分の存在によって劇は停滞することになります.ビゼーの「カルメン」のように起承転結のはっきりしている題材ならそれでもあまり問題になりませんが,本作品のように登場人物の内面の葛藤がメインとなる題材だとグランドオペラのスタイルは全くそぐわないことになります(事実本作品にはそうした幕はない).

 今回の舞台は2016年に制作された二コラ・ジョエル演出の再演です.3年前にも鑑賞していますが,1幕の緑,2幕の青,3幕の灰色と色彩が印象的な舞台です.歌い手はウェルテルにサイミール・ビルグさん,シャルロットに藤村美穂子さん,とにかくこの2人が凄くて圧巻でした.主役級というのはこういう人たちを言うんだろうなと感じた舞台でした.
 

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2019年3月11日 (月)

3月11日

 今日は3月11日,8年前に東日本大震災が発生した忘れられない日です.

 8年前の2011年3月11日は金曜日でした.朝から良いお天気で,私の勤務地ではこの日院長も副院長も出張で不在,自分も外来がない日だったので,午前中からお昼にかけては,なんとなくのんびりとした雰囲気が漂っていた記憶があります.

 そんなのんびりムードの昼下がり,2時46分に突然の揺れを自覚しました.日本に住んでいれば地震は日常茶飯事です.ちょっと揺れが大きいなとは感じましたが,すぐに収まるだろうと思いじっとしていたんですが,収まらずむしろ揺れが強くなってきたため,これはただ事ではないと思い,他のドクターと手分けをして病棟に異常がないか確認しに走りました.問題がないことを確認してから医局に戻りテレビを着けたところ,東北の太平洋側を中心とした大きな地震が発生したことを知りました(テロップで仙台市が震度6強と表示されていて青ざめたのを覚えている).

 その後の展開は当時関東地方在住だった人なら理解できると思いますが,津波被害に加えて原子力発電所の事故も重なったことから,人々の不安感が高まり,スーパーから即席めんなどの保存食やミネラルウォーターが消えました.ネット上ではデマ情報が拡散し振り回される人が現れました(この震災は情報通信革命が起こってから初めての広域震災のため,ネット上では玉石混交のたくさんの情報が飛び交い,混乱に拍車をかけた).不安感が社会を包んだためか,過度な自粛ムードが広がり,様々なイベントが自粛の名のもとに中止されました(ちょうど花見シーズンを向かえるところでしたが,そうしたイベントを行うことが許されない雰囲気があった).

 今振り返ると,あそこまで自粛しなければならない理由はなかったと感じるのですが,やっぱり日本人は空気に支配される国民性なんだなと痛感しました.それにしても,当時買い占められた即席めんや水はちゃんと消費されたのか心配になります.

 大震災はいつやってくるかわからない.それに備えるために普段から準備する(我が家でも各種防災用品を準備している)ことは重要です.一方で8年前のように震災の直接的な被災者にならなかった者がどのような行動をとるべきなのかも浮き彫りになりました.そのあたりをしっかりと啓蒙していくことが,いつかやってくるだろう次の大震災での被害を最小限に食い止めることにつながる.そんなことを考えた2019年3月11日でした.

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2019年3月 8日 (金)

春の陽気

 3月も1週間が経過しました.ここ数日は雨で気温が下がった日もありましたが,今日は一転して快晴の良いお天気でした.

Img_4655 (写真) 職場近くの桜も咲き始めています. 

 すっかり春の陽気となり,気持ちがいいのでお昼は久しぶりに外に出かけました.いった先は…

 ラーメン屋さん (^^;)

 この日食べたのは味噌バターコーンラーメン,なんかカロリーが高そうなイメージですが,この系統のラーメンに目がない時分でした.

Img_4656  確かにカロリーも高そうですが,もやしやわかめ,海苔なども入っているので少しはバランスがとれているかと…

 久しぶりで美味しかったです.

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2019年3月 3日 (日)

3月3日

 今日は3月3日,世間では桃の節句です.ひな祭りといった華やかなイメージの大きいこの日ですが,歴史的には結構重要な事件が起こっている日でもあります.

 日本史関係では特に幕末維新期に重要事件が発生していて,たとえば嘉永七年(1854年)の3月3日に日米和親条約の締結がありました.またその6年後安政七年(1860年)3月3日には有名な桜田門外の変が起こっています.この日大老井伊直弼はひな祭りの祝賀のために江戸城に向かう途中,襲撃を受けたのです.そしてそれから8年後の慶応四年(1868年)3月3日に起こったのが,赤報隊ニセ官軍事件にて首魁とされた相楽総三の処刑です.

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(写真) 左から日米和親条約締結時の老中首座阿部正弘,桜田門外の変で暗殺された井伊直弼,赤報隊の相楽総三とかかわりの深い西郷隆盛

 一方世界史ではロシアのアレクサンドル2世による農奴解放令が1861年,歌劇「カルメン」の初演が1875年,そして第1次世界大戦でロシアが戦争から離脱することが決定したブレスト・リトフスク条約の締結が1918年の3月3日となっています.

 で,そんないろんな記念日がある2019年3月3日は久しぶりに何の予定もない日曜日でした.最近は日曜日というといろんなイベントや出張などが入ってたんですが,この日は一日何もせずに家でゆっくりとしていました(こんな日曜日いつ以来だろうと思ったらなんと去年の11月以来でした 笑).

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2019年3月 2日 (土)

第59回日本寮歌祭

 今日自宅のポストに封書が届いていました.

Img_4653  中央寮歌祭の事務局からのものでした(自分も一応幹事の端くれなので 汗).

 内容はというと,今年は従来の「中央寮歌祭」ではなく,「第59回日本寮歌祭」名義で開催するというものでした.

 日本寮歌祭は日本寮歌振興会の主催で1961年に第1回が東京の文京公会堂で開催され,以後日比谷公会堂や日本武道館を主会場に毎年開催されました.当時は参加は同窓会単位,当日も各校同窓会が順番にステージで代表的な寮歌高唱を行う発表会形式(コンクール形式とも)で行われていました.しかし時代の流れとともに参加者の高齢化が進んだこともあり,2001年の第41回からは個人単位での参加,パーティ会場での宴会形式に変更されました.ただその後も着実に高齢化が進み,旧制高校を現役で知る人々が減っていったことから2010年の第50回をもって終了となったのです.

 ただこうした全国規模での寮歌祭の継続を望む人は多く,その中から生まれたのが中央寮歌祭です.この会の特徴は従来旧制高校主体だった寮歌祭に戦後の新制大学の人々も広く加えた点です.旧制高校を現役で知る方々は今後減る一方なので,このままでは全国各地の寮歌祭はいずれ消滅することになります.他方,現役で寮歌を知らない世代であっても,その理念に共感する人は(私を含めて)多く,そうした人々を積極的に取り入れて,文化としての寮歌を後世に残していこうというのが会のねらいです.

 ただ一方で寮歌はあくまでもそれを肌で知っているもののためにあり,そうした人々の消滅と共に寮歌の消滅もやむを得ないと考えている方々もいます.この辺の議論は難しいのですが,ともあれ第50回で終了する日本寮歌祭の理念を継承しようという趣旨で,翌2011年から中央寮歌祭が始まり,昨年8回目を迎えました(中央寮歌祭は第1回,第2回という数え方はせず,たとえば昨年ならば中央寮歌祭2018と表記).

 その間日本寮歌祭を主催していた日本寮歌振興会では,寮歌伝承の集いという会を行って活動していたのですが,やはり参加者の高齢化と減少という事実に直面し,今回中央寮歌祭と合体して日本寮歌祭として復活させる方針となったようです.そして復活する日本寮歌祭が第59回であることは,この間の中央寮歌祭を暗に第51~第58回であると認識しているんだろうと思われます.

 そんな第59回日本寮歌祭は2019年8月4日(日)に日暮里のホテルラングウッドで開催されます.

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2019年3月 1日 (金)

3月になりました

 すっかりその存在が2千円札みたいになったプレミアムフライデーから一夜明け,気が付いたら3月になっていました.

 花粉症が本格化する時期でもあり,街中でもマスク姿の方を多く見かけます.そういえば自分も昨年はこの時期すごく目が痒くなって,「自分も花粉症か!」と思ったのですが,今年は今のところ大丈夫です.

Img_4552  お昼に近くを散策したら,梅の木にも花がさいていて,季節は春を感じさせます(北国はまだまだ寒いんでしょうが).

 3月といえば異動のシーズン,職場でも転勤者の内示が出て慌ただしい雰囲気になっていました(自分は転勤になりませんが 笑).

 そういえば1か月前はザルツブルクにいたんだよなぁ~ と遠い昔の出来事のように感じてしまうほどいろんなことのあった1か月でした.

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2019年2月28日 (木)

Yahooブログが終了

 ネット上のニュースでYahoo!ブログが終了するという記事が出ていました.

 Yahoo!ブログが2019年12月15日でサービス終了

 私のメインブログはココログですが,以前はYahoo!ブログも並行してやっていた時期もあります(2007年から2014年まで).私自身の趣味が多方面にわたっており,一つのブログだとあまりにもごった煮状態になるため,新選組などの幕末関係,城郭関係はココログ,クラシックや世界史関係はYahoo!ブログという感じで運用していました.

 しかしSNSが普及し始めた2010年頃からはそちらにも手を出し始めたこともあって,2つのブログを同時進行でやっていくのが困難になってきました(ぶっちゃけいうと暇がない 笑).このため自分にとって後発だったYahoo!ブログの方からは手を引き,ココログ一本にしたという次第です.まあ最近ではこのココログすらかろうじて維持している感じですが…

 そんなYahoo!ブログ終了のニュースの一方で,ココログの方から全面リニューアルのお知らせが来ました.

 「ココログ」全面リニューアルのお知らせ

 システムの老朽化とスマホなどPC以外のアイテムがメインにの時代に対応するためのリニューアルのようです(なんだか今更感が強い気がしますが…).かつては個人の情報発信の主要ツールだったブログも,SNSの発達でユーザー減少に歯止めがかからないと言われています.そうした流れの中でとりあえずココログはまだサービスを続けていく(少なくとも,その気はある)ことが分かって一安心なのでした.

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2019年2月26日 (火)

2・26事件

Image_2  今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,官邸でクーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争があります.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのはもちろん皇道派です.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドン的な存在だった真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようといろいろ工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐くらい),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わったのです.

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも累は及び,軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって陸軍内の皇道派は壊滅状態となり,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増し,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

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2019年2月15日 (金)

カール・リヒターの命日

Img300  バレンタインデーの翌日,今日2月15日は20世紀を代表するバッハ研究家カール・リヒターの命日です.

 リヒターは1926年10月15日にドイツ東部のプラウエンで生まれ幼少時からドレスデンの聖十字架教会聖歌隊に属し,ここで変声期とともにバッハの主要カンタータの全パートを歌ったといわれています.第二次大戦後にはバッハの聖地であるライプチヒでオルガンを中心に活動していましたが,社会主義の束縛を嫌い西ドイツのミュンヘンに移りました.そこでミュンヘン音楽大学の教授に就任するとともに,自らのバッハ研究の成果を示すべくミュンヘン・バッハ合唱団,管弦楽団を結成して精力的な演奏活動を行いました.1969年には合唱団・管弦楽団を率いて来日公演を行っています.

 その後も世界各地への演奏旅行と同時に,多数の録音も残しています.その音楽はルター派の真髄である禁欲的な,非常に緊張感の溢れる演奏でしたが,1970年代には次第に緊張感を失いロマン主義的な演奏になってしまったと言われています(マタイ受難曲の1958年版と1979年版を聴き比べると違いがわかります).これは彼自身の体調の悪化が関係しているとする人もいます.

 そして1981年2月15日朝,宿泊先のミュンヘン市内のホテルのフロントに,「胸が苦しい,医者を呼んでくれ」と電話があり,駆けつけたときには亡くなっていたといわれています(状況から考えて急性心筋梗塞だったのではと思います).

Img_1  今ではITの進歩とメディアの多様化から数多くの音楽ソースが迅速かつ手軽に手に入るようになりました.しかし私が高校から大学に入ったのはようやくコンパクトディスク(CD)が普及し始めた時期であり,音楽の主要メディアはいまだにLPレコードでした.LPレコードは現在の音楽ファイルのダウンロードなどとは比較にならないほど生産コストがかかることから,マイナーな(売れそうにない)ジャンルの音楽のレコードは発売すらされず,手に入れるのが大変でした.

 俗にクラシック音楽と呼ばれるジャンルは日本でもそれなりに愛好家がいますが,一言でクラシックといっても多くのカテゴリーがあり人気も様々です.たとえばシンフォニー(交響曲)やコンチェルト(協奏曲)などは日本人に人気のカテゴリーで,昔から数多くのレコードがありました.一方で宗教曲と呼ばれるカテゴリーは日本人にはマイナーで(私が学生時代受講していた音楽史という講義で行ったアンケートでも最も人気薄だった),クラシック愛好家にもあまり知られていなかった分野です.

 17世紀から18世紀のバロック時代を代表する作曲家として,J. S. バッハがいます.音楽の父ともいわれ,日本でもその名を知らない人はいないくらい有名だと思います.しかし,じゃあバッハってどんな曲を作ったのと聞かれると,意外に知られていません.せいぜい嘉門達夫の「鼻から牛乳」で知られる,トッカータとフーガニ短調やG線上のアリアくらいでしょうか.

 実はバッハの主要作品の多くは,200曲にもおよぶ教会カンタータをはじめとする宗教音楽で,マタイ受難曲やロ短調ミサ曲がその代表とされています.ですから宗教音楽がマイナーな日本であまり知られていないのも仕方ないのかもしれません.

 こういうマイナージャンルゆえ,宗教音楽のLPレコードを手に入れるのは大変でした(モーツァルトのレクイエムのようにちょっとはメジャーな作品もありますが).今ではバッハの宗教音楽も数多くの演奏がリリースされており,私達も聴き比べなどができますが,当時はあまり選択肢がなかったのです.そんな時代に比較的入手可能だったのが,アルヒーフから出ていたリヒターの演奏だったのです.ですから私の世代の人間にとってバッハのカンタータを聴くにはリヒターのレコードを聴くのが一番ポピュラーだったのです.ヘルムート・リリング,ついでアーノンクールとレオンハルトのカンタータ全集が完成したのはその後のことでした.

 私が宗教音楽にのめり込んだ学生時代,数多くのリヒターのレコードを買い込んで聴いていたものですが,その中でも特に聞くに残るのが,1988年の2月15日に「カール・リヒター追悼24時間鑑賞会」という企画です.これは同日0時から翌16日0時までひたすらリヒターのレコード(一部CD)を聴きまくるという鬼のような企画です.モーツァルトのレクイエムから始まって,マタイ・ヨハネの両受難曲,ロ短調ミサ,クリスマス・オラトリオはもちろん,英独両版のメサイアや教会カンタータから器楽曲まで、魂をすり減らしながら聴いたのを覚えています.

 そんな暇も体力もない2019年のこの日は夜から彼のいくつかの演奏を鑑賞しているのでした.

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